大乗仏教―ブッダの教えはどこへ向かうのか (NHK出版新書 572)
- NHK出版 (2019年1月10日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (280ページ)
- / ISBN・EAN: 9784140885727
感想・レビュー・書評
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大乗仏教について、歴史的背景から教義の内容、宗派の違いまでがとにかくわかりやすい。対話形式だからかな?他の著作も読んでみたい。
・小乗仏教(釈迦の仏教)は「自分の力で道を切り開く」、救いの拠り所は自分自身。
・浄土教は超他力本願。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
大乗仏教では、凡人が仏陀になるためには仏陀に出会わなければならない、と考えるため、すでに釈迦が死んでしまったこの世界で如何にして仏陀に出会えるようにするかが要点となってくる。大乗仏教の主要な経典では、仏陀に出会える根拠付けが多様な仕方で説明されており、非常に面白い。人はみな過去(前世)に仏陀に出会っていると考えてみたり、釈迦仏陀は実は死んでいないとしてみたり(久遠実成)、パラレルワールドに仏陀はいると言ってみたり、仏陀はあらゆる世界にいて仏陀ネットワークを形成していると想像してみたり、1人1人の中に仏陀はいると主張してみたり、と想像力豊かで多様な仏陀イメージが出てきて楽しい。
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めちゃくちゃおもしろかった。
私は、釈迦の仏教(「私」という虚構を実在と感じてしまうことがあらゆる苦しみの原因であり、それを取り除くことで輪廻から離脱して至高の安楽に至ることができる)のうち輪廻や業を除く部分に強く同意しつつ、精神をそこまで高めたいと願いながら世俗にまみれて暮らす自称修行者に過ぎないが、大乗仏教と釈迦の教えの関係がいまいちわかっていなかったため、本書が大変参考になったし、何より、仏教が発展しつつ変化していく様が生き生きと描かれていて楽しかった。
釈迦の仏教「『私』は虚構。肉体や感覚という実在の集合体に勝手に意味とまとまりを見出だしているに過ぎない。無我に至れば苦しみは消える。善行であろうが業に頼る限り輪廻からの離脱はない。悟るためには生産活動に携わらず修行に全エネルギーを注ぎ込め」
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般若経「肉体も感覚も全て存在しない。『空』という超越的法則だけが存在する。そしてその法則に照らせば、善行という業のエネルギーにより悟りの境地にたどり着くこともできる。」でハードル下がって信者激増
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浄土教「釈迦を凌駕する絶対的存在である『阿弥陀仏』のエネルギーで成仏できるから、阿弥陀仏のいる極楽浄土へ行こう!そうすれば皆ブッダになれる」→「もう、阿弥陀仏が全ての者を救ってくださることが決定しているから、我々は感謝するだけ。極楽浄土に行くこと自体が目的で、そこでは皆幸せに暮らせる」でもはやキリスト教のGODと同質。信者爆発的増加
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華厳経「盧遮那仏は宇宙そのものであり同時にあらゆる微塵の中にも存在する。全てであり部分である。」
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大乗涅槃経「全ての者の中にブッダが既に存在している」で釈迦の否定した自我を大前提とする
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禅宗「自らの内なるブッダを見つけるために瞑想し自分と向き合え」で瞑想と内面を見つめる部分は釈迦の仏教と共通するも目的の前提が全然違うものに
という風な関係か。途中からブッダのインフレが凄まじいが、それぞれの時代背景の中で救済手段として求められた歴史があり、それぞれに意義のある多様な宗教であることがよくわかった。
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ブッダの仏教から大きく離れていった大乗仏教や日本の仏教について、最新の情報をもとに、それらの成り立ちから、相違、存在意義、問題点が詳しく書いてあります。講師(著者)が青年に個人講義をする会話形式で進め、私たちが日ごろ疑問に思っていることに応え、仏教の全体像が見えてきます。原始仏教、大乗仏教、日本の仏教である法華経や浄土教や禅宗を理解して、私たちがこれからどのように仏教に対処してゆけばよいのか考えてゆくのに有益です。知らない事実が多すぎて目を見張ります。佐々木閑氏が鈴木大拙の著書の翻訳家であり、その価値とともに問題点を披露しているのも意外でした。
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以前から仏教に興味を持ち、それなりに学んできたつもりだったが、各宗派の教義の違いはおろか、上座部仏教と大乗仏教の違いにさえ頓着していなかったことを今更ながら気づかされた。研究者は自身の専門性が上がるほど、素人が何をわからないのかがわからなくなるものだが、この本では対話形式の妙もあって、素人でも自然に深い理解が得られるよう導かれる。良書。
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●大乗仏教は、本来の釈迦の教えとは異なる別個の宗教である。釈迦の仏教では出家修行を最重要視している。自分自身が拠り所。
●真の安楽とは、悟りを開いて涅槃に到達することを指します。生きることは苦しみなので、六道輪廻から抜け出すことは最上の安楽。
●大乗仏教は、外部の人を救いの拠り所と考えた。
●昔から伝わっているお経には書かれていないけれども、論理的に正しければそれは釈迦の教えと考えてよいのではないか、と主張する人が現れる。
●お釈迦様も六道輪廻を繰り返してブッダなった。という事は途中でウサギになったりしているはずである。ウサギは出家ができない、にもかかわらずブッダになるということは、出家をしなくても良いと言うふうに考えられないのか?
