死をポケットに入れて

  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (218ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309203096

作品紹介・あらすじ

老人力全開!ブコウスキー、最晩年の痛快日記。アンダーグラウンド・コミックスの帝王、ロバート・クラムのイラスト満載。

感想・レビュー・書評

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  • (2023/12/31 2h)

  •  本書『死をポケットに入れて』は、気難しい老人が日記形式で省察や小言などを並べているだけである。身も蓋もないが実際そうなのだ。しかし、なんともおもしろい。
     特に好きなのが以下の話だ。

      "書くことの目的はまず第一に、愚かな自分自身の救済だ。"(p.77)

      "我々はみんな死ぬのだ、誰だろうと一人残らず。何たるばか騒ぎよ! そのことだけでわたしたちはお互いに愛し合うようになっても当然なのに、そうはならない。わたしたちはつまらないことに脅かされたり、意気消沈させられたりし、どうでもいいようなことに簡単にやっつけられてしまう。"(p.14)

      "車を運転していて橋を渡る時、自殺することがわたしの頭の中をよぎらないということは決してない。湖や海を見ると、必ず自殺を思い浮かべてしまう。いつまでもその思いにとらわれるというわけではない。ただ一瞬閃くだけだ。自殺。ちょうど明かりが明滅するように。暗闇の中で。正気を保たせてくれるための逃げ道がひとつあるというわけだ。わかるかな? さもなければ、狂気に覆い尽くされてしまう。そいつはまっぴらごめんだ、そうだろう?"(p.27)

      "わたしたちは紙切れのように薄っぺらい存在だ。わたしたちは何割かの確率で訪れる運に頼って一時的に生きているにすぎない。このかりそめだという要素こそ、最良の部分でもあり、最悪の部分でもある。"(p.116)

      "猫を飼ったことがあるかな? あるいは何匹もの猫たちを? やつらはひたすら眠る。一日に二十時間も眠ることができて、見ためは麗しいときている。心を騒がせることなど何もないことを猫たちはよくわかっている。次の餌のことだけだ。それにほんの時折の慰みものになる何か。あらがいようのない何か大きな力によって心がずたずたに引き裂かれてしまっている時、一匹でも何匹でもいいから、わたしは自分の猫たちを眺める。全部で九匹飼っている。そのうちの一匹が眠っているのを、あるいは半分眠っているのを眺めるだけで、心が休まる。"(p.145)

     書くことも死も猫も、ときに一種の救いなのだ。ただし死は最悪でもある。

     ところで、話は少し逸れるが、ブコウスキーの別の著書『The People Look Like Flowers At Last』の「breakfast」という詩の中に、次のような表現がある。

      "you have to die a few times before you can really live."

     私にとってのブコウスキーが、この一文に集約されている。直訳するなら「本当に生きるためには、まず何度か死ななければならない」、意訳するなら「真に人生を享受するためには、まず苦しい経験をする必要がある」といったところだろうか。
     『死をポケットに入れて』や『パルプ』の中にも似たようなことを語っている部分があるので、それもいくつか引用しておく。

      "わたしはこれまでずっと地獄のような状態の中にいたし、今も地獄のような状態の中にいる。自分のほうが勝っているとは思わない。否定しようのない事実は、わたしは今も生きていて、七十一歳で、足の指の爪のことについてぐだぐだ言っているということ。それだけでもわたしにとってはとんでもない奇跡だ。"(『死をポケットに入れて』p.16)

      "わたしは死んでいて当然だ。わたしはやがて死ぬだろう。そう考えれば、まんざら悪くはない。"(『死をポケットに入れて』p.67)

