生物多様性 - 「私」から考える進化・遺伝・生態系 (中公新書)
- 中央公論新社 (2015年2月24日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
- / ISBN・EAN: 9784121023056
感想・レビュー・書評
-
かなり以前になりますが、本川達雄さんの代表作「ゾウの時間 ネズミの時間」を読んでいい刺激をもらいました。久しぶりに本川さんの著作です。
本書は、「生物多様性」についての本川さんの講演内容をもとに編集されたものとのことです。
「生物多様性」を重視する意義を説くにあたり理解しておくべき生態学・進化論・遺伝学等の基本を辿りつつ、本川さん流の考え方を開陳しています。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ナマコを専門とする生物学者が生物多様性がなぜ守られなければならないかを考えた本。
本書の特徴は、生物学者とはいってもナマコの研究が専門なため、著者は生物多様性については門外漢であるというところ。
生物多様性は、生物学のなかでも主に保全生物学や生態学、分類学が扱う領域であるらしい。
そのため、生物多様性についての講演依頼を受けた著者は(基礎は違うとはいえ)我々と同じように本を読んで学んだとのこと。
そうして著者が至ったのが、「なぜ生物多様性を守るべきか」というのは生物多様性というのは価値の問題であり、科学ではなく倫理や哲学の領域の問題であるとの認識。
この認識について生物学者が明示したというところは大事なことだと思う。
自分が論じる事柄がどういう性質のものかというのを自覚することは、議論を交わしたり整理する上で必須だと思う。
著者は当然倫理や哲学については門外漢であり、またまた門外漢ながらそれらの本も読んで学んだというから頭が下がる。
ただ、せっかくそんなに本を読んだのなら参考文献を列挙してくれれば次の読書体験に繋がったのにという不満はある。
この本はそんな著者の謙虚で勤勉な態度のためか、かなり構成的にも内容的にもすっきりまとまっているので、「何を言っているのかよくわからなかった」ということはまずない。
したがって、誰が読んでも無駄にはならないのは間違いない。
ただし、本書の命題の「生物多様性はなぜ大事か(=守られなければならないか)」について同じ結論を得た私でも、その論理展開はあまり納得できなかった。
著者の結論は、「自分にとって自分が大事なものなのは自明である」というところから始まる。
まずこの点について「言うほど自明か?」と思うが、まぁ自分が存在しなければ自分以外の価値に触れることはできないのでそれは良いとする。
著者はここから「では自分というのはただの1個体の範囲だけの存在なのか」と論を進め、「自分の血を分け合った家族や愛着のあるものも喪失すれば自分の一部を失ったかのように感じるのだから、自分というのは単なる1個体ではない」として、「拡張された自分」にも価値があるという。
そして、そういう自分そのものではないが、拡張された自分にも価値を認めていけば、「自分の子どものような時間的な繋がりのある拡張された自分」、「自分の肉体そのものではないが、そこに物理的にアクセスされる周りの環境のような拡張された自分」といったものにも価値があることになる。
拡張された自分という価値を認めるのであれば、その価値が続いていくのに役立つ生物多様性にも価値があるから大事にしよう、と説く。
こうなってくると最早言ったもの勝ちではなかろうか。
もちろん自分以外のものを自分の一部のように思う感覚については共感できる。
しかし、それはあくまでも私の主観的な経験である。
哲学の主観主義と客観主義みたいな話をするわけではないが、そういう感覚があるからそうなんだという説明は、共感はするが納得はできない。
少なくとも私は読んでいて疑問の一部にでも応えられたという感覚はなく、すっきりしない。
そもそもこの本で殊更語るまでもなく、そういう気持ちがあることは誰もが認めているのではないだろうか。
共感できなくて生物多様性なんかどうでもいいと主張する人たちだって、生物多様性を守りたい人たちがそういう気持ちで保全活動の必要を説いていること自体は承知しているだろう。
そういう人たちに「じゃあどこまでが拡張された自分として認められるんだ」と言われても、結局主張する人のさじ加減になってしまう。
もちろん、白黒はっきりつけられるような性質のものではないことはわかるが、不完全でもメルクマールが示されることで説得力が生じるのではなかろうか。
こういうメルクマールがないと、結局は「存在するものはみな大事なんだ」みたいなふわっとした博愛主義と大差なくなってしまい、特に「生物多様性に価値がある」というところにフォーカスした話にはならなくなってしまう。
本書にミッションがあるとしたら、客観的論理的に反論の余地なく論破することは「価値の問題」だから無理だとしても、そこに説得力をもたせることだろう。
この説得力という点において私は納得が得られなかった。
だんだんと「最近は利己主義がすぎる」的な説教が本題みたいな調子になるのも読んでいて萎えてしまった。
ドーキンスの利己的な遺伝子論や近代の原子論的な科学観から利己主題が蔓延しているなどというのも最早反科学主義のお題目のようですらある。
むしろ、これらを語る前提として、本書の半分以上を構成している5〜6章あたりまでは、単純に生物学的な知見を語っているところであって勉強になる。
特に「生物多様性がもたらしてくれるもの」としての生態系サービスやその実例を語るところ、生態系を陸上バイオームと水上バイオームという観点から説明するところは一読の価値があると思う。
これがなかったら☆2という印象。
ただ、この部分も生態系を固定されたもののように捉えていたり、私が他の書籍を読んで得た知識や理解と齟齬があったりした。
特に、生物が進化するのには長い時間がかかるとか、生態系が破壊されたら回復するのに何千年とかかるというあたりはかなり怪しい。
ただ、そういう疑問はそれはそれとして考え方の参考にはなるので、この部分は有益な読書体験だった。
この本を読んだ人や興味がある人には「外来生物は悪者か」(草思社文庫)を勧めたい。
どちらが正確かはただの読書好きの私が保障できるはずもないが、少なくとも私はこちらで語るところはだいたい納得できた -
功利主義は次世代に配慮しない。次世代に人は裁判に立てないから、世代を超えた倫理は成り立たない。
-
筆者は、生物多様性に関しては全くの素人である、と冒頭にことわっている。では何をやっている人かというと、生物学者であるという。生物学者なら生物多様性もお手の物であろうと思うのだが、この世界ではそうではないらしい。筆者の専門は動物生理学で、主にナマコの皮の硬さの研究をやっているのだそうだ。
しかしながら生物学者であるがゆえに、特に2010年のCOP10前後には生物多様性についての講演依頼を、あちこちから受けている。本書はその時の講演内容をもとにまとめられたものである。
新書版ながら改行の少ない文章なので、内容は相当なボリューム。一般的な生物多様性の話に加えて、ダーウィンの進化論やメンデルの遺伝の法則といったあたりの説明もけっこうな紙面を割いている。ただ残念ながら、最後の方になると、ちょっと観念的な領域に足を踏み入れてしまっている。副題は<「私」から考える進化・遺伝・生態系>。 -
私という存在を拡張することで、次世代の人々に価値を持たせ、生物多様性を保護する理由を与える。通常、科学は価値を取り扱わないが、それを踏み出した書である。概ね賛成だが、少し無理矢理な所も感じた。