- Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
- / ISBN・EAN: 9784122074484
作品紹介・あらすじ
シラケつつノリ、ノリつつシラケる――。最先端の知の位相を、縦横に、そして軽やかに架橋する。1983年の初刊以来、40年にわたり読みつがれてきた名著、待望の文庫化!ポストモダン/現代思想をはじめて明晰に体系化、1980年代には、「ニュー・アカデミズム」を代表する一冊として、社会現象にもなった。しかし、冷戦終結後30年を経て、世界はいまだポストモダンのパースペクティブを描けていない。本書の理論は、混迷する現代社会・思想状況を理解するうえで、今なお新しい。〈解説〉千葉雅也
感想・レビュー・書評
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1980年代のニューアカデミズムブームを牽引した本。「誰も理解できずファッションとして消費されていた」、まさに堀江貴文が揶揄する、難解な本を読んでいるマウント。裸の王様が闊歩した時代だ。この点について、私の好きな引用を載せてから、少し内容に触れたい。
ー 80年代、思想家はロックスターみたいなものだった。しかし日本ではなかなか翻訳がなかったので、何が凄いのか誰も知らなかった。こうしたムーブが急速に廃れていく。そのきっかけは、物理学者アラン・ソーカルによる一つの論文だ。ソーカルはずっとポストモダンの思想家が物理学や数学の専門用語を濫用することが不満だった。文系の知識人が使う科学的な概念や述語がほとんどデタラメだからだ。そこでソーカルは、そのでたらめを適当につなぎ合わせて論文ぽく仕立て、最も権威があるとされた思想誌に投稿。すると、そのインチキな論文が掲載されてしまった。これにより、実は誰もが論文の内容を全く理解していなかったことが明るみになった。
アラン・ソーカルは欺瞞を暴いた。難解な言葉を弄してマウント取り合うポストモダンブームは終わった。それはまるで、はしゃぎ過ぎた若者が叱られて元気を無くすように。
これを述べてから本書を引くと、書き手のみならず、読み手に対しても共感性羞恥に駆られるかも知れない。何せ、漢字に外来語のルビを振り、敢えて階層を変化させるような造語による換言を繰り返すのだから。黒歴史っぽ。
ー 種に固有の環境としての環境世界が折り合わされ、全体として共存のエコシステムが作り上げられている。このような生きた自然の秩序をピュシスと呼ぶことにする(なぜ?)。ここで方向と意味を同時に表すべく、サンスと言う言葉を導入する(なぜ?)生きた自然からのズレ、ピュシスからの追放。これこそ、人間と社会の学びの出発点。人間は、エコシステムの中に所を得て、安らぐことのできない欠陥生物であり、確定した生のサンスを持ち合わせない、言い換えれば、過剰なサンスを孕んでしまった反自然的存在なのである。
ー サンボリックは、セミオティックな抑圧することによって、スタティックな行動として確立される。一方、セミオティックスは隙をうかがって噴出し、侵犯の眩暈の只中でサンボリックを再流動化し組み換える。
この文を見て、それこそ眩暈がするなら、本書は推奨できない。構造主義とは乱暴に言えば、人間社会に普遍な自然発生的な文化や制度。つまり、どの社会にでも共通な言語ルールがあり、翻訳可能な部分は、構造的。ポスト構造主義とは、翻訳不可能な部分という定義、これは言語に限らず本能行動を起源とした家屋などのハード面やルール秩序などのソフト面にも通用する概念整理。という理解だ。
対して、力というのは、ドゥルーズならば「欲望」、ガタリは「差延」、バタイユの「エロス」、柄谷行人の「資本」など。所謂、構造を作り出す本源的部分。浅田彰がこれらを、構造をつき動かす「力」という概念でまとめたというもの。
ファッションとして思想を着こなす。だからこそ、誰それが言った、という参照の乱用とお披露目会。まるでDCブランドだ。スラムダンクを見てバスケを始め、キャプテン翼でサッカーを始め、ブレイキングダウンで格闘に憧れる。ハイデガーやデリダが思想界のヒーローに。表現は大衆の模倣を誘う事で、人間社会は構造主義的に成り立っている。この模倣こそ「力」だと思えば、本書は社会実験にさえも思える。
しかし、素直にも思う。これは現代の枢軸時代のようで、そんな時代にも生きてみたかったと。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
難解なフランス現代思想をあられもなく解説し、80年代ニューアカブームの火付け役となった本だが、この本を現代思想入門として読むのは誤読だろう。極めて優れた入門書でもあるだけに、評者自身を含めて誤読する者が後を絶たない。だが今思えば浅田の意図は、小難しいことをグダグダ言っても思想なんて所詮この程度、だから「書を捨てよ、町へ出よう!」ということではなかったか。実際この本以降浅田はまともな思想書を書いてない。
