恥辱

  • 早川書房
3.64
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本棚登録 : 165
感想 : 19
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  • Amazon.co.jp ・本 (290ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784152083159

作品紹介・あらすじ

52歳のケープタウン大学教授デヴィッド・ラウリーは、二度の離婚を経験し、以来、欲望に関してはうまく処理してきたつもりだった。だが、ひとりの教え子と関係をもった時から事態はすっかり変わった。胸高鳴る日々も束の間、その学生から告発されて辞任に追い込まれてしまったのだ。仕事も友人も失ったデヴィッドは、娘がきりもりする片田舎の農場へ転がり込む。誰からも見捨てられた彼を受け入れてくれる娘の温かさ、自立した生き方に触れることで恥辱を忘れ、粉砕されたプライドを繕おうとする。だが、ようやく取り戻したかに見えた平穏な日々を突き崩すようなある事件が…。転落し、自分の人生を見つめ直すことになった男の審判の日々を描く。この作品で二度のブッカー賞に輝く不世出の作家が贈る、落ちゆく人生を彷徨う男の物語。

感想・レビュー・書評

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  • わたしには難解な小説だったような読後感。ブッカー賞を2度 ノーベル賞も受賞した作者、初めて読んだけど、やはり文化や環境の違いですんなり理解できないもどかしさが強かった。それでも引き込まれて一息に読了。話は南アフリカを舞台に大学教授職も友人も家族も自らの不始末で失っていく初老の男が安寧を求めた娘の住環境にも馴染むことが叶わず彷徨いが続く。

  • 読後感…身を切り裂かれるような辛い想い。でも読むべき作品。
    それでも人は生きていくのだ!

  • えっ、ちょっと待って、これでおしまい?置いてきぼりを食らったような結末。
    性欲をコントロールできない孤独な初老のインテリ男。自分のセクシャルハラスメントを美しい文学で粉飾し正当化する。そして、大学から追放される。
    娘の身の処し方は常識では理解し難い。しかし彼女にとっては大事なものを死守するための唯一の選択肢。犬になってでも守るべきものがあると。
    犬のような彼は犬の運命を自分の手中にする。

    読後、主人公に対しての共感は皆無。作者も読者に対して共感を求めていないはず。苦々しい読後感。男の欲望丸出しのセクシャルハラスメント、それを正当化することに利用される文学、暴力と凌辱による植民地主義への反抗、それを受け入れてでも自分の土地と生活を死守しようとする現代の若者の生き方…

  • 他人に干渉したいよねーできないよねー

  •  序盤で、ブレイクの預言詩(プロフェシー)からの引用「なさぬ望みを胸に抱えているより、みどりごはその揺籠で殺めよ」があり、最近大江健三郎読んでた身としては──というか『個人的な体験』の主題というのはこの詩この箇所であったから、まるで読書という行為によって別の本が引き寄せられたかのような錯覚をおぼえた。そうでなくともこの小説にある"犬"および"犬殺し"というモチーフは大江のデビュー作『奇妙な仕事』に通じているわけで……なんというか……南アフリカの作家が書いた小説を読みながら日本作家を感じるというか……つまり……こう……ジュディ・オングが歌うところの"Wind is blowing from Aegean"というか……"好きな男の腕の中でも違う男の夢を見る"というか……"Uh Ah, Uh Ah"っていう言語外の気分になった。

     原理として気分というのは言葉にならない。"気分"でなくともいい。"感覚"でもいい。 言葉というツールは人間が利便性と効率のために創造したにすぎず、気分だとか感覚だとかいうのは犬にだってある。山羊にだって羊にだってある。それでは"恥辱"というのはどうか。これも人間特有ではなく、おそらく動物にもあるだろう。本当にそうか?

     主人公のデヴィッド・ラウリーは都会で暮らし、年齢を鑑みれば過分な性生活をしている。大学教授の職にありながら、甲斐を感じず、オペラの執筆を夢想している。読み始めた当初はシンプルに胸糞悪いジジィめとだけ思っていたが、スキャンダルで査問会にかけられるシーンでのデヴィッドの行動はそれまでの読者の抱く認知と外れたしらこい態度になっている。それは老成や達観もしくは諦念というよりは無関心であり、とにかく更生をしないというその一点の執着によって支えられている。しろよ。と思うし、田舎の娘を訪ねた彼がかの査問を「恥辱」と看做したことには違和感がある。恥辱とは査問会のメンバーが彼に強い、しかし成せなかったことだ。
    それをして恥辱とは、文字通り厚顔無恥であると私なんかは思う。ある種の倫理的欠落によって恥辱を免れたデヴィッドは、しかし彼の(おそらく)教養に立脚した社会性への無関心よりもさらに厳格な「田舎の現実主義」に敗北する。田舎における現実主義とは、自然およびそこに生きる動物たちの摂理である。弱肉強食があり、食物連鎖がある。生きるために屠殺があり、存続のために搾取がある。そこには理想や希望ないし絶望という目に見えないものの介在する余地はなく、ただただ生命がその原始的な本能に因って活動するひとくさりの時間と事象だけが連続する。
     デヴィッドは娘宅への襲撃に端を発する田舎の現実主義に対して、今度こそ"恥辱"を味わうことになる。SNSなどで小説の感想を眺めていたら彼の怒りはお門違いであるなぜなら彼もまたレイプまがいの性的搾取を行使していたんだから!というのがあったが、娘宅への襲撃における強姦と、デヴィッドが都会で行なっていた性生活は前提の俎上が異なっている。デヴィッドが行っていた買春や教え子との姦通は、そのどちらもが資本主義的もしくは権威主義的な立場の上下関係において行われている。だから端的にセクハラであり性暴力である。田舎において行われる襲撃と強姦は、田舎の現実主義のもと"厳格に"行われており、だから襲撃者たちは被害者に対して"怒りをおぼえながら"暴力を振るったとされている。つまり田舎の現実主義の前に倫理や法律という都会の視点を持ち込んだところで無意味なのであり(逆に都会ではそれが絶対のものとしてあるのでデヴィッドは裁かれるわけで)、その、都会の倫理観が田舎の人々たちの意に介されないことこそがデヴィッドの恥辱の本質なのだと思う。都会と反りが合わずに半ば意識的に離脱した彼が田舎に排斥される。宙ぶらりんな状態で不満と怒りは募っていくだろう。

