ユダヤ人大虐殺の証人ヤン・カルスキ

  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (228ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309225395

作品紹介・あらすじ

ユダヤ人虐殺の証人として映画『ショアー』にも出演したポーランド人カルスキの苦悩を描く衝撃の作品。カルスキは密使として、ユダヤ人絶滅政策の恐るべき実態を伝え、「世界の良心」を喚起して虐殺を止めさせようと連合国を訪れるが、大国の首脳陣は彼の言葉に耳を貸そうともしなかった。「民主主義の自由世界」は共犯者なのだ、人類の怠慢、無知、無関心が悲劇を生んだのだというカルスキの悲痛な叫びを、エネルは第一部・第二部をノンフィクション、第三部をフィクションという独創的な手法でリアルに描き出す。アンテラリエ賞、フナック賞受賞。

感想・レビュー・書評

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  • 衝撃を受けた。衝撃的すぎて言葉にできない。それを言葉にして人に伝える必要がある。そのキツさ。それがひとつこの本のテーマでもあるが。

  • 人間は自分の利害に応じてのみ行動するものなのだ。そしてまさしくヨーロッパのユダヤ人を救済することは誰の利益にもならなかったから、誰も救済しなかったのである。もっと悪いことに、英米の合意はユダヤ人に対立する共通の利益を隠していた。イギリス人もアメリカ人もヨーロッパのユダヤ人に手を差し伸べようとしなかったのは、彼らを自分たちの国が受け入れなくてはならなくなるのを怖れたからだ。チャーチルの協力者の中には、ヒトラーがユダヤ人を国外追放するするのを恐れたものたちがいた。そうなればパレスチナを彼らに開放しなくてはならなくなり、イギリス人はそのことに反対だった。ロンドンの外務省の非公式な場では、テクノクラート官僚による反ユダヤ主義がみなぎっていた。そこでの移民規制法は反ユダヤ法を少し礼儀正しくしただけのものにすぎなかったのだ。アメリカの国務省は、ユダヤ人難民という観念さえも拒み、その政策は長い間、できるはずの救済を妨害することだった。ルーズベルト政府の態度がスキャンダルを起こしそうになった時になってようやく措置が取られたのである。だが、行政の手続きがあまりにも狡猾だったため、合法的にアメリカの地に受け入れられるはずだった難民のうち、わずか10%ほどしか実際には入国ができなかった。

  • 【毎日新聞書評より】◇池内紀(おさむ)・評

     ◇苛烈で無慈悲きわまる「世界の良心」へ
     ナチス・ドイツがとった反ユダヤ政策はよく知られている。それが大々的なホロコースト(ヘブライ語では「ショアー」=大惨事)へと導いた。これをめぐって多くの書物や研究書がある。物語、演劇、映画、美術にもひろがって、いわば「ホロコースト物」にあたるジャンルが生まれた。

     そこに新しく一つ、出色のものが加わった。ヤン・カルスキは一九一四年、ポーランドの工業町ウッチの生まれ。二〇〇〇年、アメリカで死去。「ユダヤ人大虐殺の証人」は訳書につけられたタイトルで、原題は「ヤン・カルスキ」。第二次世界大戦のさなか、もっとも早い時期にユダヤ人大虐殺の実態を世界に伝え、本にして告発した。戦後、アメリカの大学で教えるかたわら、公には三十年あまり沈黙を通した。いっさい語ろうとしなかった。

     一九八五年、フランスの映画作家のクロード・ランズマンによるドキュメンタリー映画「ショアー」で初めて口を開いた。エネルの小説は、十時間余の長大な映画の終わりにちかい一シーンで始まる。六十歳ぐらいの男が何か語ろうとしているが言葉が出てこない。口ごもり、「私は三十五年前に戻ります」と言うやいなやパニックに襲われた。「彼は泣きじゃくり、顔を隠し、突然立ち上がってフレームの外に去る。(…)男は消えた」

     カメラが探し出したとき、画面に名前が現れた。「ヤン・カルスキ(USA)」。そして「一九四二年の中頃」にもどり話し始める。

     第二次大戦の始まりまで、ポーランド国内のユダヤ人は約三五〇万人を数えた。ポーランドはアメリカについで、世界で二番目にユダヤ人の多い国だった。戦争が終わったとき、ユダヤ人生存者は二五万人。まるで「絶滅種」のように激減した。まさにそのようにして絶滅が図られたからだ。一九三九年、ナチス・ドイツ軍によるポーランド占領以後、歴史に前例のない大量殺戮(さつりく)が実施された。

     首都ワルシャワでは一九四〇年にゲットーがつくられ、三八万人のユダヤ人が閉じ込められた。飢餓、疫病、射殺、さらに一九四二年の夏以後、五千人単位で絶滅収容所へと送られていく。ナチスはきびしく情報管理をして、労働施設への移送と発表していた。ゲットーのリーダーに依頼され、ヤン・カルスキは使者を引き受ける。西欧諸国に歴史上類のない事件を伝える。それが絶望的な状況における唯一の希望だった。「ひょっとしたら世界の良心を揺り動かせるかもしれない!」--。

     エネルの小説は三部構成をとり、一は映画での証言のもよう。二はルーズヴェルト大統領と会見してのち、アメリカにとどまったカルスキが一九四四年に公刊した告発書の要約。ともにドキュメンタリーの手法により、三にいたって初めてフィクションになる。カルスキの独白のかたちで長い沈黙の時期にもどりながら、地上から消された膨大な死者たちと、救済に手をかそうとしなかった「世界の良心」を語っていく。

     独創的な構成によって、一冊の書物がまるでちがった効用をおびてくる。冷静で客観的な証言や記述はすでに七十年ばかり前の過去のことだが、独白を通してくり返されるなかで、まさに現在の「世界の良心」に向けての鋭い批判の矢をもってくる。イギリスは諜報(ちょうほう)機関を通してポーランドで進行中のことをつかんでいた。アメリカも情報を得ていた。事実を十分に知りながら、ヨーロッパのユダヤ人絶滅政策を止めようとはしなかった。「彼らは全員知っていたのに、知らないふりをしていた。彼らは無知を装った。知らないほうが自分たちに有益だったから、そして、知らないと思い込ませることが彼らの利益になったからだ」

     すべての罪をナチスに負わせて一九四五年に幕引きがされた。「同じ年、何か月かをおいて、一方では広島と長崎への原爆投下があり、他方でニュルンベルク裁判が始まったが、誰もこの二つのあいだに少しの矛盾も見なかった」

     ヤニック・エネルは一九六七年生まれ。フランスでは一九九五年にシラク大統領が、国内のユダヤ人検挙と収容所移送にフランス政府の果たした役割を公式に認めて以来、レジスタンス神話一色だった歴史の見方が大きく変化した。いまや若い作家がこだわりのない目で、苛烈(かれつ)で無慈悲きわまる現実を映像にしたり小説にする。ヤン・カルスキが口を開く気持になったのも、学生たちに求められたからだ。日本人にはかかわりのない遠い史実と思われるだろうか? 殺される人間に距離を感じたとき、それが三メートルだろうと数千キロだろうと同じこと。「殺される人々と僕たちを隔てる距離の名前、それは卑劣だ」。

     イスラエル国会はユダヤ人を救済した非ユダヤ人を「諸国民の中の正義の人」として顕彰することを定めている。ちなみに二〇一〇年一月現在で、ポーランド国籍六一九五人、オランダ五〇〇九人、フランス三一五八人、日本人一人(杉原千畝)。これもまた苛烈で無慈悲きわまる数字である。(飛幡祐規訳)

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