占領軍の検閲と戦後日本 閉された言語空間 (文春文庫 え 2-8)
- 文藝春秋 (1994年1月10日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (384ページ)
- / ISBN・EAN: 9784167366087
作品紹介・あらすじ
さきの大戦の終結後、日本はアメリカの軍隊によって占領された。そしてアメリカは、占領下日本での検閲を周到に準備し、実行した。それは日本の思想と文化とを殱滅するためだった。検閲がもたらしたものは、日本人の自己破壊による新しいタブーの自己増殖である。膨大な一次資料によって跡づけられる、秘匿された検閲の全貌。
感想・レビュー・書評
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本でしか知れない事実がある。事実は一つでも真実は複数。学校教育で育った私たちはアメリカの真実を教えられても日本の真実を知らないでいる。作者は今日いまだ自由はない、と締め括る。
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言論界で「反米保守」と言えば今でこそ決してめずらしくはないが、しばらく前までは進歩派と言えば「反米」、保守派と言えば「親米」というのが大方の相場だった。その中にあっていち早く「反米保守」の立場から鋭い論考を発表してきたのが江藤淳だ。本書はアメリカの対日占領政策における「War Guilt Information Program」(日本人に戦争の罪悪感を植え付けるための宣伝計画)として知られる言論弾圧・洗脳工作の実態を、アメリカ公文書館の一次資料にあたって丹念に検証した労作である。本書を読めば、「反米」と見えた進歩派も実はアメリカの手のひらの上で踊っていたに過ぎないことがよく分かる。この研究が一文芸評論家によって行われなければならなかったことを日米関係を専門とする歴史家は恥ずべきであろう。
本書において江藤の批判の矛先は表面的にはGHQでありアメリカ政府である。それはまっとうな批判である。ただ忘れてならないのは、彼らは我々との熾烈な総力戦を戦い抜いた敵国だということだ。二度と自分達に挑戦できないよう、敵の徹底的な無力化を図るのはむしろ当然であろう。それは彼らがいかに日本人を恐れていたかを示すものでもある。ならばより根本的に問われるべきは、どれほど執拗かつ徹底的な洗脳であったにせよ、唯々諾々とそれを受け容れ、骨の髄まで奴隷根性の染み付いてしまった戦後日本とは一体何なのか、もっと言えば、たかが戦争に負けたくらいでプライドも矜恃も投げ捨てて、過去を全否定して平然とするこの国の精神風土の根源は何なのかということではないか。江藤が十分には問い得なかったこの問いこそ、我々が引き受けるべきではないだろうか。 -
戦後以降しか知らない私にとっては違和感すら感じなかったことがこの本を、読み進むにつれて違和感を呼び覚まされ、なぜ「過ちを繰り返しません」と自戒しなかればならなくなったか少しわった気がする。
しかも占領軍により秘密裏に行われ、日本のジャーナリストを支配したとある。
占領軍による検閲は日本のジャーナリストと秘密を共有することで共犯意識を植え付け、言ったことを言わなかったことにした、言わなかったことは、言ってはいけないことにした、言っては行けないことは表現しては行けないことになりやがて考えては行けないことにエスカレートする。
その後の教育を受けた僕らは違和感すら感じなくさせられる。
これは人権蹂躙に等しい大罪である。
この本は、現代の自由が根無しになり浮遊している時代だからこそ繰り返されるかもしれないと警鐘を鳴らしている。
徳富蘆花の「謀叛論」のくだりは強烈な印象を残した。 -
深く読み込めばしなかったのですが、アメリカ軍の検閲の実態(驚いたのが、検閲しましたシールがつくのはむしろ問題ないもので、問題あるものは検閲の記録を残さないんだ…)、そして、検閲のための翻訳(下訳?)した日本人が影響力強い立場になってたりして、今でもメディアの「自己検閲」で、日本人を洗脳し続けているのだと理解。
