西田幾多郎 『善の研究』 2019年10月 (NHK100分de名著)
- NHK出版 (2019年9月25日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (121ページ)
- / ISBN・EAN: 9784142231041
感想・レビュー・書評
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2021.03 『世界の古典 必読の名作・傑作200冊』より
http://naokis.doorblog.jp/archives/Koten_SatoMasaru.html詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
たぶんあと3回くらい読まないと分からなそう(ほんとか)なんだけど、ときどき、スコンとわかるときがある。
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・彼にとって哲学とは、専門家が物事を考えるための道具ではなく、市井の人々が人生と深く交わるためのものであり、そういった哲学を生み出したかったのです。
・飢えた人々が食べものを求めるように叡智を求めた。そんな時代が70年ほど前にはあったのです。
・知識と情意の二つが揃わないと哲学は始まらない。頭脳が明晰なだけでは哲学は始まらない。頭脳と同時に心も育み、開花していかなければならない。
・西田哲学の特徴は「動揺」。世界は動き、私たちの心は揺れる。一瞬たりともおなじ世界は存在しない。西田がいう「実在」とおなじ意味でもある。
・書物に物語を読む。早急に結論を求めるのではなく、著者が歩いた道を私たちもまた、私たちなりに歩いてみる。彼がみたものを、私たちも自分の人生を反芻しながら発見していく。
・この本には「問い」と「問いの深まり」があるだけで、結論は示されていない。山頂を目指していくというよりも、彼と一緒に山中を迷っていくことに他ならない。
・真の意味での読書とは、言葉という船に乗って「問い」という海を旅すること。プールのような場所でものを眺めることもできるが、そこには生きたものはいない。
・哲学は人間を救い得るか。あるいは哲学は人間を救いの道へ導くことができるか。これが西田の生涯を通じた問題であった。こうした問いを内包していたからこそ、戦後の人々の魂の飢えを満たすような波及力があったのではないか
・私たちは「生けるもの」を生きた存在として感じるとき、内なる愛情を持ってそれに接する。だが、愛が失われた目で世界を見るとき、「生けるもの」は生命なきもの、すなわち「止まっているもの」であるかのように映る。
・親と子では、心ではそれぞれに入れ替われるほど互いを「わがこと」として感じることができる。愛とはそのような、お互いの心を感じ合うものだ
・「私」が主語になると世界はとても狭くなる。「私」がいなければ世界は存在しないかもしれない。
しかし「私」が深くなっていくと、表層意識の「私」ではない本当の自己である「わたし」が世界の底に触れていこうとする。これが西田のいう「善」の世界。
・★他者が「いのち」によって紡いだ言葉を読むとき、それを単なる情報として「知」のちからだけで読み解こうとしても無理である。読む側もまた「いのち」でそれを感じ直さなくてはならない。
・愛する本を読むとき、私たちはほとんど無意識に、書き手の「いのち」の声を聞き取ろうとしているのではないか。西田の言葉は私たちの「いのち」に呼びかけてくる。
・西田のいう宗教とは、宗教的宗派とは異なる、「大いなるはたらき」のこと。
「神」は人間を超えながら、同時に私たちの心に内在する。遠くを思いつつ、我が身の内に神をさがせ。それが西田の神の理解。
・私たちの生の意味は、自分が「自分」と感じているものを育てることではなく、「自己の意識を破りて働く堂々たる宇宙的精神」を生きてみる実験実践にある。
・社会生活における「個」と、他者と共にある「個」は両立し得る。この二つの個が共に開花することが、西田がいう「善」である。
・self-realization=自己が円満(完全)なる発達を遂げる
・真の禅者の目覚めは個人の出来事では終わらない。この中で起こり、無数の他者に拡がる。(ユングのいうところの集合的無意識
・善は概念として語られるものではなく、行為によって体現されるべきものである。
・「善」は私たちの中に存在している。しかし多くの人にとって、その種子は何かに覆われていたり埋まっているため、見えないことが多い。私たちはそれを「光一」によって発見し、体得しなくてはならない
・「善」を会得するためには、外に探しに行ってはならない。見出さなくてはならないものは、すでに私たちの中にある。獲得するのではなく、すでにあるものを見つけようとするところに「善行」が生まれる。 -
人は自己の意識のみならず大いなるものに生かされているという視点は、上手くいかないことがあっても努力を絶やさない姿勢が大切だということを教えてくれる。
