ハイファに戻って/太陽の男たち (河出文庫 カ 3-1)

  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (296ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309464466

感想・レビュー・書評

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  • 作者はパレスチナで生まれた。
    作者12歳の1948年4月9日に、ユダヤ人武装組織が当時イギリスの委任統治領であったデイル・ヤシーン村を攻撃して見せしめのような村人虐殺「デイル・ヤシーン事件」を起こす。パレスチナはパニックに陥いり、多くのパレスチナ人が国外へ避難した。この時に作者の一家も難民となった。
    その一ヶ月後の1948年5月14日に、ユダヤ人国家イスラエルの建国が宣言される。
    作者は家族のために働き、成長してからは執筆と政治活動を行うようになった。36歳の時に自動車に仕掛けられた爆弾により死んだ。

    ここに入っている短編は、突然の攻撃で身一つで家を追われて難民となった人々の生活そのものだ。貧しい生活は親族でも疑いあい、幼いうちから働き、噓で周りを固める。
    作者はユダヤ人にパレスチナを追われたのだが、ユダヤ人にも悲劇がある。民族が戦って入るが、個人としては相手を憎むわけではない、ただ双方ともに決定的に家族を、故郷を、人間らしさを失う。

    作者はこんな小説を書きたくはなかっただろう。哀しさも怒りも持つこともできないくらいに、ただすべてを失った人たち。こんな小説を書かなければいけない現実がある。なんと言えばいいのか、こんなことがあってはならないとしか言えないのだが、あまりにもつらい。
    <祖国というのはね、このようなすべてのことが起こってはいけないところのことなのだよ。P257>

    本書のを登録している皆さんのレビューを読ませていただきました。皆さん大変素晴らしいレビューで、ありがとうございます。


    『太陽の男たち』
    イラクのバスラから、クウェイトに密入国を計る男たち。村を襲われ家族を失い行き場も持ち物もない老人、家族のために働かなければいけない少年、テロリストとして追われている若者、そして彼らに密入国を持ちかける元兵士。彼らに待ち受けるあまりにもあまりにも酷い結末。

    『悲しいオレンジの実る土地』
    オレンジの実る自分の村を突然に離れなければいけなくなった一家。
    父親は一家心中を目論むまでに追い詰められる。
    村からなんとか持ちだしたオレンジは、すっかり干からびていた。

    『路傍の菓子パン』
    難民キャンプ小学校の教師になった主人公は、ハミードという生徒が気になっていた。だがハミードの話が噓ばかりとわかって主人公は傷つく。「かつて自分もそうだった」としても通じないものがある。少年であっても噓で塗り固めなければ自分を守れないのだ。
    ==著者は実際に難民キャンプで教師をしていた。そこで子供でいられない子供を見たんだろう。

    『盗まれたシャツ』
    難民キャンプで暮らす大人しく貧しい男。
    食料も仕事も不足している。配給される食料はアメリカ人の見張りや、難民キャンプの住人たちが盗んで売り捌いている。
    そんな事実を知って男の衝動が弾ける。

    『彼岸へ』
    <人間ってのはたいてい自分が明日場所で足場を得ると「それじゃあ、どうする?」って将来のことを考え始めるもんでしょう。(…略…)自分に「それじゃあ」って先のことがからっきし与えられてねえってことがわかったときくらい、無惨なことはねえですよ。(…略…)皆が一斉に喚くんです。「これで生きているって言えるのか、死んだほうがまだましだ」ってね、人間手のは普通、死ぬことをそれほど好きじゃあないもんですよ、それで他のことを考えざるを得なくなるんですよ。P172>

    『戦闘の時』
    親族二家族で狭い家にひしめき合っていた。10歳の少年たちは盗みで生計を助ける。
    あまりに貧しい生活で、互いを見張りあい、誰かが持っている金や食べ物を狙い合う。親族といっても常に「戦闘状態」でいたのだ。「戦争中」ではない、それなら休息の時間だって有る。だが難民生活は親族相手であっても気が抜けない「戦闘中」なのだ。


    『ハイファに戻って』
    1948年4月21日月曜日の朝。アラブ人地域のハイファが突然攻撃された。サイードとソフィア夫妻は身一つでハイファ去らねばならなくなり、生まれたばかりの息子と生き別れた。
    今ならハイファに戻れるんだ。息子の消息がわかるだろうか。
    自分たちの家にはユダヤ人入植者が住んでいた。ポーランドで差別され家族はアウシュビッツで死に、イスラエルにやってきたのだ。
    そこで取り残されていたサイードとソフィアの息子を引き取り育てていた。