      "わたしは五十歳になるまでごくありふれた労働者として働いてきた。ただの人々の中にまみれていた。自分が詩人だと言ったことなど一度もない。生活のために働くことが偉大なことだとわたしはここで言っているわけではない。たいていの場合、それはとんでもなくひどくておぞましいことだ。しかもそのおぞましい仕事を失わないために必死で頑張らなければならないこともしばしばだ。というのもその仕事を奪おうと手ぐすねひいて待ちかまえている男たちが背後に二十五人もいたりするからだ。もちろん、それは無意味なことこの上ないし、当然のごとく、人をぺしゃんこにへこたれさせてしまう。しかしそうしたひどい状況の中に放り込まれていたことが、ものを書く時、たわごとでお茶を濁してはいけないということをこのわたしに教えてくれたのだと思う。わたしが思うに、何かを書こうとするなら、たまには泥の中に顔を埋めることも必要だし、留置場がどんなところか、病院がどういうところか知っておかなければならない。何も食べずに四日か五日間過ごせばどんな気分になるのか、知っておかなければならない。気が触れた女たちと一緒に暮らすことも、ものを書くいい支えになるとわたしは思う。そうした悪徳にまみれてこそ、その後に喜びと解放感とを抱いてものが書けるようになるとわたしは思う。"(『死をポケットに入れて』p.132-133)

      "完璧な時間を手に入れるためには、不十分な時間を過ごさなければならない。二時間を活かすために、十時間は潰さなければならないのだ。用心しなければならないのは、すべての時間を潰してはだめだということだ。すべての歳月を。"(『死をポケットに入れて』p.151)

      "だいたい人間、どれくらい金が要るんだ? そもそもなんの意味がある? あの世へ行くときはみんな一文なしだし、たいていは生きてるときからそうだ。弱っていくしかないゲーム。朝、靴をはけるだけでも勝利だ。"(『パルプ』p.111)

      "夜に通りで寝るような破目にもなってない。もちろん、善人だって通りで寝てる奴はいっぱいいる。あいつらは馬鹿なんじゃない、時代のメカニズムに噛みあわないだけだ。時代の要請なんてコロコロ変わるし。酷な話だ。夜、自分のベッドで眠れるだけでも、世の力に対する貴重な勝利だ。"(『パルプ』p.212)

     苦しい思いをした後にこそ、深く大きな喜びが感じられる。苦しみを知ってこそ、ささやかなことの中に、幸せを見いだせるようになってゆく。
     たとえば、空腹を満たす、渇いた喉を潤す、疲れた体を休める、といったことの喜び。酒飲みにとっての、仕事後の一杯。うだるような暑さの中で冷たいものに触れたとき、あるいは、肌を刺すような寒さの中で温かいものに触れたときの心地よさ。食事中の方はぜひ読み飛ばしていただきたいが、急にもよおした尿意や便意をなんとか我慢した後に、トイレにたどりついたときやトイレットペーパーがあったとき、無事に排泄し終えたときの安堵感。汗まみれや泥まみれになった後に、髪や体を洗ったときの爽快感。難関試験の突破や高難度ゲームの攻略、スポーツの自己ベスト更新などにおける達成感。つらく苦しい貧困を脱したり、息苦しい人間関係や重苦しい責務から自由になったりしたときの解放感。重い病気や大きな怪我で日常的な動作や寝食すらも満足にできなくなった状態が長く続いてから、どうにかこうにか回復したときに味わう、世界が変わったような感激。
     そうしたさまざまな感覚、ギャップのもたらす快感、緊張の緩和が生きる喜びを、深刻な病気や怪我が健康の得がたさを、いつかは死んでしまうことが今日を生きることを教えてくれる。人間関係が孤独の価値に、孤立が人間関係の価値に気づかせてくれる。どん底を経験したことが強みになり、見える景色が変わってくる。時々刻々と出くわす苦労の中で、そして日々ふりかかる不幸の中で、当たり前と考えがちなことや身近なもののかけがえのなさ、自分にとって本当に大事なもの、平穏無事のありがたみを実感し、その幸運と幸福を最大限に味わい、大切にしてゆく。それこそが、「たわごとでお茶を濁」さずに「喜びと解放感とを抱いてものが書けるようになる」秘訣であり、真に人生を享受する秘訣なのだ。

     しかし、そうは言っても、戦争や災害、飢餓や貧困、事件や事故、病気や怪我といった類の不幸はもちろん、他者から強いられる無益な苦労だってまっぴらごめんだし、とにかく苦しい思いをしたり我慢したりするのが好ましいわけでもない。自ら進んでそうしたい場合や後に活かすために必要な場合は別として、避けられるものなら避けたほうがいい。肝心なのは、避けがたい不幸や苦労の中でどう生きるか、経験した不幸や苦労をどう活かすか、ということなのだ。世に言う "No pain, no gain." との最大の違いはそこにある。