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https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/92_nishida/index.html
認識する主体/認識される対象という二元論によって構築されてきた西洋哲学。それを乗り超えるために格闘してきた西田幾多郎は、「愛」という独自の概念で、「知」のあり方を根本から問い直す。冷たく対象を突き放すのではなく、あえて対象に飛び込み没入していくことで対象の本質をつかみとる作用を「愛」と呼び、「知」の中にその作用を取り戻そうというのだ。第一回は、西洋近代哲学の限界を乗り超え、「知」の新たな形を追求した西田幾多郎の奥深い思索に迫っていく。
旧来多くの倫理学は、善と悪を外在的な基準から位置づけ判断してきた。しかし、西田が東洋思想から練り上げていった独自の哲学では、善は人間の中に「可能性」として伏在しており、いかにしてそれを開花させていくかが重要であるという。そのためには、主体/客体という敷居を超えて、「他者のことを我がこととしてとらえる」視座が必要であり、真にその境地に立てたときに、「人格」が実現される。それこそが善なのである。第二回は、西田がこの著作の根本に据えた「善とは何か」という問いに迫っていく。
「愛」や「善」といった概念を、主観と客観に二分しない独自の思考法から再定義していく西田哲学。その根幹を支えるのが「純粋経験」という特異な概念だ。たとえば、音楽を聴くという体験は音源から伝わる空気の振動を感覚器官がとらえるという物質過程ではなく、主体も客体も分離される以前のあるがままの経験が何にも先立って存在する。これを「純粋経験」という。この立場から世界を見つめると、私たちが「実在」とみなしてきたものは、単なる抽象的な物体ではなく、世界の根底でうごめている「一なるもの」の「働き」としてとらえ直されるという。第三回は、合理主義的な思考では排除されてきた人間本 来の豊かな経験を取り戻すために、「純粋経験」や「実在」といった西田独自の概念を読み解いていく。
「善の研究」をベースにして西田はさらに自らの哲学を発展させてゆく。そんな彼が晩年にたどり着いたのが「絶対矛盾的自己同一」という概念だった。主観と客観、善と悪、一と多といった一見対立する者同士が実は相補的であり、根源においては同一であるというこの考え方は、自らの子供と死別するという実体験を通して獲得したものだと若松さんはいう。生と死は一見矛盾しながらも、その対立を超えて一つにつながっているものだという西田の直観がこの思想を生んだのだ。第四回は、西田哲学の中で最も難解とされる「絶対矛盾的自己同一」という概念を解きほぐし、人間にとっての生と死の深い意味や、矛盾対立を超える叡知を学ぶ。 -
「西田幾多郎『善の研究』」若松英輔著、NHK出版、2019.10.01
121p ¥566 C9410 (2019.12.07読了)(2019.09.26購入)
【目次】
【はじめに】名著を読む真の意味
第1回 生きることの「問い」
第2回 「善」とは何か
第3回 「純粋経験」と「実在」
第4回 「生」と「死」を超えて
☆関連図書(既読)
「愛と認識との出発」倉田百三著、角川文庫、1950.06.30
「出家とその弟子」倉田百三著、角川文庫、1951.08.20
「禅と日本文化」鈴木大拙著・北川桃雄訳、岩波新書、1940.09.30
「内村鑑三『代表的日本人』」若松英輔著、NHK出版、2016.01.01
「石牟礼道子『苦海浄土』」若松英輔著、NHK出版、2016.09.01
「神谷美恵子『生きがいについて』」若松英輔著、NHK出版、2018.05.01
「for ティーンズ」ヤマザキマリ・瀬名秀明・若松英輔・木ノ下裕一著、NHK出版、2018.08.01
「特別授業『自分の感受性くらい』」若松英輔著、NHK出版、2018.12.30
内容紹介(amazon)
その文章を3行読めたら、あなたの人生が変わる──
日本一難解な書として呼び声高い『善の研究』。しかし、読む順番を変えれば、意外なほどに腑に落ちる。戦後に人々の渇いた心を潤した哲学には、どんな人生への示唆が詰まっているのか。「知と愛」「善」「純粋経験」……西田幾多郎がその過酷な生涯でつむいだ言葉の数々から、「生きる」ことの本質を見出していく。 -
100de名著を観て、読んでみたくなった一冊。
純粋経験と実在
という善の研究でのハイライトの箇所はとても考え深いものだった。ありのままを見ることがどれだけ難しいかは、自分が色んな考え方によって物事を捉えているかを考えれば容易にわかる。
すべての物事の本質を見ることの面白さを(難しさもだけど)感じられた。 -
19/09/26。
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2019年10月100分de名著『善の研究』
その文章を3行読めたら、あなたの人生が変わる。
西田幾多郎さんの名著が話題。講師は若松英輔さんです。