- Amazon.co.jp ・本 (237ページ)
- / ISBN・EAN: 9784140019962
作品紹介・あらすじ
絵画は何のために在るのか?写真の登場によって、二十世紀の画家たちは物を見た目そっくりに描くことを超えて絵画の新たな役割・手法を模索する。視覚によらず感覚を通して世界の在るがままの姿を把握し描こうとしたマチス、ピカソ、ルオー、そしてジャコメッティ。この困難な課題に挑んだ彼ら四人の軌跡を通して、二十世紀絵画に明快な鑑賞の指針を与える力作。
感想・レビュー・書評
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「セザンヌの息子たち」ともいうべき、マティス、ピカソ、ジャコメッティ、ルオーの絵画を題材にした「哲学的なお話」といった感じの本です。とくに第3章以降は、著者の思索が先走っているように感じられるところもありましたが、全体的にはおもしろく読みました。
著者の議論は、写真機の登場以後、絵画を描くということの意味が変化したという主張からはじまります。この変化を敏感に察知し、絵画の向かうべき新たな方向性を提示したのがモネでした。画家は「見る」ことができるけれども、写真機は「見る」ことはありません。こすいて、画家にとって「見える通り」に描く印象派の手法は、それまでのアカデミックなリアリズム絵画とは違う、絵画のあり方を切り開いたと著者は述べます。
「視覚」に基づいて描いたモネに対して、セザンヌは「感覚」に基づいて描こうとしました。著者はベルクソンの議論を参照しつつ、知覚は行動に移るために主体が環境から切り出した情報であるのに対し、感覚は主体自身の内に生じる出来事だとしています。そのうえで、セザンヌはサント・ヴィクトワール山を前にして感覚される「万物照応」(correspondance)を絵画において実現することをめざしたと論じられます。
マティスは、セザンヌが色によって実現しようとしたことを、線によって実現しようとしたと語られます。ひとがメロンのことを話すとき、「こんなに大きなメロンがあってね!」と、空間に両腕でメロンの形を描き出すことがありますが、画家がデッサンするときに線によって描かれるものを取り囲むのは、これと同じことだと著者はいいます。それは、表現するものと表現されるものとを、二重にして成立させる身振りと解釈されることになります。
さらに著者は、社会的記号作用によってバラバラにされたり歪められたりする現実を描くピカソ、白い画面に黒い線で切込みを入れることで、対象への通路を開こうとするジャコメッティ、何も表現することのない質料(matiere)の厚塗りによって〈在るもの〉としての神への信仰を表現したルオーの絵画を読み解いています。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
著者には20世紀最大の哲学者の一人、アンリ・ベルクソンに関する著書もあるだけに、本書は『物質と記憶』でベルクソンの定義したイマージュという概念に多くを負っている。
私たちの視覚はとうていカメラには及ばない。しかし眼によって無意識に取捨選択が行われているがゆえの世界像というものがある。その世界像は、愛や信念といったもので媒介されている。 -
プロローグ 写真以後の絵画は何をするのか
第一章 「感覚の絵画」の誕生 セザンヌからマチスへ
第二章 純粋感覚とは何か マチスからピカソへ
第三章 見えないものに向かって ピカソからジャコメッティへ
第四章 絵画は何のために在るのか ジャコメッティからルオーへ
あとがき
本文掲載図版一覧
(目次より) -
難解・・・かなり頑張って読んだが理解できたのは半分程度かな。セザンヌからマチス、ピカソ、ジャコメッティ、ルオーへと繋がりを持ちながら理論を展開。
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5人の画家に沿って20世紀絵画の系譜を辿る企画。
バトンタッチしていくのが面白い。
この画家の選択はとても素晴らしいし、図版が多いのも嬉しい。
でも、文章は決してわかりやすいとは言えない。
なんでかなぁ。
どうすれば、絵画をわかりやすく表現できるんだろう。