- Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
- / ISBN・EAN: 9784106038938
作品紹介・あらすじ
小説から見通す世界の「未来」とは。圧倒的な文学案内! トランプ政権誕生で再びブームとなったディストピア小説、ギリシャ神話から18世紀の「少女小説」まで共通する性加害の構造、英語一強主義を揺るがす最新の翻訳論――カズオ・イシグロ、アトウッドから村田沙耶香、多和田葉子まで、危機の時代を映し出す世界文学の最前線を、数々の名作を手がける翻訳家が読み解く。
感想・レビュー・書評
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新連載! 鴻巣友季子「文学は予言する」(No.971)|考える人|新潮社|note
https://note.com/kangaerus/n/nf13d659918ee
文学は予言する | 鴻巣友季子 | 連載一覧 | 考える人| シンプルな暮らし、自分の頭で考える力。知の楽しみにあふれたWebマガジン。 | 新潮社
https://kangaeruhito.jp/articlecat/yogensuru
鴻巣友季子 『文学は予言する』 | 新潮社
https://www.shinchosha.co.jp/book/603893/ -
「ディストピア」「ウーマンフッド」「他者」。
著者がこれまで執筆した書評や時評から浮かび上がってきた三つの大きな主題。それを章タイトルとして意識しながら、大幅に加筆修正をほどこして新たに編まれたのが本書。紹介される作家や作品はカズオ・イシグロや小川洋子、川上美央子など元々大好きで既読のものも多くあるが、多和田葉子、奥泉光など評判は聞いていても未読だったもの、古典文学、「100分で名著のフェミニズム特集」で初めて知った『侍女の物語』など‥次から次へこれは読まねば!と思わされるものばかり。読書案内としても手元に置いておきたい。 -
ディストピア、シスターフッド、他者の視点からまとめられた文学論。
散発的な印象はあるが、それがアクチュアルという意味でもあるのだ。
文学、大事だな。
この本のおかげで読みたい本がまた増えた。 -
我々が小説にのめり込むとき、少なからずその物語を「自分ごと」として体験しながら読んでいることがある。これは自分のことかもしれない、この国のことかもしれない…。確かに多和田さんの『献灯使』『地球にちりばめられて』も小川洋子さんの『密やかな結晶』も川上弘美さんの『大きな鳥にさらわれないよう』も、知らない場所なはずなのに、どこか知っているような気がしながら読んだ。少しゾッとしながら。そうか、これが「ディストピア」小説か。この警鐘にもっと敏感にならねばならんな。SFとの違いもなるほど、わかった。他にも「ウーマンフッド」「他者」のテーマで、本当にたっくさんの文学が紹介されている。リストが欲しい!と思ったら巻末にあった。
また「他者」のところでは、読書を他者や未知との出会いの場とし、作者や主人公が自分と〝近い〟から信頼できる、共感した、だから作品を評価するという均質な感動が溢れているから、学生などには、自分からちょっと遠いなあ、と感じるものを読むことを勧めている、とのこと。納得。 -
朝日新聞その他でチラチラ読んでいた文章を、まとめて読めて有難い。自分が読んできた作品も、作品の位置が明らかにされ、このようにテーマごとに深めてもらったことで、共感や興味も広がったような気がする。
未訳の、読みたい作品もたくさん。面白かった。 -
文学作品の大きな役割のひとつは、社会の中で生起するさまざまな事象の奥にある本質的な課題に光を当てることだと思う。そのためには、物語という形でその本質を描き出していくことが求められる。
この本では、古典からここ数年に発表された作品まで多くの文学作品を取り上げながら、文学作品が描き出す社会の姿を紹介し、文学作品の力や、文学作品を味わうことの意義深さを教えてくれる。