●般若経は、私たちは既にブッダに会って、将来ブッダになる誓いを立てるいる。だから菩薩なんだ。誰もが実践可能な宗教にするためアイデアをひねり出した答えが「空」の概念だった。
●般若心経は、呪文?耳なし芳一 -
大乗仏教の入門書という位置付けだけど、知らないことが一杯だった。
まずは、釈迦の仏教と大乗仏教がかなり違う、ということ。ある程度、違うことはわかっているが、やはり大乗仏教の国に生きていると、ブッダの教えの連続性の方に目がいく。が、やはり根源的なところで違うんだな。
その断絶が最初に現れたのが般若経。般若心経は、これまで関心を持って関連図書を読んできたが、そんなにブッダの教えとここでそこまで違ったかというのは驚きだ。そして、大乗仏教の理論化に貢献した龍樹については、著者はレトリックと詭弁で評価されすぎであると一蹴。そうか〜と。
で、法華経になるとさらに変質は進み、浄土経などなどとどんどん違うものになっていく。ある意味、禅になるとほぼ中国の道教状態になってしまうのだが、なぜかここで一周回って原始仏教とのつながりがここで少しできてくる。
私は、日本の仏教がオリジナルからかなり変質したものになっていて、その原因は極めて日本的な事情があったんだろうと思っていたのだが、そのベースとなるお経がもともと原始仏教とはかなり違う教えになっていたんだな〜と思った。(もちろん、著者のスタンスとして、日本の宗派の違いをその経典の違いで説明しようという意図があって、そういうことになっている側面もあると思うのだが)
では、釈迦の教えから外れた大乗仏教に意味はないかというと、その教えによって幸せになれる人がいるならば、それでいいではないかというスタンスでそれはそうかなと思う。
最後に、東アジアの仏教において重要な位置をもつ「大乗起信論」は、実はインドで書かれたものではなく、中国で書かれたもの。それもオリジナルではなく、中国の経典などからの引用を集めたパッチワークで、それをインドの馬鳴という人が書いたとした偽文書であることがわかったというトピックを紹介している。このことは、これからの大乗仏教理解に大きな影響を与えるとのこと。
その顛末は面白かったのだが、著者の論理でいけば、そうかもしれないが、それで幸せになった人がいるなら、それでいいんじゃないかということになるはずなのだが、どうしてそれがそんなに大事なことかはわからなかった。
大乗仏教の経典って、「お釈迦さまはこういった」という形で、後世にどんどん経典を作り、それにさらなるお経を書き足していったものなので、大乗仏教の解説書、理論書がパッチワークであることくらい大したことではないように思える。
で、それがそういう本だとしても、これまでそれが大事だと思っていた人がいるのなら、それはそれでいいんじゃないかと思ってしまった。 -
2023/06/14
大乗仏教、よ〜くわかった!
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釈迦の仏教から
大乗仏教
その分化へ。
多様性は、結局のところ「かんたんさ」によって担保されていく。 -
青年と講師の対話形式で、大乗仏教の成立とその思想について解説している本です。
初期仏教と大乗仏教のちがいを押さえたうえで、『般若経』や『法華経』、『華厳経』などの大乗経典や、浄土教および禅などの教えについて、大胆な比喩を用いながらわかりやすく説明がなされています。また補講として、大竹晋による『大乗起信論』研究の紹介がおこなわれています。
「おわりにかえて」で著者は、「大乗仏教が釈迦の教えとどれくらい隔たったものであり、その一方でどういう点に共通性があるのかを、できるだけ客観的に提示すること」が本書のねらいであると述べています。それとともに著者は、富永仲基の仏教批判を紹介して、著者自身もまた、実証的な観点から大乗仏教の歴史を解き明かしてきた仏教学の立場に立脚していることを明確にしています。
実証的な仏教学の成果を、仏教についてのくわしい知識をもたない読者に紹介している入門書としては、親しみやすい内容の本だと感じました。大乗仏教が初期仏教からかけ離れた教説を含んでいることを明らかにしつつ、そうした多様な教説がさまざまな人びとにとっての救いとなってきたことに、宗教としての意義を認めるべきだということを、著者は随所で語っています。ただ、こうした著者の宗教観それ自体には、個人的にはあまり魅力を感じられなかったのですが、仏教学の研究者としてはこれが良心的な態度だというべきなのかもしれません。