日本ノンフィクション史 - ルポルタージュからアカデミック・ジャーナリズムまで (中公新書 2427)
- 中央公論新社 (2017年3月21日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (290ページ)
- / ISBN・EAN: 9784121024275
感想・レビュー・書評
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●→本文引用
●ノンフィクションがフィクションの否定形として定義されつつも、物語化を通じてフィクションを生み出していく宿命にあることは序章で指摘した。しかしそうした生み出されたノンフィクション由来のフィクションや、あるいは生まれながらのノンフィクションを含めて、ノンフィクションはそれらを再び自らの内部に取り込んでゆく旺盛な吸収力を備える。フィクションについてもそれが「書かれたという事実」があり、フィクションを書く人間の現実があるし、フィクションに描かれた虚構も文字や映像という形で現実化している。それらはノンフィクションであり、ノンフィクションがフィクションを生み出す一方で、フィクションもまたノンフィクションに織り込まれていく宿命を持っている。(略)こうしてノンフィクションはフィクションを生み出し、生み出されたフィクションがノンフィクションの内側に取り込まれる。ノンフィクションとフィクションは、内部がいつの間にか外部になり、外部がいつのまにか内部になっている「クラインの壺」のようなねじれを伴いつつ繋がり、揺らぎ続ける。ルポルタージュという「物語る報道レポート」の形式を生み出したこと、事実を取り上げた表現の壮大なる総体であったはずのノン・フィクションの語を、そうした物語的ルポルタージュと重ね。その指示内容の幅を狭めて使うようにさせたのはいずれも物語を求める人々の欲望の産物であった。物語が想像力で作られた虚構だという意味ではノンフィクションはフィクションを孕んでいる。しかし事実は物語を超え、物語は事実に取り込まれ、フィクションもノンフィクションに還ってゆく。この作品はノンフィクションなのか、フィクションなのではないかという論争も事実の大海原を微かに騒がせた小さな波であり、時が経てば鎮まってゆく。(略)こうして「ノンフィクションとは何か」を突き詰めて考えてこなかった歴史がさらに延長されてゆくが、その背景に、巨視的にみればノンフィクションとフィクションが相互嵌入状態にある構造が控えていることも一方で意識すべきだろう。そして事実と物語のゆらぎの間で優れたノンフィクションが/ノン・フィクション作品が今後も書かれてゆくだろう。 -
日本のノンフィクションの歴史を戦前の従軍報告から、解き明かす。
言わずもがなであるが、大宅壮一の役割が大きい。 -
2017/4/2