- Amazon.co.jp ・本 (392ページ)
- / ISBN・EAN: 9784167679262
作品紹介・あらすじ
一所不住、一畝不耕。山野河川で天幕暮し。竹細工や川魚漁を生業とし、'60年代に列島から姿を消した自由の民・サンカ。「定住・所有」の枠を軽々と超えた彼らは、原日本人の末裔なのか。中世から続く漂泊民なのか。従来の虚構を解体し、聖と賎、浄と穢から「日本文化」の基層を見据える沖浦民俗学の新たな成果。
感想・レビュー・書評
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サンカという人々のことを知ったのは、五木寛之の小説「風の王国」でだったかと思う。竹細工や川漁を生業とし、もっぱら山中を流れ歩き、ほとんど史実にも足跡を遺していない幻の民。一種の伝奇小説の体裁であり、まさに血が騒ぐような面白さではあったが、やはりきちんとした記述にも触れておきたいと思ってはいた。ずいぶん時間が経ってしまったが、ふとしたことから本書に行き会えたのは幸運だった。著者の沖浦和光氏は民俗学の大家であるけど、それだけではなく、本書にはまさに氏でなくては書き得ないのではないかと思わされる記述が至るところにあった。そのことについては後述する。
本書の前半はおもに文献に依りながら、このサンカという人々がいつごろから・どのように記録されていたのかということを辿ってゆく。それは沖浦氏の長年の研究テーマであった被差別民と近いところにあるようでいて絶妙に重なり合わない。なにしろサンカについては客観的な記述が少なすぎるのだ。いかにもっぱら人跡まばらな山間を漂泊の中に生きていた民だとしても、そんなことがあるのだろうか? というのが沖浦氏の問いかけである。
膨大な資料に当たりながら、沖浦氏は、このサンカが「書かれていない」と言うことを逆に照射してゆく。江戸時代に入ればかなり徹底した住民管理システムが強化されており、とりわけ無宿者や流浪の民には厳しい処遇が為されていたという。また、多くの官吏や文人たちによって土地の風土や風俗を描写する史料は数多く残されており、そのどこにもサンカに該当する記述がないことを沖浦氏は丹念に確認してゆく。その手法にも、そして資料や文献が残っていると言うことの凄みにも唸らされる。史実を読み解いていくとはこういうことなのだろう。
最終的に沖浦氏が導いた結論は、サンカとは幕末の動乱期、生きるためにやむを得ず山に入った窮民たちだったのではないかと言うことである。この学問的な妥当性を判断する力は自分にはないが、示された史料から考え得るかなり蓋然性の高い推量ではないかと思う。少なくとも従前信じられてきたような、古代の民の末裔であるとか、隠然たる力を有するまつろわぬ民だとか言ったような説よりも信じるに足るものであると思われた。
本書の後半では、むしろ沖浦氏の個人的な経験に近いところからサンカの実像に迫ってゆく。その一つが三角寛の生涯と業績を追っていくことなのだが、1927年生まれの沖浦氏はなにしろリアルタイムで三角作品を読んでいるのだ。戦前のキワモノ流行作家としての三角に触れた最後の世代だろう。そして世が戦中から戦後に移り変わり、開明的になってゆく世情と時を一にして三角的世界が失墜していった流れが同時代の視点から生き生きと描かれていて、興味深い。
そして最終章、極めて充実した本書の中でも白眉はここにあろう。筆者は21世紀初頭の時点で辛うじて残存していたサンカの末裔に接し、その風俗を取材している。その手法はごく穏当なものに見えるが、長く被差別民との接点を維持してきた人物でなければなしえないのではないかとの印象を持った。熱に満ちた叙述である。
読んでいて痛感したのが、物事には時宜があるということだった。2001年時点で59歳だったサンカの末裔が10歳頃までは川漁の旅をしていたとの記述に胸を突かれる。この時期に辛うじて拾えた奇跡的な記述としか言いようがなく、20年が経過した今でも同じことができるかといえば難しいだろう。沖浦氏の学問的な蓄積と、滅び行く民俗とがギリギリのところでかみ合った結果後世に残すことのできた記述であり、学問とは結局のところは人間個人個人がなしえるものなのだと言うことを再認識した。
本書において沖浦氏がサンカという一種のファンタジーを丁寧に解体していくさまは見事であり、同時に一抹の寂しさを感じもした。しかし、その感情は例えば高貴な野蛮人幻想みたいなものに似ていて、マイノリティに対する身勝手な偏見や覗き見趣味と大差ないものではないのか。こういった気付きは、鋭く、苦い。そしてこれこそが、沖浦氏の精緻な分析を通じて得られるいちばんの実りではないかと思わされた。今年最初の読書でとても豊穣なものを経験させてもらったと思う。おすすめの一冊です。
2020/1/11詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
先生が、ちゃんと資料を読み込んで、柳田大先生のアレとか、三角大先生のナニとかをばんばん批判して、
サンカと呼ばれる人が、いつ出て来たかを説く。
南方熊楠の「柳田君他の本州土人批判」がないーとか、
他 なんか左翼の人権思想がどうたらがうざい―とか、
いろいろあるのだが、読んでた次に、超絶人気マンガで、本著で「サンカのようなお話がドライブしそうだけど近世はまぁまともな人間扱いだった皆さん」にカテゴライズされる、炭焼きの少年が活躍するので、なんか、「あー」
本居内遠『賎者考』にああ言ふ山関係ないし。沖浦先生も「いわゆる非人関係に入ってないしサンカでもない」て言ってるし。 -
柳田国男、三角寛などのサンカ論を検証している前半は読ませるが、後半の自身のサンカ論になると一機に牽強付会気味になる。元になる情報が少なすぎるのと、三角寛の一連の小説でミーム汚染がおきているのでしょうがないのかね…
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サンカについて丹念に分析した一冊。
歴史書から実際のサンカの末裔のインタビューまであり、とても勉強になった。 -
「私は、彼ら(漂泊民)の存在が歴史の余聞だったとは考えていない。ウラがなければオモテが成り立たず、カゲのない日向はそもそもありえない。ウラに潜む真実が描かれていないオモテだけの歴史論や人生論なんぞは、読む気もしない人が多いのではないか」(p380)
「この本は日本の民衆社会の下支えとなって生きてきた彼ら漂泊民への、私なりの賛歌(オマージュ)である。それはまた、もはやその姿を見ることができぬ漂泊民への、私なりの鎮魂歌(レクイエム)でもある」(p381) -
ずっと気になっていたサンカのことがよくわかった!
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非定住の生活様式を持った人々の考察。
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社会派の内容とは思わず読み始めたものの、この手の類にある感情的なものではなく、淡々と事実を拾い上げている感じが良かった。
以前、仕事で出会った方で、山の奥の集落に住んでいて、とても器用に竹細工を作る方がいた。穏やかで慎ましくて山のことを熟知しているその方の話を聞くのが好きだった。
その方は山から下りることを好まず、ひっそりと隠れるように暮らしていて、山の麓に住んでいる人たちもその方たちとは一線をひいてる感じで、お互いの話を聞くとなんだかしっくりいかないものを感じた。
もしかしたら、こういう背景があったのだろうか。