     小説の裏書に「没落する男の再生」というようなことが書いてあったが、この小説における"再生"とは何か。
    人間性を取り戻すことが再生なのだとしたら、ある意味ではそれは叶っているのかもしれない。上述の「田舎の現実主義」の前に、カッコつけた無頼のそぶりが打ち砕かれて、自分はどこまでも資本主義的ないし権威主義的であったと無意識であれ打ちのめされるということか。しかしながら、「再生」がこの小説の着地点に据えられていると前提すれば、彼の消極的な都会的倫理観のめばえというのは結末ではない。ゆえに再生とはおそらくこのことではない。小説の結論としての再生とは、都会的倫理的から本格的に脱され、つまりもう二度と、都会で通用する"人間の心"みたいなものを取り戻せなくなるまで自然に回帰することだろう。愛着をもった三本足の犬を、愛着を持ちながらにしてなんの感慨なしに屠殺する。「犬たちに分からないのはあの部屋の奥で何が行われているか」と書いてあるが、本質においてデヴィッドも分からなくなっている。生命を奪うことや暴力を振るうこととは、そこに大いなる意志が介在するものではなく、もっとあっけないただの事象である。この小説では自然回帰を「犬(のよう)になる」と表現している。犬が動物の象徴というのはおもしろいと思う。犬とはそもそも太古、人間によって、人間にあわせて改造された動物だからだ。人間のためにつくりあげられた犬をして、人間の対極に比喩されている。ここにはねじくれた冷笑がある。私はそう思う。それゆえに、まだ私は都会的倫理観のしもべたる人間であると自分で思うが、クッツェーからすれば未熟と看做される状態なのだろうか?

  • 1999年ブッカー賞

  • 【Entertainment】恥辱 / J.M. クッツェー / 20190112 / (3/735)<290/105281>
    ◆きっかけ
    ・組合図書室で発見。冬休み用一冊に。

    ◆感想
    ・同著者二度めのブッカー賞受賞作品+ノーベル文学賞受賞、という期待感に沿った名作だった。南アをに性、老い、死、家族などの様々なモチーフが内包されており、人種間の軋轢も背景に窺い知る。
    ・小説はオープンエンディングで幕を閉じる。救いも解決も無い物語に不思議な読後感。自らの意思で堕ちて行き、辿り着いた現状を悲嘆せず自分自身を傍観している彼の胸中は読者に委ねられている。
    ・本の帯にある果てしない転落、はまさにその通り、しかし、そこから一歩も引かずに恥辱にまみれながら、淡々と生き抜いていく彼はすごい。

    ◆引用
    ・どの女もひとりひとりが私を豊かにしてくれた。

  • 途中これはどうなるんだろうかと結構のめり込んで読んでいたのに完全に肩透かしを食らわされた感あり。
    主人公と読者の彷徨のシンクロナイズを狙ったんだろうか?そんなことないよなぁ、、、とにかく読者に考え込ませるのではなく、ただ沈黙に陥ってしまう感じかな。
    ところで、日本語訳で娘が父を絶えず「あなた」と呼び続けていたんですけど、これは両者の絶対的距離感を表現するための選択だったんでしょうか?何か違和感を感じなくはなかったけれど、まさかyouをそのまま訳してみましただけみたいなことはないですよね、、、

  • 老いてもこんなに性欲があるものなんですかね。
    主人公よりも、娘の気持ちが全く理解出来なくて苛々。

  • 序盤、主人公教授が気もち悪くて読むのやめようかとおもったけれど、あっけなく転落したから読み進めたんだけれど・・・・。
    読みやすいし面白いから2日くらいで読めたのに、すごく疲れた。
    登場人物全員、理解できる人間が一人もいなかった。
    なんだかどんよりするなぁ。

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著者プロフィール

1940年、ケープタウン生まれ。ケープタウン大学で文学と数学の学位を取得して渡英、65年に奨学金を得てテキサス大学オースティン校へ、ベケットの文体研究で博士号取得。68年からニューヨーク州立大学で教壇に立つが、永住ビザがおりず、71年に南アフリカに帰国。以後ケープタウン大学を拠点に米国の大学でも教えながら執筆。初の小説『ダスクランズ』を皮切りに、南アフリカや、ヨーロッパと植民地の歴史を遡及し、意表をつく、寓意性に富む作品を発表して南アのCNA賞、仏のフェミナ賞ほか、世界の文学賞を多数受賞。83年『マイケル・K』、99年『恥辱』で英国のブッカー賞を史上初のダブル受賞。03年にノーベル文学賞受賞。02年から南オーストラリアのアデレード郊外に住み、14年から「南の文学」を提唱し、南部アフリカ、オーストラリア、ラテンアメリカ諸国をつなぐ新たな文学活動を展開する。
著書『サマータイム、青年時代、少年時代——辺境からの三つの〈自伝〉』、『スペインの家——三つの物語』、『少年時代の写真』、『鉄の時代』、『モラルの話』、『夷狄を待ちながら』、『イエスの幼子時代』、『イエスの学校時代』など。

「2023年 『ポーランドの人』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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