出版から15年後の98年に出た東浩紀の『存在論的、郵便的』に対し、「『構造と力』が完全に過去のものとなった」と浅田は言い放つ。これでようやく言論界も現代思想を卒業できるというひそかな期待がこめられていたのかも知れない。だがその後も東の郵便本とともに本書は売れ続け、ちっとも過去とはならず40年後には何と文庫化だ。浅田本人は苦笑してるだろう。これは決して冗談ではない。
もちろん浅田は反知性主義を唱えたわけではない。浅田にとって本物の知性とはどこまでも明晰であることではなかったろうか。それは内輪で盛り上がるだけのお座敷芸と化したアカデミズムでは決してない。この「知性ごっこ」を笑い飛ばすために、敢えてその土俵の上で、恐ろしく大胆に、かつ誰よりもシャープに当時最先端とされた思想をパラフレーズしてみせた。その手捌きは見事という他ない。
思想や哲学について書こうと思えば本格的な研究書をいくつも書けたと思う。だが結局同じことの焼き直しか重箱の隅をほじくることにしかならないと見通していたに違いない。30代以降の浅田は芸術や映画批評など純粋に好きなことだけをやって今に至ったように見える。思想や哲学というものは所詮論理に還元できる(とも言い切れないところに実は思想史の意義もあるのだが、概ね還元できる、またできなくては思想の名に値しない)。浅田が渇望した人文知の本義は還元不能な個別性なのだ。彼が「書を捨て」て芸術作品に向ったのは自然な成行きだ。 -
半月ほどかけてやっと読み通した。いや、読んだなどとは決して口外できない。全く理解していないし、何も残っていない。途中で読むのをやめても良かったが、とりあえず最後まで出て来ることば、固有名詞を追いかけていただけ。最初にコンサマトリーとインストゥルメンタルが登場したときには、わくわくし先を読みたいと思ったのだが、その後は、何も起こらなかった。何が問いなのか、どういう問題意識があって書かれているのかさっぱり分からない。千葉雅也さんの解説を読むことでいくらかは解消されたけれど、やはり分からないものは分からない。そんな中、登場する人名だけは読んでいて懐かしくもあり、わくわくさせられた。外国人の名前はやめておこう。どうせ誰も読んだことはない。森毅(一刀斎)、山口昌男(僕は山口昌哉の方が好みだったが)、今村仁司、栗本真一郎、岩井克人、柄谷行人。僕が読んだ中で本書に登場しなかったのが丸山圭三郎。ノモス、カオス、コスモスの話が今も印象に残っている。中沢新一。2人の間はどういう関係だったのだろうか。後に、浅田彰と柄谷行人が取り組んだNAMに興味を持ち、しばらく追いかけたことがあった。地域通貨とか興味深かった。それから、確か、浅田彰が人文研にいたころか、公開講座を聞きに行ったことがある。中身はすっかり忘れたけれど。結局他に「逃走論」を書いただけで、それ以外に本は書かれなかったようだけれど、その後、どんな仕事をされていたのだろう。芸大に移られた後は、ときどき新聞などで見かける程度になってしまったが。そして、なぜ、本書が40年ぶりに文庫化されたのか。普通、著者自身による文庫版あとがきなどがあるはずだが、本書にそういうものはない。浅田さんは、この文庫化をいったいどう受けとめているのか。そこが知りたい。
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読書会課題本。「あれこれ語られているようで、実は何も語られていない」そんな印象だけが残った。読み終わった後に何も残らない空虚な本だ。こんなのが一昔前に日本の哲学界を席巻していたのかと思うと暗い気持ちになる。特に、最終章での音楽についての議論はまさに噴飯物。
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p.2023/12/27
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最後まで読めませんでした。
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かつてこれほどまで内容についていくことに必死になったことがあっただろうか。
分かっていないと思いながらも、ページを捲る手は止まらず、読み終わった後には独特の読後感が生じた。
1983年に書かれたものであるが、現代に置き換えても考えさせられるところがある。 -
ポスト構造主義とは何か、近代社会とは何かについて記された一冊。全てが理解できずとも確実に世界の見方が変わったし、ある意味自己啓発的な側面もある本だった。
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文庫版で再読。当時の文脈やこの本の重要性が改めてわかった気がしました。ただ、こうした整理をしちゃったから、浅田さんは何も書けなくなっちゃったのかなと思いました。