- Amazon.co.jp ・本 (321ページ)
- / ISBN・EAN: 9784120046193
感想・レビュー・書評
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大衆論といえば西部邁を個人的にイメージしてしまうのだが、竹内洋はまったく西部邁については言及していない。触れたとしても、「書かれてましたよね」みたいな感じで一行にも満たない感じで触れるだけだ。二人は対談とかしているのだろうか。
それはさておき。
「想像された大衆」を操る知識人・メディアの結託に対する、歴史的・社会学的考察が見事で面白かった。マスコミ知識人やメディアの想像によって作り上げられた人々が、政治・社会を振りまわしているという指摘が肝だ。しかし、では、本当に生きて今働く人々はいったいどうなのだろうか。どこにも存在しておらず、何も意見もないのだろうか。竹内氏は「原恩」や「インテリでもヤンキーでもない堅気で真面目な人」として人々を捉えている。いわゆる第三極としての、普通に生きている人々だ。それは知識人には決して意見としてすくい上げられない。特にリベラルにとっては、こういった人々は「利用」しにくいからだろう。
気になったところを引用していく。
P80
海外ではエルネスト・ラクラウ(一九三五年生)など政治哲学者たちが、ポピュリズムとは何かのポピュリズム原論を専門学術書や専門論文で発表しているが、日本ではそう多くはない。一般書はポピュリズムのレッテルを気に食わない政治家に貼り付け、単体の政治家だけで論じているのが大半である。だから、劇場型政治スタイルがポピュリズムであって、社会運動を組織化するのはポピュリズムではない、と左翼の社会運動を例外扱いにする御都合主義的な記述がまじっている書物もある。
P106
もっともわたしは、戦前日本の指導者の「保身」や「パフォーマンス」という無責任の体系の淵源を天皇制に求める丸山理論には疑問がある。無責任システムは、天皇制ではなく、大衆社会の圧力の強さに求めるべきだとおもうからである。丸山のいうような矮小な指導者は日露戦争までの日本の指導者にはみられないものだったからである。昭和になると男子普通選挙ともあいまって大衆社会圧力が高まり、指導者は「無法者」に媒介された大衆世論に引き回されるようになった。いまそれがテレビ大衆社会の中で再現されているのである。無責任の体系の淵源は天皇制というよりも、それをいうならテレビ天皇制にある。
P178
民主主義をめざす社会主義政党や組合員の福利をめざす労働組合でさえ指導者が自己の権力維持と拡大のための組織としてしまうことは「寡頭制の鉄則」でつとに有名である。「寡頭制の鉄則」とは、政党や労働組合をとわず、いかなる団体においても「少数者支配の傾向が歴然と現出する」というものである。
読む手が止まらないほど面白い本だった。この竹内洋によって築かれた土台は情報社会においては基礎となるものだろうと思う。詳細をみるコメント0件をすべて表示