- Amazon.co.jp ・本 (254ページ)
- / ISBN・EAN: 9784140017258
作品紹介・あらすじ
マルクス主義につながる悪しき思想の根源とされていたヘーゲルは過去のものになる。共同体と人間の関係について徹底的に考えた思想としてヘーゲル哲学を捉えた新しい入門書。
感想・レビュー・書評
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正直最初にこのタイトルをきいたときハウツー本みたいだぞ、と著者は感じたとあるけれど、実際にこの本の終盤はハウツー本になってしまっている。哲学というのは世界認識や世界理解としてありうるときは哲学なのだけれど、それを「実用的」にしようと努め始めると急激にハウツー本にかかれていることと変わらなくなってしまうという現実がある。そしてハウツー本に書かれているようなこと自体は誰でも考えれば思い浮かぶ程度のことでしかなくて、哲学も実用性を重視し始めた瞬間にそうなりうるというのが個人的に感じていることである。無論、著者にとっては哲学は「実用的でならなくては困る」のだろう。なぜなら、それが著者の精神的支柱を為しているからである。これは竹田青嗣にも言える。この二人は似たような境遇である種の絶望を抱えており、そこから哲学を通して再起したという流れがあるので、彼らにっとっては「哲学は自己満足ではならず、他者との関係性において意味を持ちうるもの」となっている。これにまるで対抗するのは中島義道かもしれない。中島義道は哲学の教科書の冒頭で、哲学をして、「趣味の悪い人間による営み」みたいなことを言っていたように思うけれど、個人的にはそれが正鵠を射ていると思う。竹田青嗣はまだしも、西研が思い描く哲学は最終的には誰も彼もが考えているようなレベルのことになってしまっている。ロックやルソーが考えたことは時代を考えれば先を行っていたものの、彼が考えなくとも他の誰かが考えたであろうというレベルのものでしかないが、基本的には西研の哲学はその流れに沿っているし、少なくとも最終的にそれが哲学である必要がなくなってしまっているというのが手痛い反駁だと思うのだけれど、このあたり著者はどう捉えているのだろう?
著者批判はこのくらいにして、しかし著者のヘーゲル理解に関しては深みが感じられる。一方的にヘーゲルを批判せずにヘーゲルを慎重に理解し、評価できるところは評価し批判すべきところは批判してそこへ自分なりの考え方を付与しようとしている姿勢は評価されてしかるべきだ。ヘーゲルは共同体や真理、道徳に拘ったためにポストモダンから批判の的とされている。しかし、共同体という考え方自体は批判されてしかるべきでも、共同性という人間がある種共同体を求めてしまうという性質は無視されるものではない。それは真理も同様であり、道徳が必要とされるのも同じくある。しかしヘーゲルは道徳自体は批判もしている。道徳は一般にカントに用いられた観念であるが、ヘーゲルはフランス革命がその後独裁へと変化して行ったことをして道徳では不十分であると考えている。更に、真理も絶対知という概念をヘーゲルは提唱しているものの、著者によるとヘーゲル自体はしかしそれほど突飛なことを望んでいたのではなくて、「みんなにとって」が実現される社会が達成されるということを指していたのではないか?とヘーゲルを擁護している。個人的にヘーゲルが進歩史観をとったことに対して反感を抱いていたのだけれども、ヘーゲルがルソーやカントを評価し、しかし彼らの理想が集約されたフランス革命が成功しなかったこという事態に直面したときに、ヘーゲルは少なくとも今現在これと言える真理が存在するとは言えず、それがすぐに達成されるとも言えないということを悟ったのだろうと思う。それゆえに今は無理だがいつか達成される、今はそのための進捗段階なのだという方向に思考をスライドさせたのだと思う。これはある種の逃避であるが、フランス革命が失敗した以上、理想社会を目指すならばむしろこれ以外の考え方はなかったのだろうと思われる。ただ、これは明らかにヘーゲルの主観によって段階付けられているので、このあたりが若干微妙となってくる。歴史は進歩史観を取らざるを得ないが、進歩というもの自体が解釈であるとも言えるように感じられるのだ。逆に言えば、ヘーゲルの進歩史観が出現する土壌として、社会契約論が強くあったということは知っておくべきなのだろう。その観点でヘーゲルは哲学者でもあると同時に社会思想家でもあったのである。
