- Amazon.co.jp ・本 (255ページ)
- / ISBN・EAN: 9784260036368
作品紹介・あらすじ
何かしゃべろうとすると最初の言葉を繰り返してしまう(=「連発」という名のバグ)。それを避けようとすると言葉自体が出なくなる(=「難発」という名のフリーズ)。吃音とは、言葉が肉体に拒否されている状態です。しかし、なぜ歌っているときにはどもらないのか?なぜ独り言だとどもらないのか?従来の医学的・心理的アプローチとはまったく違う視点から、徹底した観察とインタビューで吃音という「謎」に迫った画期的身体論!
感想・レビュー・書評
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吃音の人と接するときがあるので、どのように関わったらよいか知りたかったので、本書を読みました。
感想は、読む前よりも、吃音の人の思いが理解できるようになりました。「吃音の人」と、吃音に焦点を当てるのではなく、その人のありのままに寄り添う。言葉が適切かどうかわからないけど、吃音は、その人に「付随する、おまけのようなもの」なのかな~?、という印象です。
人は誰でも、どこかに偏りがあり、得意不得意があると思うのです。例えば、足が速い人と遅い人がいるように。
吃音の人には、「どもっても大丈夫だよ~」という気持ちで、普通に接すればいいのだ!と背中を教えもらえる本でした。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
医学書院から出ている「シリーズ ケアをひらく」の1冊。この当事者研究シリーズ、いつも注目してる。
坂口恭平、國分功一郎、熊谷晋一郎、中井久夫(合掌)の著書をこれまで読んだけどどれもそれぞれに刺激的で思考を激しく促される本だった。
さて本書は「吃音」について。ざっと通読しただけだがこれもいい本。
日常生活で当たり前のように言葉を発しているが、喋ることがいかに難しいことかに始まり、吃音を、
同じ音素を「連発」してしまうバグと、バグを避けようとすると言葉が出てこない「難発」とに大別し、当事者へのインタビューもまじえつつ分析する。
ひとつびっくりした指摘は、「うまくいかない」というのは二元論であるというもの。言い換えれば、自身の体が、まるで他者のように感じられる経験。
心身二元論というのはデカルトに代表されるような、身体を機械のように捉える見方で、精神と身体はほとんど無関係だとみなす考え方なのだが、哲学史においてそれはさんざん批判されてきた。
身体がなければ意識はないんだから、二元論なわけないじゃん、と今日の感覚では、当たり前のように思われるかもしれない。
が、本書の指摘を受けて気づいたのは、
一元論だろうが二元論だろうが、そこにはいわゆる”健康”と見なされた(時代によっては違うだろうけど)身体が暗黙のうちに前提され、議論されているのではないかということ。
たしかに心身を切り離しては考えがたいけれど、吃音という現象に注目した場合、むしろ二元論的にとらえたほうが理解しやすい。
それで思い当たったのは、哲学史は、その時代その時代の、健康ではない、あるいは正常ではないとみなした身体を多かれ少なかれ排除して議論してきたのではないか。ということ。
まさに目から鱗体験だった。
もっとも、こうした時代ごとの身体観の変遷みたいなことはミシェル・フーコーとかもさんざん論じてるにちがいないだろうしとくに驚くべきことでもないかもしれないのだけれど、
ただ、いわゆる旧弊とみなされている認識のフレームが、なにか具体的なケースを理解するうえでアクチュアルに役に立つことがあるという好例を本書で示されたことがかなり新鮮だったのだ。 -
荻上チキのラジオで紹介されていたのがもう何年か前で、いつか読もうと気になっていたものが遂に手に取ることができた。漠然と言葉が連発したり、詰まったりすることで会話のやりずらさを感じることが多々あり、吃音にも前から興味がありましたのさ。
あらあらとまとめると、まずその名もズバリの「連発」状態から本書は取り上げていきます。しゃべるという複雑なオートマ制御に生じるアイドリングと定義づけられています。「言葉の代わりに間違って体が伝わってしまう」状態とも放言されています。
連発の対処法として「難発」があり、連発を防ごうと体が自ずと緊張して、発音がブロックされてしまいます。本人としては「しゃべる」行為そのものが停止してしまい、本人にも辛さが伴います。
難発の回避方法として、「言い換え」があります。吃る予感があると「同じ意味の別の言葉や表現」が浮かび、そちらにほぼ無意識的に迂回することになります。
リズムや演技は、パターンを利用して運動を部分的にアウトソーシングすることで運動が安定します。しかし、あまりにその法則性に依存しすぎると、自由が失われ、パターンを遂行するだけの機械的な会話になってしまいます。「乗っ取り」の状態に陥ってしまいます。
各フェーズが論理立てて組み立てられており、順々に理解が深まるように説明されている。びっくりしたのがどこにも圧倒的な悲壮感がなく、当事者は吃音に悩み苦しむのでなく、どこか楽しみながら共生していこうという前向きな姿勢が、本全体から漂ってくる。
私自身も人との対話とか、人前で話したり極度に緊張する時に言葉がでなかったり、今までの経験に則してパターンに当てはめながらなんとか喋ってることって多くあるのだ。自分がなんとなく対処してきたことに、身体との関係・他人との世界共有から生じているのだとかいった説明を乗っけてくれることができて、ちょっとだけ自分の世界を・視点を広げてくれることになったと直感しています。良い出会いでした。 -
