- Amazon.co.jp ・本 (183ページ)
- / ISBN・EAN: 9784286176277
感想・レビュー・書評
-
議論自体はわかりやすいのだが、理系とか企業人とかの目線がやたらと強調されるのがいただけない。
詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
明智光秀の子孫なる人物による本能寺の変解析書。私情に囚われない冷静な解釈だと思います。少なくとも歴史小説と混同していないので真実味を帯びています。
家康がキーポイントというのも面白い。確かに信長という人物、容赦なくリストラしているしありえなくも無い。ただ信長は意外と大義名分とかを重んじている節もみられる。どう難癖をつけても全国統一を果たしてからの方がリスクは世評としても少ないのではと思った次第です。 -
評価は極上以外は4を最高にしよう
だんだんわかりやすく整理されてきました
次作がもうじき入手できるので楽しみ -
明智光秀、と言えば「本能寺の変で信長を殺したが三日天下に終わった不運な人」と、私が歴史の授業を受けた時に教わってきました。信長が光秀に殺されたのは事実としても、その動機については、今から思うと幼稚と思われるものが信じられてきたと感じています。
有名な歴史を研究している先生達がそれなりの表現で示すので、「そんなものか」と思ってきましたが、数年前に、明智光秀の子孫にあたる方が、431年目の真実(その後、改訂版として433年目の真実)を出されて、このような考え方もあるのかと思いました。
その後、本能寺の変に関する本が何冊か出されましたが、この本はそれらを踏まえた上で、著者である明智氏の最終回答が示されています。大変興味深く読ませてもらいました。やはり、家康は絡んでいたのですね。
以下は気になったポイントです。
・川角太閤記、明智軍記、絵本太閤記、などの軍記物の話をネタに使って、歴史小説が次々と書かれ、それがベストセラーとなった。吉川英治「新書太閤記」、司馬遼太郎「国盗り物語」、そして大河ドラマの影響も大きい(p39)
・信長公記に書かれた信長と光秀は実に良好な関係である、イエズス会宣教師フロイスも書いている(p43)
・信長や光秀を扱うなら、新聞の1面(政治面)、つまり政治的事件であるべき、歴史学者が三面記事史観で唱える四国説はおかしい(p53)
・理系では、基礎研究とは別に応用研究の領域が確立しているが、歴史学ではそれが確立されていないようである。(p60)
・信長の遺骸がなかったのではなく、信長の遺骸を見分けられなかった、が正解。現代では火事になった家屋から発見された遺体の身元は、必ずDNA鑑定となる(p66)
・歴史捜査を始めるにあたっての仮設は、1)失敗すれば一族滅亡してしまう謀反を決断するので、謀反を起こさなければならない危機意識が存在すること、2)謀反が成功する目算が存在すること、である(p74)
・信長は朝廷を庇護する政策をとっていた、50代に達していた正親町天皇も皇位を譲りたかったので、天皇側から譲位の資金援助を信長に申し入れた(p82)
・イエズス会黒幕説は時代状況を見誤っている、イエズス会と信長とは相互利用の良好な関係であった(p84)
・土岐氏は、美濃の土岐郡に住み着いた源氏の一族で、地名をとって土岐氏と称した。一族は美濃を中心に拡大して、住み着いた土地の地名を姓にして、土岐明智氏、土岐石谷氏などと称して分家した。土岐氏内紛の後、かろうして美濃守護職だけは、一族の池田氏が継承して、土岐氏を称した(p101)
・従来の本能寺研究で見落とされているのは、15万人が海を渡って出陣して、5万人が生きて帰れなかった「唐入り」である。(p102)
・唐入りを先に考えたのが信長であった、天下統一を果たしていない信長は極秘にしていた。光秀はこれを知ってしまったのだろう(p105)
・家康が信長と同盟していたのは、後半の20年、信長28歳、家康20歳までの両者は、生まれながらの敵であった(p108)
・利休切腹が第一次朝鮮出兵への動きが本格化した時点で起き、関白秀次切腹事件が、朝鮮支配に向けた秀次の朝鮮出陣準備が進められていた時点で起きていたことをみれば、やはり「唐入り」が絡んだ事件であろう。二人とも、唐入りに反対する言動があったのだろう(p110)
・秀吉が光秀謀反のことを知っていたとすると、そのことを秀吉に知らせることができるのは、細川藤孝しかいない。光秀の相談相手となっていて、光秀の娘を息子の正室に迎えている人物である(p155)
・光秀の兵が思っていたのは、信長の命令で家康を討ちに行く、ということ(p158)
・信長は家康を本能寺へおびき出して光秀に討ち取らせる計画を立てた、家康が本能寺に呼び出されていたのは当然、その計画を光秀とだけ内密に相談した。この話を家康に打ち明ければ、家康にとっては光秀は命の恩人となる(p159)
・信忠のみは、予定を急に変更して上洛してしまい、光秀は信忠の存在を見落としてしまった(p160)
・道三に追われて美濃守護職を失った土岐氏は上野沼田藩の藩主となって復活した、家康の家臣である菅沼定政が家康から大名にとりたてられ土岐姓を与えられ明治維新まで存続した。彼の実父は、明智定明であり、光秀と同族の明智氏(p166)
・横浜の三渓園は、土岐一族である実業家三渓によりつくられた。(p169)
2016年6月25日作成