    帰ってきた息子は、サイードとソフィアを拒絶し、非難を浴びせる。彼はユダヤ教を信仰し、ユダヤの学校に行き、ヘブライ語を学んだ、そして今ではアラブ人と戦う兵士になっていた。自分がアラブ人両親と生き別れたアラブ人だと知ってもその気持は変わらない。

    サイードとソフィアは、そして20年前にハイファから身一つで逃げ出した人たちは、家族を、家を、祖国を決定的に失ったのだ。

    それは彼らだけではない。ハイファに戻ったほかのかつての住人たちも、自分の家や家族の持ち主になっているユダヤ人を憎む気持ちも浮かばないくらいに、そこがもう故郷ではないことを思い知る。

    <祖国というのはね、このようなすべてのことが起こってはいけないところのことなのだよ。P257>

  • 昔一度読んで半ばトラウマになりかけて、その後に2年程シリア難民支援に携わってから、本当のトラウマになってしまった本。一夜にして祖国を奪われてしまった人間の声なき叫び、涙なき慟哭が、ページを捲る度に押し寄せてきて、あの胸を抉られるような日々と重なった。何とか前を向かなければいけない、というただその一心だけで今回、何度も何度も本を置きながらやっと再読できた。

    情景描写と心理描写の融合が本当に巧みで、どんなシーンも眼前に迫り、登場人物の心の動きに自らのそれを重ねてしまう。(「四人の憔悴した一行を乗せた車は、まるで熱い錫の薄板の上に垂らされたねっとりした油の一滴のように、砂漠の中を進んでいった…」この一文からだけで切迫した状況が遅々として解消されない絶望感が伝わってくる)。それ故一話一話があまりに重過ぎて、近過ぎて、息が詰まりそうになるのだけれど、この作品が「人間の犯し得る罪の中で最も大きな罪」を記した「告発書」として、出来る限り多くの人々の心の中に刻まれる事を祈る。声は挙げ続けていかなければいけないから。

    「太陽の男たち」ー国境という一本の線に命を左右される男達を描いた表題作。「悲しいオレンジの実る土地」ー祖国を奪われた人間は、同時に命以上に大切な何かも奪われる。「路傍の菓子パン」ー唯一支援者の側から描いた短編、とてもパーソナルな作品だった。「盗まれたシャツ」ー悲劇が悲劇を生む連鎖。「彼岸へ」ー不幸は決して平等に訪れない。「戦闘の時」ー5リラを巡る子供達の闘い。「ハイファに戻って」ー祖国とは何か、犯してはならない罪とは何か。

    最後にここに記しておきたい一文を:「その人間が誰であろうと人間の犯し得る罪の中で最も大きな罪は、たとえ瞬時といえども、他人の弱さや過ちが彼等の犠牲によって自分の存在の権利を構成し、自分の間違いと自分の罪とを正当化すると考えることなのです」。

    • 淳水堂さん
      Withverneさんこんにちは。

      Withverneさんは難民支援をしていらっしゃるのですね。

      私は恥ずかしながらパレスチナ、...
      Withverneさんこんにちは。

      Withverneさんは難民支援をしていらっしゃるのですね。

      私は恥ずかしながらパレスチナ、イスラエル問題の歴史的なことや実際に何が起きたのかをわかっていなくて、そんな時にこちらの本を知りました。

      民族としては追い出したり戦っているけれど、個人としては憎しみの浮かばないくらいに徹底的に故郷を失っているという非人間性にさらされてまさにショックな読書でした。

      また色々な本を参考にさせてくださいませ。
      2023/11/13
  • 『ガザに地下鉄が走る日』を読んでいたこともあって、とてもすんなり移入できた。
    特に『彼岸へ』と『ハイファに戻って』が刺さった。
    世界に向けての慟哭。無き者とされ続けている人々の叫び。ノンフィクションやルポルタージュだけでは伝えにくいものを文学は伝えてくれる。