伊藤亜紗さんの本は「目の見えない人は世界をどう見ているのか」に続き、二冊目です。
伊藤さんは美術が専門分野なのですが、もともと生物学者を目指しておられたそうで、今回はその生物学者寄りの本と言えるでしょうか(しかし、随所にヴァレリーなど登場するあたり、美術とも無関係ではないかもしれません)。
まず、目を惹く可愛らしい(?)イラストが素敵です。モノトーンの絵柄に蛍光ピンクで「どもる体」と題が書かれていますが、中をめくってみると挿絵にもビビッドなピンクをふんだんにあしらったゆるりとしたイラストがあります。
これが、素敵なのですが一方で目に刺さるほど眩いのです(笑)
主題は「吃音」で、私自身は口下手なだけで吃音の傾向はなく、かつて通っていた学校に当事者の男子学生がいたなあ、という程度。彼は(まだ幼かったし)連発型だったと思います。他者視点として私の抱いていた気持ちは、本の中でも記載されている「祈っちゃうような感じ」にとても似ていました。言葉が唇から出てくるのをひたすら待つ、という体験の中に、無意識に相手を「気の毒だな」と思う気持ちがあったと思います。
本書では7章にわけて吃音を解剖していくような形なのですが、「身体論としてのどもる」から、普段の”しゃべる”というところに焦点を絞って「あなたはなぜしゃべれるのか」、さらに吃音に踏み入る形で「連発」「難発」「言い換え」、応用的な観察・推察を含んだ「ノる」「乗っ取られる」「ゆらぎのある私」と分けられています。
私は個人的には前半部分に興味を持ちました。普段、何気なく行っている”しゃべる”ということ、音を連ねることというのは、こうして説明されてみて初めて、とても複雑だったのだなと気付かされました。
また、あとがきにもあるように吃音当事者の方にとって、この本が「自分を俯瞰で見られる」助けとなるのではないかなと感じました。当事者でなくても発見があるし、当事者であればもっと発見のある本かもしれません。
でもやっぱり一番の感想は、ピンク……目が痛いなあ(笑) -
言葉を発することを分解して、意識する。連発の”言葉じゃなく肉体が伝わってしまう”。体と心との折り合いをつける。”書かれたとおりに読むことの拘束性”。音読。本を読むことは徹底的に拘束されていることなのか。本を読むことは徹底的に拘束されていることなのか。
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「ケアをひらく」シリーズのファンだし、娘が吃音かもしれない、、ということもあり読みました。吃音について、いろんな角度から検証したり、当事者のお話を聞いたりされています。吃音は「治る」ことはなくて(そもそも疾患ではないので「治る」というのもおかしいけれど)多くの方が成長過程で対処法を見つけて「隠している」場合が多いのだとか。吃音当事者も周りも、吃音そのものをどう捉えるのかという心の持っていきかたによって変わってくるんだなと思いました。もし娘が吃音だとしても、「上手く付き合っていけばいいんだな」と思えたし、いろんな向き合い方を提示してくれていて、読みものとしてもとても面白いなと思いました。
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2022.9.11市立図書館
伊藤亜紗さんは新書やYA向きレーベル、絵本などあれこれ読んでいるが、そういえば医学書院のケアをひらくシリーズのこの本はまだ読んでなかったと思って借りた。
この本は吃音をとりあげているが、病気や障害としてというより、身体活動としての発話の仕組みを探っていくもので、本来(多くの人の場合)オートマ制御になっている発話行為を意識的にやることの難しさ、吃音の当事者の決して一枚岩にはなりえない多様な思いが伝わってくる本だった。連発や難発のような典型的な症状だけでなく、だれにでも少しは身に覚えがありそうな事例があれこれ載っているし、吃音以外のさまざまな運動障害に置き換えて考えることもできる。
「ノる」か「乗っ取られる」か、独り言や歌・演技でどもらないこと、諸刃の刃の音読をはじめ、おもしろい、なるほどと引きこまれる話が次から次へと飛び出してくるが、たとえば、「音読」のもつ拘束性に関係して、古代ギリシャでは音読は奴隷の仕事とされていたという記述は興味深い。そういえば、こどもに絵本を読んでやっていたときにどうしてもそのとおりに読めない箇所があって、(さいわい子どもは文字は追っていないので)いつも自己流に読み換えていたことを思い出す。これもまた、心では思ってもいない内容に自分の体を当てはめていくような一体化をきらい、自分にぴったりくる言葉を探していたという実例なのかもしれないと思った。
また、言い換えのメカニズムを読みながら、これは(母語・非母語含め)言語習熟の話とも重ねられそうだとも思った。
工夫や習慣化・自動化は(発話に限らず)なんらかの技術や能力を身につけたり環境に適応したりするプロセスで創造的・効率的にはたらく前向きなものであるけれど、一方で個人の思いまでがパターン化に乗っ取られたり臨機応変な本来のコミュニケーションを損なったりといった危険をはらんでもいる(たとえば、完璧に暗記してよどみなくおこなわれる発表やスピーチより、その場の雰囲気を見ながら多少でも即興性のあるもののほうがより伝わり届くものが多いだろう)。このことを意識して、生身の体のままならなさをじっくり観察することにおもしろさを感じられるなら、それは人生にとってずいぶん心強いのではないかと思う。
今回のキーワードは「コントロール」「自動化」だと思うが、ここまで来れば勢いで國分功一郎の中動態も読めそう。