     それはそうと、その場しのぎの「瞬発力」だけでほとんど暮らしてきた怠け者としては、「苦労は買ってでもすべき」という考えの持ち主が不如意な私の苦労を買ってくれれば win-win などと思ったりもする。「休んでるんだ。おれの野望には、怠け癖のハンディが付いてるのよ」(『勝手に生きろ!』p.136) という感じである。だから駄目なのだが。

     話を本題に戻す。

     自嘲をまじえつつも卑屈にはならず、自身をも射程に入れながら率直かつ辛辣に綴る、痛快で滑稽なたわごと。かっこわるくてかっこいい、くだらなくておもしろい、といった人間のアンビバレンス。
     そうしたブコウスキーらしさは、この『死をポケットに入れて』でも存分に発揮されている。最初から最後までおもしろく、歳を重ねるほど胸に響く名著だと思う。

  • 1991年8月28日に始まり1993年3月27日までの日記がこの作品だ。
    ブコロウスキー氏は1994年3月9日に73才で亡くなるから最晩年の彼の心境が語られていることとなる。日々出来事を綴っただけで終わっていない。この作品が魅力的なのは、普段の彼の生活を垣間見ながら、書くこと、思い、愚痴、人生についてなどが語られていることだ。昼間は競馬場に行き夜に書く。当時のブコウスキーは絶好調のようだ。いくらでも書き続けるし、書いたものは実にいいと自画自賛している。この作品の中で『死』について言及しているが、彼は死ぬことを恐れていない。死をいつかはけりをつけなければけないことだと見なしている。『死ぬということは、ちょうど朝起きたら靴を履くように、人がしなければいけないことのひとつにしか過ぎない』…ワォ!格好いい!
    同時代の作家についても書かれているが、彼らのことを『うんざりさせられる』と書いている。ギャンブルをする冒険心、燃え上がる炎、溢れ出る精気がないとこき下ろす。ブコロウスキーが自分の書いた文章に勢いがなくなったら、彼はなんと原稿の上にワインを注いだり、マッチで燃やしたりする。さすがブコロウスキーだ。このぐらいのはちゃめちゃなことをして、自分の頭を蹴っ飛ばすのだ。ボクシングの試合も好んで見る。激しい殴り合いが、書く技術、書く方法に何か応用できると信じている。私はブコロウスキーのほかの著作を読んでいないが、これだけでじゅうぶん彼を堪能できて面白い!。

  • 作家で詩人のブコウスキーが、その晩年に書いた日記をまとめた本でした。いちおう日記という格好になっていますが、内容的にはかなり自由にいろいろなことが語られていて、日記というよりエッセイとして楽しめました。
    時に汚い言葉遣いがされていて、何度も途中で読むのをやめようと思ったのですが、その中にきらりと光る人間観察であったり、書くことに対する思いに心を動かされて、結局最後まで読み通しました。

  • 本当は昔を懐かしく思っていても、本当は死を恐れていても、ジジイはそれを否定し、現実を続ける

  • 競馬場に行きたくなる。

  • 04079

  • 「 わたしは50歳になるまでごくありふれた労働者として働いてきた。
     ただ人々の中にまみれていた。自分が詩人だと言ったことなど一度もない。
     生活のために働くことが偉大なことだとわたしはここで言っているわけではない。
     たいていの場合、それはとんでもなくひどくおぞましいことだ。
     しかもそのおぞましい仕事を失わないために必死で頑張らなければならないこともしばしばだ。 」

  • ブコウスキーの遺作となったエッセイ集。とにかく、彼の「書く」という行為への情熱には感嘆させられる。これくらいの情念をプログラミングに向けられれば、僕ももう少し良いプログラマになれたのに...

  • 強烈な爺

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著者プロフィール

1920-1993 ドイツ生まれ。3歳でアメリカ移住。24歳で初の小説発表、郵便局勤務の傍ら創作活動を行う。50歳から作家に専念、50作に及ぶ著作発表。『町でいちばんの美女』『詩人と女たち』等。

「2010年 『勝手に生きろ!』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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