  • パレスチナに生まれ、難民となり、解放運動に身を投じ、36歳で爆殺された著者による短編集。パレスチナ問題について無知だったため、まずは平易に書かれた入門書『ぼくの村は壁で囲まれた パレスチナに生きる子どもたち』(高橋真樹著、現代書館)を読んだうえで本書を手に取ったが、歴史や地理が苦手なわたしにはそれで正解だったと思う。表面的かもしれないが事実関係を把握したうえで、そこに暮らす個々人の思いに物語を通して心を寄せることができた。故郷を追われる人々の「痛切」などという常套句では表現しつくせないような哀しみ(「悲しいオレンジの実る土地」)には涙を禁じ得なかったし、無邪気な子ども時代を手放し、たくましくならざるをえない子どもたちの姿(「路傍の菓子パン」「戦闘の時」)には口の中に砂を詰め込まれたみたいな苦さを感じた。「盗まれたシャツ」、「彼岸へ」は短編ならではのスリルがあり、強度があった。どこか民話を思わせる語り口に光景がありありと思い浮かぶ。表題作の一つ「ハイファに戻って」は、イスラエルによって追われた街に20年ぶりに戻ってきた夫婦が、置き去りにせざるをえなかった息子と再会する中編。「生きていただけでよかった」などと喜び合う結末を一瞬でも思い浮かべた自分が恥ずかしくなるような展開で、それが浮き彫りにするのは、人間とはこういう生き物だという紛れもない真実。本書を読んだ以上、ガザで繰り広げられる悲劇を前に「なんとか仲直りして平和に暮らせないのかな」などと安易に口にすることはもうできない。慣れずに忘れずに考え続けたい。

  • こりゃとんでもないものを読んだ......。と頭を抱えました。しばらく他の何を読んでも薄っぺらく感じそうなほど、重くて強い本でした。
    私のようにパレスチナ問題に詳しくない方は、解説で紹介されている手記を先に読むことをお薦めします。これからもう一度読み直します。

  • 「俄かに」と表現するのが、自分自身の認識としても、パレスチナのことについて目を向けていなかった自分の怠慢な態度にも相応しいが、「俄かに」イスラエルとパレスチナ問題が、再び、世界のニュースになった。いつも目を向けるのは、最悪の事態になってからで、それまでの声を国際社会は無視し続けているという、(自分自身に対しても)憤懣やるかたなさ。この問題は欧米が生んだ問題として、日本もテルアビブ空港射殺事件などに関わっている問題として、向き合い続けなければいけないのに、ダブルスタンダードの立場で、無辜の人々の生活を殺しつづけている…。そういうやるせなさがこの10日間去来しているが、その時にまず自分ができることとしては、寄付することと、やっぱり本を手に取ることなのである。

    パレスチナ文学というものを手に取ったのは初めてで、アラブ文学もほとんど読んだことがない。邦訳もあまりされていないようだが、その中でも一番目にする本作が図書館にあったのでいそいそと借りて読んだ。
    どの作品も相応の重さがあって、想像もしていなかった現実がきっとこういう風にあるのだろうと思わせるのに十分だった。もっと邦訳してくれ頼む…!

    収録作品は7つ。「太陽の男たち」「悲しいオレンジの実る土地」「路傍の菓子パン」「盗まれたシャツ」「彼岸へ」「戦闘の時」「ハイファに戻って」

    「太陽の男たち」一番しわ寄せをくい、リスクを取ることを求められる何も持たない人々の、非業な死。「なぜおまえたちはタンクの壁を叩かなかったんだ。なぜタンクの壁を叩かなかったんだ。なぜだ。なぜだ。なぜだ。」たった数分が命取りになる、そんな過酷な状況が、タンクの中で起きて、家族にも知られず、砂漠に身体は放り捨てられてしまう。きつかった。

    「悲しいオレンジの実る土地」
    …その時ぼくにはオレンジが、何かとてつもなく重要なもののように思えた。清らかな大粒のオレンジの実が、ぼく達にとって何かかけがえのないもののように思えた…
    …オレンジ!自分の手でそれを植え、育てていた農民が土地を追われ、オレンジからひき離されようとしたとき、「オレンジは、その水加減をする手が変わると、枯れるのだ」と叫んでいたっけ…

    恥ずかしながら、デイルヤーシン事件を知らなかったし、命さえあれば人間何処にでも生きていけると思っていた。けれどこの二人称で語られる掌編には、愛した土地と歴史と人間と、愛したすべてのものを奪われる慟哭が描かれ、難民にさせられるということがどういうことなのか、突き付けられた。一つのオレンジに込められた思いが読むこちら側の胸を打って、悲しくて途方に暮れてしまう。