また、個人的にはヘーゲルが理想社会の実現を望んだということよりも、彼の現象学が固定的な主観と客観を排すというフッサールの現象学や、自己の定義により世界も異なってくるというハイデガーの現存在分析などの考え方と類似している箇所が非情に面白く感じられる。更に時代に無理にあてはめようとしたからこそ無理が生じたものの、意識、自己意識、理性などによる成長理論もフロイト以降の臨床心理思想との関連性も見受けられ、非情に先見的な明を持っていた人物であるとしてこの点は非情に評価に値すると思う。ただ、個人的には哲学は「自分のためのもの」だと思う。もし、自分のためのものにしたくないのならば、それなら社会学や社会思想などに行けばいいのであって、哲学である必要はない。哲学者と思想家は異なるのである。性格には枝分かれしているというのがいいのかもしれない。科学も哲学から枝分かれしたし、社会思想も枝分かれしたというのが個人的な印象だ。それでも、哲学と思想はほぼ同義で扱われていたり、実際に思想に歴代の哲学者が頻繁に登場したりするけれど、それはあくまで過去の哲学者を引っ張り出しているに過ぎず、思想家はやはり枝分かれした後の人たちなのだろうと思われる。本著自体はヘーゲル理解という観点からすれば良書となりうるけれど、哲学を実用的とするかどうかでかなり意見が異なっているのではないかと感じる。個人的には哲学を判断基準に据えるというのはいいと思うのだけれど、実用的にするというのは少し違うのではないのかなあと感じる。いえ、西研は正論なのだけれど、正論すぎて少々胡散臭いのである。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ヘーゲルの思想を、よく批判される国家論としてでなく、自分と世界との関わり方を論じたものとして、紹介する。ルソーやカントの思想との関係・比較、あるいはキリスト教の思想との関係も交えて語られるヘーゲルの思想はわかりやすく、頭の整理になる。ただ、どこまでがヘーゲルの思想でどこからが著者の思想であるのかわからなくなるとことがある。それだけ著者がヘーゲルの思想と自分を生を重ねて読んでいるということなのだろうが。
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○ ヘーゲル哲学の解釈本。哲学の面白さのひとつは、虎の威をかるなんとかのように同じ文面を引用して世界的に『右派、左派』が存在する事だと思うのだが、ヘーゲルという哲学は、捉える枠が大きいので左派的解釈にもやはり少しづつ違いがある事を気づいてくる著。他の解釈本と一緒に読むと違いが見えて楽しめると思います。
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ヘーゲルの『精神現象学』『法権利の哲学』を読み解きながら、社会と人間のあるべき姿を探っていく。
タイトルに「大人のなり方」とあるように独りよがりにならず、社会性をもって成熟して行くにはどうすべきかという問題意識がある。
ヘーゲルは国家に関して、過ちまたは後世の誤解を受けたことを率直に認める筆致が清々しく、その上で、いったん先入観を捨てて、反省=振り返ることを意識していく姿勢は、学ぶべきことが多い。
発刊から20年がたっているが今読んでも色あせることはない。 -
『知的複眼思考法』で紹介されていて、古い本だったので中古で購読。
アウフヘーベンの考え方が、仕事の中での思考法にも応用できるのかなと思っていたが、アウフヘーベンには全く触れられていない。一番紙面を割いて解説している『精神の現象学』に出てくる言葉のようなので、そう思って読むと、これがアウフヘーベンなのかなと思えるところはある(”歴史は大きく自由と共同性を達成する方向へと進みつつある。『精神の現象学』は何よりも、このことを主張するものだった”とか)
ではあるが、一番の気付きは、偉大な哲学者も一人の人間であり、その思考が導かれた背景、当時の社会情勢やその人個人にとってどんなタイミングだったのか、そんなことに当然大きな影響を受ける。一人の人間にとっては長い人生、ずっと同じ論調なわけもなく、成長なのか、少なくとも変わっていくということだ。 -
大人のなりかた、というタイトルがいい。語り口がとても優しい。
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著者自身のメッセージが、ストレートに語られているヘーゲル入門書です。とくに第2章では、初期ヘーゲルが格闘した問題が独自の観点から掘り下げられています。
