路上の人

著者 :
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  • Amazon.co.jp ・本 (400ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784198618230

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  • 3.85/91
    内容(「BOOK」データベースより)
    『時は一三世紀前半。舞台はイベリア半島とピレネー山脈、フランスを横切り、イタリアを南下してローマに及ぶ南欧の広大な地域。語り手は「路上のヨナ」と称ばれる浮浪人、ほとんど文字を読まず書かずの下層の人物だが、聡明で、ラテン語を含め多数の言語を話す。ある時は英国の外交使節やドイツの学僧や神聖ローマ帝国皇帝が法王庁に送った騎士(スパイ)等の従者となり、ある時は旅芸人の一団に身を投じ、必要ならば乞食をして東奔西走する。―堀田善衛(一九一八‐九八)が一九八五年にその大部分をバルセロナの客舎で書いた小説。』

    『路上の人』
    著者:堀田 善衛(ほった よしえ)
    出版社 ‏: ‎徳間書店
    単行本 ‏: ‎397ページ

  • 面白かったです。
    日本人が外国の風景を描くと、なんだかイマイチ…と思うこともありますが、この小説ではどっぷりヨーロッパ13世紀ごろの中世ワールドに浸ることができます。
    路上の人であり名前もなきヨナが主人公ですが、今でいうとホームレスのようなものかもしれません。しかし当時はこのような家を持たぬ人々はかなり多かったようです。そして家を持たないゆえに、様々な階層の人々と交わり、知識を得ることもありました。
    ヨナは身分の高い僧侶や騎士と出会い、様々な経験をします。知識欲がありお喋りが好きなヨナは、当時のキリスト教世界の矛盾や不思議さも読者に見せてくれます。
    そんなヨナとヨナの旦那、騎士アントン・マリア、そして馬のジェムの旅は異端のカタリ派を尋ねる旅でもありました。騎士の過去やカタリ派の歴史なども面白い。
    あと、騎士がめっちゃかっこいいですね!ヨナの前の主人であった僧侶との友情の話や、温泉場で出会ったイギリス騎士との話なども良かったです。
    とくに盛り上がる話ではないですが、路上が舞台のロードムービーみたいな小説です。良い作品でした。

  • 全集8の掲載で、聖者の行進、マルセローナにて、航西日誌、戯曲が収めれている。路上の人ということで、宗教をめぐる人々の関係がわかる。

  • 『何故なら、笑いは他に対する批評であり、自己評価でもありうるからである』-『第二章 路上の人』

    『禁欲主義は必ずしも道徳を生む所以ではない。純粋はつねに両刃の剣であり、純粋と狂言は背中あわせである』-『第七章 苦難のトゥルーズへ』

    キリストの笑い、アリストテレスの失われた喜劇論、そして閉ざされた図書館。旅するフランチェスコ会の僧とそれに付き従うもの。そこまで揃っていればどうしてもエーコの「薔薇の名前」を思い起こさずにいることはできなくなるだろう。そう気付くと堀田善衞の「路上の人」から逆に「薔薇の名前」の一つの読みを教わることになる。これは詰まるところ多様性に対する不寛容の物語である、ということだ。

    エーコがどこまでローマカソリックの教義に対する批判を意図していたのかは「薔薇の名前」を読んだだけでは理解できなかったけれども、第二次世界大戦を挟んでのイタリアの政治体制の転向を体験したエーコであることを思えば、一方的な真理、というもの(そしてその様式こそがまさにカソリック(普遍的)という言葉の裏返しの意味)に対する疑義はもちろんあっただろうとも想像できる。但し、エーコはやはり「内部」の人であるのに対して、キリスト教そのものに対してやや距離感のある視点を持つ堀田は「外部」の人として疑義に容赦がない。エーコの薔薇の名前において記録者であり付き従うものである修行僧はやがて僧侶となるが、堀田の路上の人において同じ役目を果たすものは常に外に留まる。

    例えば、現代の(13世紀の)ローマにイエス・キリストが再臨されたらメシアであるイエスに教皇は教えを乞う立場であろうか、という問いに対して司教たちは「ペトロの後継者(ローマ教皇)と使徒の後継者たち(司教)によって治められる唯一、聖、カトリック、使徒的な教会」は自分たちの方が「より正統である」という立場をとるであろうという逸話を入れるところなどに、堀田の批判的な視点は表れているようにも見える。かといってそれはカソリック教会に対する批判に留まらず、フランチェスコ会、ドミニコ会へも同じ視線が注がれている。その視線が批判するもの、それはすなわち排他的な教条である。朱に交わる前に存在していた健全な精神も、頂点にあるものによって「正統性」が認められた途端に朱に交わりおぞましい教条主義を新たに生む。ならば交わることを拒絶し信仰の原点を維持することが良いのかといえば、それは逆方向の排他思想を生む原理主義の元となる。

    堀田が仕向けたそのジレンマに思い至れば、この物語を13世紀の啓蒙以前の人々による過去の逸話と簡単に受け取ってしまうことが如何に困難かが解る。如何に科学的進歩が旧世界的神話の非現実性を明らかにしたところで、それは我々の倫理的な優位性を担保することはない。過去の人々の行動を無知的と決めつけ、文字通り笑い飛ばすことなどできる立場に我々現代人も、また、ない。自らの立場の正統性を主張し、彼我の違いを強調し色分け、そして不都合があれば異端として排斥する。この行動パターンは人間に深く染み着いている様式であることを思い知るのみである。

    なぜ人は教条主義的に陥りがちなのか。堀田が路上の人で13世紀の物語として描いたテーマはむしろ非常に現代的な問題だ。温故知新という言葉がいつも意味あることばとして響くことが示すように、人はどうやら進歩することの適わない生物なのかも知れない。

  • 堀田善衛著

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著者プロフィール

1918年富山県生まれ。小説家。1944年国際文化振興会から派遣されて上海に渡るが、敗戦後は中国国民党宣伝部に徴用されて上海に留まる。中国での経験をもとに、小説を書き始め、47年に帰国。52年「広場の孤独」「漢奸」で芥川賞を受賞。海外との交流にも力を入れ、アジア・アフリカ作家会議などに出席。他の主な作品に、「歴史」「時間」「インドで考えたこと」「方丈記私記」「ゴヤ」など。1998年没。

「2018年 『中野重治・堀田善衞 往復書簡1953-1979』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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