    「路傍の菓子パン」こちらもきつかった…し、あるじゃんこういうの絶対。先生側の怒りも、生徒側の嘘をつく気持ちもよくわかるんだよ…
    「先生、一年も同じ靴はいてんのか?こいつぁ、安もんだね」もう最後の一文で無理でした、泣いた。大人過ぎて…過酷さが子供たちを大人にしていて…お腹もすくだろう、頼るべき親がいなくてつらいだろう、ただそこに生まれついたというだけで辛酸をなめなくてはいけない不条理さ…きつい、けど読んでしまうカナファーニー…

    「盗まれたシャツ」
    …今月は粉は遅れないぞと絶叫している自分を、アブウ・サミールの身体からひき離したのかも、おぼえがなかった。彼がおぼえているのは…(中略)彼はこの子に新しいシャツを着せることができ、この子が笑ってくれたらという想いが、依然として自分の中にあるのを知った…
    言語化なんてできない諸々がここにはあるんですよ…

    「彼岸へ」設定も面白かったし、もちろん話自体も面白かった…。
    …旦那さん、あんたたちは俺を溶かしてしまおうとしましたね!そのためにまあよくも、まるで疲れることも倦きることも知らぬげに、不断の努力をしてくれましたね。…いや、あんた達はまったく驚きいるほど首尾よくやってのけましたよ。あんたがたはまったくまんまと俺を変えてしまったってこと、ご自分でわかってますねえ…そう、一人の人間から一つの状態へとね。そう、ですから、この俺というのは、一つの状態なんですよ。それ以上のものでは決してねえんだ。たとえそれ以下であることはあっても。俺は一つの状態なんだ。俺たちは一つの状態なんだ。そうだからこそ俺たちは驚くほど平等なんですよ。旦那、これは驚くべきことですよ、まったく途方もねえことですよ。そりゃあ長い時間かかりましたよ。しかし、ねえ旦那さん、百万人の人間を一緒に溶かしちまって、それを一つの塊りにしてしまうってことは、決して並のことではねえですよ。ですからそれには長い時間が必要だってことには、同意してもらえると俺は思いますがね。あんた達は、この百万人もの人間から一人一人が持ってる各自の特性ってやつを喪わせちまったんですよ。あんた達には、一人一人のを見分ける必要なんかねえんですよ。だってあんた方が目の前にしているのは、状態なんですから…
    …"これで生きてるっていえるか?これなら、死んだ方がましだ"それから何日かたつと、その声は大声に変ってわめきはじめるんですよ。"これで生きてるっていえるのか?死んだ方がまだましだ"このわめき声は、旦那さん、感染していくんですよ、そして皆が一斉にわめくんです。"これで生きてるっていえるか、これなら、死んだほうがまだましだってね。人間ってのは普通、死ぬことを、それほど好きじゃあないもんですよ。それで、俺たちは他のことを考えざるを得なくなるんですよ。…
    痛烈で、客観的で、こちらも言葉を失う。

    「戦闘の時」本作の中で一番希望があるというか…。子供視点の話。もちろん「きみにはわかってもらえないだろうなあ、それは、戦闘時においてのことなのだよ」という最後や、解説にあるように「カナファーニーは、表現者として何度も自己の正気を危うくしながらも、自分が帰属する民衆の悲惨の一つ一つをつぶさに見つめてきたが、ついにパレスチナの悲劇それ自身が生んだ、申し子ともいうべき不退転の民衆の姿をつかんだのである。「自分は、もはや民衆のために書くのではなく、民衆のことをそのまま書いてゆけばよいのだ」と、述懐している」ということなので、もちろん重みのある名作なのだが。

    「ハイファに戻って」もし一作だけ薦めてほしいといわれたら、悩んだ末に選ぶのは本作だと思う。
    …しかし、いつになったらあなた方は、他人の弱さ、他人の過ちを自分の立場を有利にするための口実に使うことをやめるのでしょうか。そのような言葉は言い古され、もうすりきれてしまいました。そのような虚偽でいっぱいの計算ずくの正当化は…。ある時は、われわれの誤りはあなた方の誤りを正当化するとあなた方は言い、ある時は、不正は他の不正では是正されないと言います…。…その人間が誰であろうと人間の犯し得る罪の中で最も大きな罪は、たとえ瞬時といえども、他人の弱さや過ちが彼等の犠牲によって自分の存在の権利を構成し、自分の間違いと自分の罪とを正当化すると考えることなのです…