著者は、『キリスト教の精神とその運命』のアブラハム論とニーチェのキリスト教批判とを対比しています。自立した個人であることをめざしたアブラハムにとって、全世界はよそよそしいものとして現われることになります。そしてアブラハムは、絶対的な力をもつ神に服従することを通じて、みずからに対立する世界を間接的に「支配」したと、ヘーゲルは考えます。これは、ルサンチマンを抱いた弱者が、神を打ち立てることによって自己を正当化する「倒錯」をおこなったという、ニーチェのアブラハム批判に通じるところがあると指摘されています。ただし、ヘーゲルが批判しようとしたのは、共同性を拒否するアブラハムの世界に対する憎しみの感情だったと著者は述べて、ニーチェとの違いを明らかにします。
若きヘーゲルは、共同性に対する憎しみを抱いている個人と、彼が生まれ出た共同性との「和解」を可能にする「愛」に基づく社会を夢見ていました。しかし、愛は人びとのあいだに通う「合一の感情」にすぎません。愛を原理とする社会は限られた範囲のものとならざるをえないし、けっして永続することはありません。こうしてヘーゲルは、「愛」の宗教から、現実の共同性に通じる道を「自覚」する哲学へと歩みはじめます。
本書では、こうした若きヘーゲルの問題意識から、後年の『精神現象学』と『法哲学』がなにを達成し、なにを達成できなかったのかを論じています。そして、自己の内なる理想を、他者とのかかわりを通して鍛えあげることや、現実の世界のなかで挫折してしまうことなくみずからの理想を肯定するための可能性を探っていくことの大切さを、読者に語りかけています。 -
2017.9.21
良心の章が最も感銘を受けた。行動する良心は自らの内的確信に従い、無批判に、個別普遍的価値を実現しようと行動する。批判する良心は、それに対し批判を行い、それは本当に普遍性を持ち得ると言えるのかと問うが、自らの普遍性を現実によって試すことをせず、傷を負わない場所から意見だけ述べている。
両者の和解から見えることは、普遍性とは確信という形でしかありえないし、完全な普遍性はありえないということである。我々は限られた時間を生き、それぞれの過去を持つ。普遍性の根拠はみんな、つまりこれまで経験してきた「関係の束」である。私の人生の少ない時間で経験した関係なんてたかが知れている。しかし私はその経験から、限られた関係=他者から、「みんな」を考えてしまう。これが普遍性の罠である。行動する良心の欠点とは、この限定性に無批判であり、自分の普遍性に対する反省にかけている点であり、批判する良心の欠点は、この普遍性を行動によって、現実によって陶冶することからの逃避である。
自らの普遍性を反省するとき、その普遍性は壊れるだろう。自らの普遍性を現実に試すとき、その普遍性も壊れるだろう。普遍性の崩壊は人格に傷を負わせることになる。なぜなら普遍性の根拠は承認欲求であり、普遍性において自己価値を得ているからである。それは大きな傷であるが、しかしそれは大きな一歩である。なぜなら、自らの持つ普遍性は限定された普遍性であり、目の前の他者はまた私と同じように限られた普遍性を持つ存在であり、私の頭の中にある「みんな」からはみ出した「他者」と、普遍性を交換し合うことが、自らの普遍性を破壊し、より良いものに再構築するということを知るからである。そしてそれは、閉じられた普遍性の中にいて他者と対立する時の関係の苦しみよりも、互いをひもときながらわかり合うという関係の喜びの可能性に開かれている。
自らの持つ普遍性の外側にいる他者に開かれていること、これを仮に「無への開示性」と呼ぶとする。すると人間の意識の物語は、個別性から普遍性へ、個別性と普遍性の弁証法的統合により良心へ、そして普遍性と普遍性の対立から無への開示性へ至る、ということになる。これは私には衝撃の思想である。こういう答えがあるか・・・。
しかしまだ納得はしきれない。普遍性から剥がされる経験はなかなか苦しいものである。また私は相手を自らの普遍性に縛らずに理解しようと努める傍、自分の持つ普遍性も発言して行かなければならない。それは相対化しつつ述べるという行為になるし、また相対化しつつ理解するという行為にもなり、そうしてバラバラにしたものから新たな関係の喜びを得られる別案を構築するというイメージで考えられるだろう。これは果たして可能だろうか。これを可能にするにはどういう視点から何を見ればいいのだろうか。まだまだ難しいが、「異なる価値観を持つ人間が分かり合うための可能性を探る」という私の課題は、一つ、道筋が見えてきたような気もする。