デカルト―「われ思う」のは誰か (シリーズ・哲学のエッセンス)

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著者 : 斎藤慶典
  • 日本放送出版協会 (2003年5月発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (126ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784140093078

デカルト―「われ思う」のは誰か (シリーズ・哲学のエッセンス)の感想・レビュー・書評

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  • 久々に哲学書なぞ読んでみましたが流石に難解で初見では全く頭に入って来ませんでした。だから何回も何回も同じところを読み見返しながら進めて、やっと読了…言い訳がましくも言いますが、神の存在や宇宙の存在を突き詰めて考えるなんて、そんな事を時間かけてやってるヒマなんてないし、結局答えを見つけることなんて出来やしないと考えるのが一般的じゃないでしょうか。それでも稀にですが、神を感じるある瞬間に出会ったり、夜空を見上げて星の彼方に思いを馳せたりすることは誰だって一度や二度なら体験してたりするだろうと思う。今こうやって文章を入力している自分自身が実は夢の中の行動であって、次の瞬間、目が醒めるかもしれない…そんな自分は本当に存在しているのか?そんな事を真剣に考える。500年ほど前の世界にはそんな人いっぱいいたのかな…そう言う風に考えると面白いですね。冗談みたいな気がするなぁ。けど神や宇宙や心の存在や真理を知ってみたいと思う気持ちは素晴らしいと思います。僕も知ってみたい。
    社会生活や人生において様々な場面や状況に直面しながら自然の脅威や神がかった偶然を目の当たりにし、なぜか我を振り返ったりしたりして…
    目に見るものが全てではないだろうし、
    感じ取ることなんて出来ない大きな流れとかあったりする。
    そう言うの上手くキャッチして咀嚼して嚥下できるように、小さい考え方も大きく見る方法も学んでおきたいと思う。
    一回では理解できなくてもまた機会があれば
    哲学には是非触れてみたい。とても面白いです。

  • デカルトの「神の存在証明」に絞って、著者自らの考察を展開する。デカルトの「神の存在証明」については、様々な解説書で問題点が指摘されるものの、いまひとつすっきりしなかったが、この本のおかげで、少し頭が整理できた気がする。

  • かつて『方法序説』を読んだ際、我思う、ゆえに我あり、までは理解の範疇にあったが、神の存在証明が腑に落ちなかった。しかし、本書を通して、我思うの部分、そして神の存在証明について、脱構築した本書は、真に腑に落ちるものであった。またもや、生きることの深淵を、哲学することによって覗き込めた思いがする。いまさら、デカルトと対話する意義は大いにあったのだ。


    ・P71:「私」=「ある」=「思考すること」=「感ずること」
    ・P110:デカルトは神の「存在」を証明したというが、そもそも神という「無限」は「思うこと」がこととする「理解」をはみ出してしまうことだったのだから、そしてそれに対して「存在」とは「思うこと」において「理解」可能な事態だったのだから(あるいは「存在」と「思うこと」は同じことだったのだから)、「無限」なる神は「存在」ですらないのである。

  • 初めてちゃんと哲学の本を読んだ。最初は文章の意味がわからなかったが、途中からなんとなくわかってきた。

    デカルトの言葉は有名だが、そのちゃんとした意味やどのようにその言葉がうまれたかはよく知らなかったため勉強になった。

  • 著者みずからデカルトの思考をたどりなおすことで、デカルトとは別の到達地を探ろうとする試み。内容は、「何かが現象してしまっている」という事態を問う、斎藤慶典の他の著書と大きな違いはない。文体もいつもの斎藤節だ。

    デカルトが懐疑の果てに見いだしたのは、「今、私には何かが見えると思われ、聞こえると思われ、暖かいと思われるというこのことは、確かである」ということ、つまり「思われ」ているそのことは、絶対に疑いえないということだった。だが著者は、デカルトがこの「思われ」を「考える私」と言い換えている点に、重大な取り違えがあるという。

    著者は、「思われ」は「思考するもの(者)」でも「思考されるもの」でもなく、むしろ「思考するもの」と「思考されるもの」が、そのうちで初めて成立するような、端的な「……と思われること」それ自体なのではないかと言う。そうした「思われ」こそが、すべてがその内で姿を現わすような「世界の母胎」なのであって、そのうちでしか「何かが疑いうる」とか「疑いえない」という事態も成立しない。そうだとすれば、この「思われ」は、けっして「絶対に疑いえない」といえるようなものではない。あらゆる思考がその内で成立し、それ自体はもはや思考されることのない限界に、デカルトの思索は逢着していたのにも関わらず、彼はそうした事態を「考える私」と取り違えてしまったのではないかと、著者はいうのである。

    ところで、そうした「思われ」それ事態は、すべてがその内で姿を現わす「場所」なのであり、その「外部」は存在しない。だが著者は、「思われ」それ自体を、その「外部」を考えることのできないような「一個の全体」として見て取るということは、どのようなことなのかと問う。一個の完結した全体としての「思われ」が考えられているとき、私たちはけっして「外部」を持たないはずの「思われ」の「外部」に広がる「無限」に触れるのではないだろうか。著者はこのように考え、私の内にある「無限」の観念が、私自身によって生み出すことができないことから、「無限」なる神の存在を証明するデカルトの議論を、上のような議論へと読み変える試みをおこなっている。

  • [ 内容 ]
    究極の懐疑はどこへ向かうのか。
    自らの生をよりよく導くために絶対に疑いえないものを求めた方法的懐疑はどこへ向かうのか。
    神の存在証明は成り立つのか。
    デカルトが行き着いた極限の思考の営みを解き明かす。

    [ 目次 ]
    序章 哲学とは何か(死んだものとの対話;「よき生」のために)
    第1章 「われ思う」のは誰か(夢;狂気;「私」とは何か)
    第2章 「われ思う」に他者はいるか(観念の起源へ;「無限」ということ)

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    [ 関連図書 ]


    [ 参考となる書評 ]

  • 予備知識として助かりました。

  • 最近、疑問に思っていたことに対してデカルトが答えに近いものをくれました。デカルトの生き方自体にも、考え方にもとてもわくわくします。
    わたしは全然哲学なんて読んだ事なかったけれど、わかりやすく丁寧に書いてあっておもしろかったです。NHK出版は分かりやすくそして興味のでるものが多い気がします。
    この世界(?)の一番確かな(?)もの(?)
    と、言葉にすると結局真実ではなくなってしまいそうなのにうまくうまく説明されています。
    『思われ』自体が真実で『思われ』自体が『私』で『思われ』の外は『思われの外』と思った時点で『思われ』てしまっている。
    う〜んおもしろいです。

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デカルト―「われ思う」のは誰か (シリーズ・哲学のエッセンス)の作品紹介

究極の懐疑はどこへ向かうのか。自らの生をよりよく導くために絶対に疑いえないものを求めた方法的懐疑はどこへ向かうのか。神の存在証明は成り立つのか。デカルトが行き着いた極限の思考の営みを解き明かす。

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