大聖堂 THE COMPLETE WORKS OF RAYMOND CARVER〈3〉

  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (451ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784124029338

感想・レビュー・書評

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  • カーヴァーは短編の天才だと思いますが、村上春樹の翻訳もイイです。最後の短編、表題の「大聖堂」は素晴らしい作品です。余韻が残ります。

  • カーバーの短編集。一つの失敗もない。完璧

  • レイモンド・カーヴァー。知らない内に随分とこの作家に入れ込んでいる。最初に読んだのは「頼むから静かにしてくれ」という短篇集だった。この短篇集には、読者を最後に放りだすような終わりの物語がいくつも収められていたが、それらの物語が醸し出す余韻に比べて、この「大聖堂」に収められている短篇たちには、もう少し落ち着いた雰囲気が溢れている。時として、物語の終わりはほぼ語り尽くされているかのようでもある。しかし、よく読めば、実際に語られていることは起承転結という意味では結論として提示されているわけではない、こともわかる。それでも、他の短篇集に比べて確実に物語の描かれていない収束点は視野の内に見えている。そのせいかどうか、この短篇集を読んで、カーヴァーの短篇と詩の間に見ていた繋がりのようなものを、より意識できるような気がする。それは恐らく、余韻、というものなのだ。

    解題において訳者村上春樹もこの短篇集の中のベストに挙げているが、収められた中では「ささやかだけれど、役に立つこと」と題された短篇が、やはり秀逸の物語であると思う。カーヴァーの短篇にはいつも子供の扱いに困っている夫婦が登場するように思うけれど、この短篇では珍しく親の愛情というものがストレートに描かれているように思う。読めば解ることだが、実はこの短篇に登場する夫婦もまた、状況としては自分達の子供の物理的な扱いに困っている。しかし、子供は愚図ったり悪態をついたりして夫婦を困らせているわけでは無いのだ。困らせないことで、困らせているのだ。

    カーヴァーの好んで描く図式では、互いに反目し合う夫婦が、子供に対する愛憎ない混ぜな感情をもつ、といったようなものが一つの典型としてあるように思う。言ってみれば、その感情は実は鏡に向かって自分自身へ投げつけている感情であって、子供に対する感情が、親と子という、保護するものと保護されるもの、という関係の間にあるべき感情としてではなく、一人の人間として相対峙する関係に生じる感情として描かれている、とも言えるだろう。鏡は当然その投げつけられた感情を写して投げつけ返す。そしてまた葛藤が生じる。ところが、この短篇においては、子供は、親の感情を、ただただ、吸い取っていくだけだ。夫婦は肉体的にも消耗しているのだが、自らの感情を吸い取られることによって、精神的にもまた消耗してしまう。

    カーヴァーの描く夫婦であればこそ、主人公の二人の間にも、一筋縄では行かない感情のささくれが、厳然としてあるように読み取れる。それは、あまりにカーヴァー的と言えばいえるのだけれど、夫には妻に対する後ろめたさがあるようだ。妻もまた、無意識の内に「家族」という集合から夫を外してしまっている自分に気づいて、はっと、したりする。その辺りから醸し出される雰囲気は、お馴染みのものと言っていいだろう。一方で、カーヴァーの短篇としては珍しいと思うけれど、この物語には、このいつもの夫婦をとりまく人との繋がりが幾つも登場し、気持ちが昂じてしまう設定となっている。子供の誕生日のケーキを焼くように依頼された職人との関係、子供の担当医との関係、などなど。各々の関係は反目のような状態から始まるが、物語の終わりにおいて、その在り方が変わっていく。その新しい状態は、一言でいうならば、赦し、である。そう、この短篇でカーヴァーは、赦し、を終わりとして用意しているのである。これにはとても驚いた。そして思わず胸が詰まった。

    実は、この短篇集に収められている物語の多くからは、赦し、という結論が見えてくる。表題作の「大聖堂」もまたしかり。妻が、長年の友人である盲目の男性にある種の好意を寄せていることが面白くない夫は、盲人に慇懃無礼な態度で接するのだが、最後にあたかもカウンセリングでも受けるかのように盲人に癒されてしまうのだ。もちろん、カーヴァーの描く人間は誰もが傷いついていて、癒しを求めているという点ではいつも通りなのだけれど、この作品では、初期の作品では語られることのなかった収束点がはっきりと明示されていて、読む方としては心の落ち着きがよい。

    初期の短篇に見られるような、若さに裏打ちされた強引さが影をひそめ、円熟した人間観察の視点が作品の芯となっているように思えるのだ。それ故に、いやいや乗せられた車が、猛スピードで走るのをひやひやしながら我慢しているような感じや、急ブレーキを掛けられて体が前に放り出される時の時間の凍結する感じ、というのを、この短篇集では感じることがない。ひやひや感が嫌だと言っている訳ではないのだけれど、人間味としてはこの短篇集に収められている作品の方が、完成度が高いように思う。まあ、作家が全人格的である必要はないとは思うけれども。

    「熱」という短篇にこんな下りがある。妻に逃げられ主人公が、二人の幼子の面倒を見てくれるようになった年老いた女性に、心を開く瞬間の場面だ。主人公は急に熱が出て動けなくなったのだが、女性の介抱で少し体調が戻る。

    「女房は高熱が出るっていうのがどういうものかきちんと記録につけておけって言うんです」とカーライルは言った。「そのときの体の感じについて、詳しく書いておくと役に立つかもしれないと言うんです。あとになって読みかえしてみて、メッセージを把握することができるって」彼は笑った。目にうっすら涙が浮かんだ。

    あっ、と思った。カーヴァー読み始めてこの短篇集が4冊目になるのだけれど、その間に、保坂和志にも巡り合い、柴崎友香を知るに至って、今、何かを書きたいという気持ちがとても高くなっているのが解ったのだ。保坂和志を読んでも、柴崎友香を読んでもそう思ったけれど、カーヴァーを読んでいると本当にその気持ちが強くなるのだ。「熱」に出て来たこんな逸話に、あっと、声をあげそうになるのだ。多分、今、自分は高熱を発しているのに違いない。

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