    それから途中に挿入されるストーリーもまた、命があればいいと思っていた私には目から鱗というか、ようやくわかったというか…
    …私達は彼と共に生き、彼は私達と共に生きて、私達の一部になってしまいました。昨夜、私は妻に話したのですが、あなた方が彼を取り戻したいのなら、家を取り戻し、ヤーファをも取り戻さなければいけないのです。写真を取り戻してもあなた方の問題は解決しません。しかしあの写真は、あなた方から私達への架け橋でもあり、私達からあなた方への架け橋なのです…

    それから他の方も挙げているけど、
    …「おまえには祖国とは何だかわかるかい、ねえソフィア。祖国というのはね、このようなすべてのことが起こってはいけないところのことなのだよ」
    という文の衝撃がぐっときて、どうしようもなくなって、ああ!という感じ。それしかいえない、形容なんてできない。

  • ガッサーン・カナファーニー(1936~1972年)は、パレスチナの小説家、ジャーナリスト。
    1936年、イギリス委任統治下のパレスチナのアッカー(現イスラエル領)で、スンナ派ムスリムの両親のもとに生まれたが、1948年に、
    ユダヤ人勢力によって第一次中東戦争開始直前に仕組まれたデイルヤーシン村虐殺事件をきっかけに、難民としてシリアに逃れた。高校卒業後は、ダマスカスで出版社の社員、難民救済機関の学校の教員となり、1956年には、姉を頼ってクウェートに行き教員となったが、1960年、「アラブ人の民族運動」の誘いに応じてベイルートに渡り、1967年に「パレスチナ解放人民戦線(PFLP)」が設立されると、そのスポークスマンに就任、PFLPの機関紙の編集にも携わった。PFLPでのカナファーニーの発言は、世界中のジャーナリストの耳目をひき、イスラエルにとっては脅威となっていたという。1972年、ベイルートで自分の車に仕掛けられていた爆弾により暗殺された(暗殺したのはイスラエルの特殊部隊と言われている)。享年36歳。
    カナファーニーは、現代アラビア語文学の主要な作家の一人、パレスチナ人の代表的な作家として認知されており、本書に収められた「太陽の男たち」は、現代アラビア語文学の傑作の一つに数えられている。本書の7篇は、1972~73年に出版されたカナファーニーの遺稿集『全足跡』の一部で、日本語訳は1978年に『現代アラブ小説全集』の一冊として刊行され、2009年に復刊した『太陽の男たち/ハイファに戻って』を2017年に文庫化したものである。
    私は普段ほとんどフィクションを読まないのだが、エルサレム及びパレスチナを現代世界の縮図と考えており、3年ほど前にはエルサレムとヨルダン川西岸地域を一人で一週間ほど旅して来たこともあり、今回本書を手に取った(残念ながら3年前にはカナファーニーのことは知らなかった)。
    中編2作のうち、「太陽の男たち」では、イラクのバスラからクウェートへの密入国を図る3人のパレスチナ難民が、身を隠した給水車のタンクの中で、炎天下の砂漠の暑さに耐えきれずに悲惨な死を遂げ、「ハイファに戻って」では、ユダヤ人武装勢力によってハイファを追われたパレスチナ人夫婦が、20年振りにハイファに戻り、已まれぬ事情でハイファに残した生後6ヶ月だった息子が、完全なユダヤ人として成長した様子を目の当たりにする。いずれも緊迫感のある舞台設定で、それだけで我々読者を引き込んでいくが、カナファーニーの作品の真髄は、全てがパレスチナ問題に抜き難く関わっていることである。「太陽の男たち」で、給水車を運転した男は最後に、なぜタンクの壁を叩かなかったのか、と絶叫するのだが、これは、過酷な環境に押し込められたパレスチナ人全員に対して発せられたものなのだ。また、「ハイファに戻って」では、後半で何度も繰り返される「人間はそれ自体、自己の問題を体現する存在なのだ」という言葉の中に、パレスチナ人が四半世紀の苦闘の中で到達したものをくみ取ることができる。
    その他の短編も、自らが目にした、デイルヤーシン村虐殺事件をきっかけに故郷を追われるパレスチナ人、難民となりダマスカスで暮らすパレスチナ人の子ども、四半世紀を経てなお難民キャンプで日々の食べ物にも困るパレスチナ人、等の姿を鋭く切り取ったものである。
    カナファーニーが世を去ってから既に半世紀が経ったが、パレスチナ問題は根本的な解決に向けて何ら進展を見せないばかりか、米国が大使館をエルサレムに移転するなど、現状の既成事実化が進んでいる。
    日本の一市民である我々にできることは、この問題に強い関心を抱き続けることに尽きるが、現状に関する報道に常に敏感であると同時に、本書に描かれたようなパレスチナ人の思考・歴史認識(の変遷)を知ることも大切であろう。
    (2020年7月了)