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江藤氏が昭和54年から55年にかけての約半年間、ワシントンにおいて、日本占領中の米占領軍が行った新聞、雑誌等の検閲の実態を研究したもの。検閲を行ったのは占領軍の民間検閲支隊だが、その大部分は英語のできる日本人で、疑わしい文書を特定してはそれを英訳或いは要約して上司に提出していた。驚くべきはそのやり方で禁止事項のチェックリストの中に「検閲が行われていることを決して公式に認めてはならない」という項目が含まれていた。具体的には「全出版者は出版物の組立にあたり検閲の具体的証跡を現さないようにすること」という項目である。これは誰が考えても恐ろしいことだ。占領期間中一般人はどんなことがどのレベルで検閲されているのかはもちろんのこと、検閲されていること自体を知らないまま過ごしていたことになる。実質的にメディアは占領軍に都合のいい「真実」だけを流し続けることを強要された訳で、これは日本社会に大きな影響を与え、今もその遺産が残っているのではないかと私には思える。
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う〜ん、思ったより批評性が削ぎ落とされていてびっくりした。「丹念に調べれば、消された真実が見えてくる」みたいな構造が最初から最後まで一貫しており、正直なところかなり右側に寄っている内容。確かに、大東亜戦争という言葉を太平洋戦争、と置き換えて使用することで消されるものや事柄はあるのかもしれない。し、確かにそこに奇妙なねじれがあり、戦後日本の自己認識を歪めているのかもしれない。しかし、それって占領下の検閲だけの問題なのだろうか?という根本の疑問が湧く。わたしが思う江藤淳の文章の面白いところは、戦後日本への奇妙な屈託の部分であり、彼自身が日本を信じながらどうにも日本を信じ切れていないところなのだけれど、論文調だからか、そこがバッサリ消えてしまっているのがどうにも気になる。こういう仕事もしていたのか。しかしながら、アメリカの図書館でここまで丹念に資料を解きほぐす執念みたいなもの、これは大変なものだとは思った。
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大東亜戦争後の米国駐留軍による検閲、日本人に悟られないように一種のマインドコントロールをかけたようなものだ。自虐的な戦後歴史観はすべてここから始まっている。もはや学校の歴史教科書は変えられないのだろうが、本当の事実は国民として知っておくべきだろう。
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江藤淳 「 閉ざされた言語空間 」 検閲から 公共の利益と 表現の自由の対立を論じた本。効率的な検閲システムによる 占領地の思想誘導に 恐ろしさを感じる〜知らない方が良かったとも思う
占領地下の日本で行われた検閲から 様々な論点を提示している
*占領地下の民間検閲は必要悪か〜占領地下の民間人の思考と言語を 検閲を通じて改造することは 憲法違反か
*占領地下のジャーナリズムは 外国の服従を強制されるべきか〜日本の真実と 米国の真実は 異なる
*戦前日本が行った国家権力による検閲と 占領地の米国による検閲の違い
そのほか ポツダム宣言や東京裁判を 検閲を通じて見ることで、法的問題点や人間心理の怖さを知ることができる
CCD民間検閲隊
*ワシントン〜統合参謀本部〜の命令により検閲を実施
*検閲対象に パブリシティメディアが加わる→敗戦後の日本の言語空間を変えた
*日本人の思考と言語の改造
占領地における検閲
*合衆国憲法修正1条(宗教、言論、出版、集会の自由)
*秩序と自由の間に いかに調和を見出すか
*検閲は 表現の自由の敵のうち最も危険なもの〜非常な危難に備えて必要な場合を除き、この国に存在してはならない
*実際は 検閲システムを日本に輸出し効率的に運用した→検閲が必要悪になってしまった
*ジャーナリズムが 自国はの忠誠義務から解放され、外国の服従を強制された
ポツダム宣言
*合意による敗北であり、征服による敗北でない→敗者の日本には 勝者の米国批判の自由を留保する権利がある
*ポツダム宣言上、日本に 言論、宗教、思想の自由は保障
*ポツダム宣言の受諾→米占領軍の民間検閲が 合衆国憲法修正1条に拘束される
日本とCCDの検閲の違い
*戦前戦中の日本の国家権力による検閲=接触を禁止するための検閲〜天皇、国体、危険思想などへの接触禁止→タブー
*CCDの検閲=検閲を秘匿して 接触され 共犯関係に誘い込む