- Amazon.co.jp ・本 (312ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309460819
作品紹介・あらすじ
ルイ十四世治下、殺人と汚職によって莫大な私財を築きあげた男たち四人が、人里離れた城館で、百二十日間におよぶ大乱行、大饗宴をもよおした。そこで繰り広げられた数々の行為の物語「ソドム百二十日」他二篇収録。
感想・レビュー・書評
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評価が難しい一冊。
癖のある文章、突拍子もないストーリー。
こういうものか、と受け入れて読むものなのか…詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
まず気をつけるべきなのは、この本に収録されているソドム百二十日は、初めの導入部分(主人公であるブランジ公爵とその弟である司教、キュルヴァル法院長、公爵の学友であるデュルセの4人の道楽者とその妻達の人物描写と、物語のメインである4ヶ月の放蕩に耽るまでの下準備の様子と、放蕩の加担者や犠牲者の人物描写まで)までであるということである。
主人公の道楽者達はどいつもマジキチであり、悪徳を愛し美徳を憎み、無神論者であり、犯罪を犯してはそれをオカズにハァハァするという始末である。
しかし、公爵の言う悪に対する見識(要約すると、「俺みたいな悪だって自然界、ひいては神様が生んだものなんだから、それに背いて悪いことしないってのは神様に逆らうのも同じ。だから俺は悪いことするお!」って感じ)には、なんだか納得させられてしまう。まあこの公爵の見識はそのままサドの思想に基づいたものらしいのだが。
ソドムの百二十日は未完のまま、サドは死を遂げてしまったそうだが、本当にそれが悔やまれる。澁澤氏の訳で完全版が読みたいところである。
悲惨物語も、ソドム百二十日の主人公達のように無神論者のサイコ野郎が主人公である。
彼は源氏物語よろしく、実の娘のユージェニーを見た目や思想までをも自分好みの女に育て上げ、自らの愛人へと仕立ててしまった。彼は自分や娘を心から愛している美しい奥さんを疎ましく思い、色々と酷いことをして奥さんを苦しめ続ける。しかし、奥さんの変わらない愛を受けて最後の最後には改心するのだが、結局救われない最期であった。
個人的に好きな部分は、「奥さんに悪いところがあったとしたら、それは夫や娘を愛していたということである」というとこ。奥さんカワイソス。あと、神父様が生きてて良かった。 -
マルキ・ド・サド(1740-1814)の『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』の抄訳と『悲惨物語』及び附録の三編。
サド小説の特徴は、人間性・美徳・宗教的道徳的なるものへの徹底的な軽侮と、異常性・悪徳・瀆神への傾倒だ。神や人間性に対する信念を無神論で以て嘲笑し辱める。
「悪徳こそ、・・・、いちばん甘美な逸楽の源泉である・・・。」(「ソドム百二十日」)
「私はね、美徳を失墜せしめてやりたいのだ・・・。」(「悲惨物語」)
登場する男たちは、他者(多くの場合は女)を己の快楽の手段として物化する。彼らにとって、女は男の欲望の赴くままに性的快楽を搾り取られる奴隷でしかなく、独立した人格とは看做さない。そこには、恐らく作者自身の、女の性に対する嫌悪と侮蔑、則ちミソジニーが表れ出ているように思う。
同時に彼らは、快楽以外の、人間的な感情や他者の人格に関わる事柄に対して、一貫して無感動だ。彼らの内面には、他者に対する人間的な共感や優しさというものについての感覚など皆無であり、目の前の奴隷に残酷の限りを尽くす。「人間性(human nature)」などと云うものは道徳家や宗教家が捏造した虚構だとして唾を吐きつけ、「美徳」だの「良心」だのと云った因習的な観念による縛めに対して傲然と反抗する。彼らは、哀れな女たちとは対照的に、一種の英雄として描かれている。
ところで、サドの小説に限らず、男が己の倒錯的性愛に耽るべく他者の人格を支配し道具化する手段というのは、決まってカネと権力と暴力だ。それによって創出される性的饗宴の自閉空間は、確かにおぞましいが、単調だ。どんな異常性愛も、言葉にしてしまえば、それまで。 -
「強蔵」という言葉を如何に日常に取り入れるか考える。
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ソドム百二十日は未完なのか。風呂敷広げるだけ広げた冒頭だけなのがなんとも。
悲惨物語はサドの反家庭思想の結晶というのは納得、なかなか面白かった。
もう一遍はサド作とされていたが今は違うということだが学術的に載せたものらしい…ふつうにつまらんかったな。澁澤としてはサドの芸術性を強調したかったのかもしれないw -
ソドムの方は改めて全訳を読んでみる。
とはいえ元々未完らしい。
かなり年代の違いを感じる難しい文章で、私では内容を理解するには至らなかった。
傑作と駄作の違いも私ではわかりません。
ソドムの方は登場人物紹介のパートしかないから続きがやたら気になります。
悲惨物語はもっとあたまがよくなってからよみたいです。 -
許容範囲ではある。が、すこぶる気分が悪い
澁澤龍彦大好きです -
マルキ・ド・サドの代表作。
ちなみにこれとある意味対をなす『美徳の不幸』は澁澤訳がブクログでは出てこなかった。 -
青土社、佐藤晴夫訳を、20ページほどつまみ読み。
驚くべき変態っぷり。食べるための、便の固さや香りの調整など。
フランス革命前後の著とのこと。キリスト教の道徳の押し付けに辟易し、絶望し、どんなことをしたってかまわないのだ、神などいないのだと、人間の自由さや可能性をあますところなく表現したかったんだろうか?人が美しいというものを否定し、人が汚い、おぞましいとするものを賛美したかったのだろうか?
こんなの、日本にもあったのだろうか?
元はと言えば、日中戦争において、日本兵士がなぜ現地女性に猟奇的な強姦をしたのか、あるいは、東大生たちの裸の女子学生を馬乗りにして遊んだ挙句の輪姦、のような犯罪がなぜ起こるか、その原因を性的嗜好にさかのぼって知りたかったのであった。
人間における自由と束縛をめぐる心理複合の所産
背景として
・心理的な補償
・カタルシスの効果
・発達課程におけるインプリンティング、学習
・文化的・社会的な自己の存在主張(現存在の意味充足)
実存的なプロセス。
サディズム+共感性の欠如(パーソナリティ障害やサイコパス)などの条件を揃えた人物がおり、そこから同調圧力によって波及したのかもしれない。 -
いやはや、新年早々のエログロスカ本。この感想をどう書けばいいか迷ってる次第であります。端的に言えばルイ十四世時代に汚職や手段を選ばない行為で私財を築き上げた公爵とその悪友達が山奥の城で四ヶ月間変態乱癡気行為にふけるという話。金と権力があれば何でもありなのか!ずん飯尾のネタの様に『日曜の昼間からゴロゴローゴロゴロー、あーあ、俺も公爵だったらなぁ』とのたうち回る。エログロスカが一杯詰まったこの話、何やら序章的な所で終わっているが完訳版まで見るのはしんどい。お腹一杯、汚物一杯。イギリス型の玉門をググったのはここだけの話。