- Amazon.co.jp ・本 (181ページ)
- / ISBN・EAN: 9784167649012
作品紹介・あらすじ
徳正の右足が突然冬瓜のように膨れ始め、親指の先から水が噴き出したのは六月半ばだった。それから夜毎、徳正のベッドを男たちの亡霊が訪れ、滴る水に口をつける。五十年前の沖縄戦で、壕に置き去りにされた兵士たちだった…。沖縄の風土から生まれた芥川賞受賞作に、「風音」「オキナワン・ブック・レヴュー」を併録。
感想・レビュー・書評
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表題作は、目取真俊氏の芥川賞受賞作だそうで。主人公の男性がある朝突然理解不能な異変に襲われる、というカフカの「変身」的なスジは、「魂込め」にも通じるものですね。個人的には、二本目の「風音」のほうが胸に迫るものを感じました。「沖縄/本土」という対立軸をひとまず念頭に置いた上で、本土人に親しげにすり寄る沖縄人、本土での学生経験を持つ沖縄人、沖縄に深刻なゆかりを持つ本土人、などなど、さまざまな形でマージナルな位置にいる人物を登場させる。そして、それらの人物の重層的な関係を描くことによって、「沖縄/本土」という問題の深さを描き出す。「風音」は、そういう小説に読めました。もっとも、彼の小説はおおむねそうした描き方のものが多いような印象を持っているのですが。三本目「オキナワン・ブック・レヴュー」は、清水義範氏を思わせるパスティーシュ風の作品。沖縄の政治的状況がトンデモ本の書評という体裁で描かれています。コミカルな文体なのですが、はたして私たち本土人はこの作品を笑うだけですませてよいものか。その政治的状況にはもちろん本土人も深く関わっているわけですし、ここに登場する架空のトンデモ本たちも、本土人が勝手に思い描く「癒し」「神秘」などなどの沖縄イメージと無関係には生まれてこなかったでしょうから。(20071126)
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ユタに興味があったので、オキナワンブックレビューは最高に刺激的でした。
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小説を通してよりも、先だって読んだ新書の方が、ダイレクトに響くものがあった。ただそれはある意味当たり前で、自分には物語から真意を読み解く力がない、その裏返しというだけなのかも。短編集だけど、芥川賞受賞の表題作は、足から不思議水が沸き出すという設定が愉快で、中でも一番楽しんで読めた。
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沖縄を舞台にした小説三編。
「水滴」足が冬瓜のように膨らんだ徳正。動けなくなり水が溢れてくるように。夜、その水を死んだ日本兵の亡霊が列をなして飲みにくる。その中に友人の石嶺を見つける。水が毛生え、精力に絶大に効くことを発見した従兄弟の清裕は奇跡の水として売る。しかし徳正が石嶺の渇きを癒すと同時に、膨らみはなくなり、水の効果もなくなる。
「風音」個人的にはこちらの方が萌えました。戦争記者をやっている元特攻隊の男と、特攻の前日に彼を呼び出し、キスしたすぐ後に突き落として怪我させた戦友が、泣き御頭として地元の人に崇め恐れられている。ようやく彼の元へ来れたが…鳥葬という一昔前の文化による黒い蟹の群れのエキゾチックな描写が印象的。
「オキナワン・ブック・レビュー」沖縄のアイデンティティは、本土の人ではわからないだろうというような排他的な気配を感じるが、そこに劣等感のようなものもにじませていて、それを表象した「ユタ」と「皇太子に沖縄嫁を」という二論がテーマとして展開されるブックレビュー集。ブラックユーモアと言うにも、これを腹から笑えるのは沖縄人だけではないかしら。
前2編の沖縄人の描く沖縄戦は、どうも理解が及ばない所があると常に感じる。それは、徳正が持つような語られたい語り手を求める者と、後ろめたいことがある体験者との齟齬だったり、でもそれは決して語られないことだし、個人的なことだし、と思ってしまう。戦争体験とは個人的で暗くて厳かなものだろう。語りたい人には全力で耳を傾けたいが、語りを求めていくのは違う気がする。泣き御頭を取材しにきた藤井たちのように。ただ知られないことに憤る人たちの意見も正しい。それぞれの違う立場の人々の心の機微とからめて、「風音」はとてもドラマチックになっていると感じた。 -
「水滴」
人々に求められるまま戦争体験談を語り
感動の声と講演料を稼ぐ男
だがそれは要するに、大衆の望む物語を売っているわけで
遊ぶ金ほしさで戦争の悲惨さをうまいこと脚色する一方
本当に話したいことは誰にも話せず
その後ろめたさが、足からしみ出る甘露の水となって
沖縄戦で死んでいった戦友たちの亡霊を癒すという
ファンタジー
つまり願望だな
戦争をネタにして芥川賞をとった作品ということにもなり
まあそこを含めてのブラックジョークであろうが
甘露水を育毛剤として売りさばく従兄弟のスタンスは
この場合、作者自身の戯画と見るべきだろう
「風音」
生き延びた人間は、死んだ人間の体にむらがる蟹のようなもの
戦争は物語にされて、あらたな飯の種になる
やがてそれに飽き足らなくなれば、生きてる人間が生きてる人間を
ふたたび崖から突き落とすようにもなるだろうか
「オキナワン・ブック・レヴュー」
近代的自我の育つ果てにあるのは、思い上がった「神の心」
97年、セカイ系の萌芽はこんなところにも -
読んだことさえ覚えてないが、新聞で紹介されていたのを機に再読。
表題作と『風音』は読み応えあり、もう一作の実験作が失敗と思われ、文庫本の並びとして★評価を少し下げました。
沖縄の存在・問題は、日本社会がおそらく見て見ぬフリをして一部の人々に面倒事を押し付けている事実の一つかと思いますが、こういう戦後生まれの現地に根付く作家の手になる小説を読むとその罪深さは幾ばくのものかと。
まさに外にいる凡たる当方など叱られても過ぎることはないんだろうなぁ。 -
1997年上半期芥川賞受賞作。ある日、主人公徳正の右足が腫れ出して、たちまち冬瓜のように膨れ上がるところから物語が始まる。そして、踵からはとめどなく水滴が滴り落ち続けるのだ。最初は、島尾敏雄ばりのシュルレアリスム小説かと思った。ところが、夜になって沖縄戦のさなかに洞窟で命を落とした兵士たちが徳正のもとに訪れ、その水滴を啜り出す。依然、シュール風なのだが、実は次第に物語は徳正の体験した沖縄戦の史実、そして彼の戦後の慙愧の想いに重心を移してゆく。特異なスタイルをとることで描き出された沖縄がここにある。