- Amazon.co.jp ・本 (305ページ)
- / ISBN・EAN: 9784120045172
作品紹介・あらすじ
昭和二十年八月十五日、終戦の玉音放送を聞いた人々の胸に、ある共通の心情が湧き起こった。歴史の彼方に忘れ去られたその一瞬をさぐる、精神史の試み。
感想・レビュー・書評
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桶谷秀昭「昭和精神史」を受けて、その不可能な試みの源泉を考察する。
戦後のあまりの騒々しさや目まぐるしさによって、玉音による「天籟」や「虚無」はかき消されてしまったように見える。今となっては幻想かもしれないし、一度は経験したものの忘れ去られてしまったのかもしれない。しかし本書では、確かに神聖な何かが存在したことが様々な角度から述べられるとともに、読者にたいしてそれを思い起こさせようとする。
玉音による思考停止後に響く「生きよ」という命題。本来であれば米軍上陸の際に、日本は焦土にひゅひゅと風だけが吹く国になるはずだった。ところがその直前で「生きよ」という命題が生じたところに、自分は戦争の欺瞞を感じる。この「天籟」を前にして戦時中の犠牲者はどのように位置づけられているのだろうかと。生者と異なり死者は「天籟」を経験していないのではないかと。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
そもそも八月十五日は何の日だろうか。
国は八月十五日を「終戦記念日」と定めているが、法的には何の日でもない。
八月十四日 ポツダム宣言受諾の日
九月二日 ポツダム宣言を受諾し降伏文書の調印
八月十五日付の朝日新聞に掲載された『玉砂利握りしめつつ宮城を拝しただ涙』という大見出しの記事は、いかにも十五日正午にその場の情景を活写したごとく書かれているけれども、実は前日に書かれたものであり、当日の写真として伝はつている写真のうちにも、事前に撮影されたものがかなりあると指摘されている。
敢えて言うなら、お盆と重ねまつりあげたメディアが作った巧妙な演出の嘘と言わざるを得ない。
昭和天皇に対して不敬を働く気は微塵もないが、概ね八月十五日は、予め録音された詔勅が放送された日という認識だろう。
ならば法律的に終戦記念日を九月二日にしても構わない筈だ。
本書は、そんな低レベルの論考をテーマにしているのではありません。
激動の昭和という時代の精神史に論考し、平成と元号が変遷した今でも所謂 ”戦後” という総括がなされないのは如何なものか…。
今一度原点に立ち、”戦後”を思索しなおしてみると自ずと道は開ける。
そういう意味で、本書は名著だと思うのです。 -
あれは一昨年の夏。産経紙上の「正論」に於いても昭和二十年八月十五日の「あの一瞬」について、著者の意見を拝読してゐました。
その時、なるほど。然り。と漠然ではありながらも、ボクなりに何かしらん物足りなさといふか、何かがひつかゝつたままでゐましたが、この本を読了し、その「何か」が一体なんであつたのか。歴史年表の単なる事象の羅列ではなく、目に見えぬ「精神史」を以て解するやうになりました。
尚、ボクはクリスチャンゆゑに、己にとつての神は「God」であり、この本のなかといふか、日本にあつての「神」とは全く違ふと認識してゐます。
その上で、表題である「神やぶれたまはず」は、日本を愛す国民のひとりとして、御意に読ませていたゞきました。 -
「精神史」という聞きなれない言葉であるが、本書で桶谷秀昭氏の言葉を引用して言うには『「通常の歴史が人間の意識に実現された結果に重点を置くとすれば、実現されなかつた内面を実現された結果と同じ比重において描くといふ方法」が「精神史」の方法』であるという。
昭和二十年八月十五日正午、国家、国民が置かれた極限状況の中での、この瞬間こそが、神と人とが向き合い、互いに結びつく著者のいう「神人対晤の至高の瞬間」であり、この瞬間に日本人は本当の意味での神を得たのである。さらにいえばイエスの死によってキリスト教が敗れて消滅したわけではないように、日本人の神も決して敗れはしなかった。 -
昭和二十年八月十五日、終戦の玉音放送を聞いた人々の胸に、ある共通の心情が湧き起こった。歴史の彼方に忘れ去られたその一瞬をさぐる、精神史の試み。
目次
第1章 折口信夫「神やぶれたまふ」
第2章 橋川文三「『戦争体験』論の意味」
第3章 桶谷秀昭『昭和精神史』
第4章 太宰治「トカトントン」
第5章 伊東静雄の日記
第6章 磯田光一『戦後史の空間』
第7章 吉本隆明『高村光太郎』
第8章 三島由紀夫『英霊の聲』
第9章 「イサク奉献」(旧約聖書『創世記』)
第10章 昭和天皇御製「身はいかならむとも」