表題の「文学は予言する」というのは、SF作品の中で取り上げられた科学技術が実現したとか、同じような自然災害が実際に起こったという表面的な類似性ではない。我々の潜在的な意識や、当然と思っている社会の仕組みなどの中に、それが極端に走ることによって大きなゆがみや亀裂を社会にもたらす要因が隠されているということを暴くことが、この本で示されている文学による予言である。
筆者はその中でも、「ディストピア」、「ウーマンフッド」、「他者」という3つのテーマに焦点を当てて、この文学の予言する力を解き明かす。
ディストピアは、文学作品の主要なテーマの一つとして、多くの作品に描かれてきた。筆者は、ディストピアの特徴を、少数の独裁者による徹底した管理により作り出される、表面的には穏やかで安定した社会であると述べている。そしてその背後には、婚姻や生殖、知識、文化、芸術に対する抑圧とコントロールがある。
そのような意味では、ディストピア小説は情報技術が発展した未来を描くSFの専売特許ではない。時代の設定を敢えてぼかした作品や、昔のコミュニティや学校の寄宿舎など、ある種懐かしい世界観を持った作品の中にも、ディストピアを描いたものがある。
また、ユートピアとディストピアが対抗概念ではなく、ユートピアの中にディストピアが内包されているという筆者の指摘も、印象的だった。利便性や秩序、能力主義といった仕組みでさえ、ディストピアに転じる可能性があるということを、ディストピア作品は示してくれている。
ウーマンフッドの観点から取り上げられる作品は、女性だけではなく社会の中で声を奪われた人々の存在を描き出しているように感じた。
社会的な発言力を奪うための手段は、地位や発言権を与えないだけではない。固定的な役割やイメージを与えることで、そこからの逸脱を許さないということも、強力な手段となる。
この本の中で筆者は、女性を「聖と魔」と言う両極の型に嵌めることや、「少女」というステレオタイプの登場、ルッキズムの強力な視線などをさまざまな作品の中から取り上げ、これらの作品が訴えていることを掘り下げている。
3つ目のテーマである「他者」は、翻訳者である筆者のこれまでの経験がもっとも生きている章であると感じた。
文学作品を読むというのは、自分とは異なる人格や社会、環境に自らを置くということである。そしてそのような世界を我々に伝えるために、翻訳という営みは非常に重要である。しかし、翻訳というのは非常に議論を呼ぶ行為であるということを、本書を読んで改めて感じさせられた。
世界の情報空間における英語のドミナンスが、少数話者の言語で作品を作る作家と英語の翻訳者の間で、偏った力関係を生むということは、翻訳の現場に長く関わった筆者ならではの指摘であると思う。世界的な文学賞も、英語に訳された作品を審査することが多い。最近では、翻訳されることをあらかじめ想定した作品づくりをする作家もいるという。
一方で、翻訳が難しいと言われた作品を他言語に移し替えることに絶え間ない努力を払ってきた翻訳者もいるということは、翻訳という仕事の重要性を改めて感じさせてくれる。
そして、何よりも多言語の間を行き来することで文学作品の可能性がひろがるという指摘が、印象的であった。可変性を持ち、多言語に置き換えられることで失われるものの代わりに新しい土壌の中でより多くの広がりを得られる力を持った作品が、世界文学になるということである。
そのような文学作品は、唯一の正しい意味や解釈を読者に押しつけるものではない。そして、多様な読みを新たに発見できるということは、文学作品の価値であると思う。
本書の最後に筆者は、近年の文学作品の読まれ方が、スピード重視、共感重視になっていることへの危惧を述べている。それは、「分かる」、「共感できる」ということに重きを置き過ぎているということである。文学作品を通じて他者の世界を体験するということは、必ずしも自分との共通点を見つけて理解するということではない。
自らのいる世界と異なる世界があることを認識すること、そのために素早く結論に着地するのではなく、多様な言語や解釈の間の宙づりの状態で考える力を身につけることが、とても大切であると感じさせられた。 -
登録番号:0142024、請求記号:904/Ko78
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