  • パレスチナのことを知りたいと思って読んだ。
    小説であるのに、現実との繋がりの距離が近くて……いや、そうだと思ったから読み始めたのだけれど……。
    改めて、人間同士のことでなぜこのようなことが起きてしまうのだろうと……解説文のパレスチナ人男性の言葉も訴えかけてきて、Noと言わなければと思った。

  • イスラエルとパレスチナの話を少しでも知れたらとおすすめされた本を手に取った。
    作者は十二歳の時に難民となり、イスラエル側に危険視され爆弾テロで暗殺され、三十六歳の若さで亡くなっている(しかもまだ幼い姪と一緒に)らしく、その情報からもうすでにしんどい。「デイル・ヤシーン事件」を知らなかったので、検索かけて泣きたくなった。
    作者が亡くなってから五十年経ってるのに、依然としてかの地はマシになるどころかますますひどいことになっている。これを読んでいる間に「ガザでの戦闘、子供の死者一万人超」という見出しのニュースが目に入ってもう勘弁してくれと思う。
    私が読んだのは単行本の方なんですが、装丁が白地に誰かの血液を垂らして雑に引きずったり擦ったりしたのが乾いたみたいなデザインで、「そういう話ですよ」と全力で伝えてくる。
    冒頭の作品からすでに「先生はユダヤ人が攻めてくる前に死ねたからあの地に留まれたし屈辱も悲惨も感じずに済んだ」みたいな文章が出てきて頭を殴られるようだった。
    休み休み読まないと本当につらくてゆっくり読んでました。感想長いです。

    「太陽の男たち」…難民キャンプからクウェートに行きたい三人の男とそれを助ける男の話。助ける側の男はたまたま車の使い方がうまい運の良い人間だっただけで三人とほぼ似たような経緯の人間。
    給水車の中へ隠れて密入国をする手はずになるが、夏の日本ですら車の中で熱中症になって死亡する人もいるので、イラクの照りつける残酷な太陽の下、給水タンクという窓も空調もない鉄の容器の中はファラリスの雄牛みたいになるのは目に見えていた。
    勝算がないわけではなかった。だのにたまたまその日だけ入国の署名を勿体つけた係員のせいで大幅に時間がかかってしまい、車を急がせたけれど当たり前に三人とも死んでいました。おしまい。救いがなさすぎる。
    ハイズラーン(密入国を助けていた男。強制的に去勢手術を受けたか、戦闘による怪我で男性機能を失ったかしたらしい。その描写は性暴力のようにすら見える。他民族による侵略が起きた土地は民族浄化も起きやすい)は給水タンクの中の惨状を見て狼狽し、三人の哀れな死体から金目のものをとりあえず剥ぎ取りながら(ここがすごい描写だと思いました。彼もまた聖人ではないし困窮した人間であるけれど、仲間の死を悼み後悔し泣く心はあるという絶妙さ)「なぜお前たちはタンクを叩いて助けを求めなかったんだ」と慟哭するも時すでに遅く、誰も応えることはない。
    だけど、タンクを目いっぱい叩いたとして。三人が大声で叫んで助けを求めたとして。ハイズラーンは彼らを助けるために何が出来ただろうか。何も出来なかったと思う。タンクの中の三人もそれをわかっていたからそうしなかった気がする。ハイズラーンが署名を受け取る間に助けを求めて捕まっていたら三人はまだ生きていたのか。もっとひどいことになったかもしれない。少なくともハイズラーンは何かしらの罰を受けると思う。
    紛争の縮図のようだった。安全圏にいる人間が「もっと声高に助けてと叫んでくれたら助けるのに」って言っても仕方ないのと同じで。
    三人の男たちはどことも知れない場所に放置され、名前も残らず、埋葬されればいい方で獣や鳥に遺体をついばまれるかもしれない。そうして行方不明者として処理されるんだろう。家族に知らされもせず。そうした人たちが、彼らだけではないのだとわかっているから落ち込んでしまう。
    難民問題のニュースで「儲け目当てで、難民を積載量以上に大量に乗せた船が案の定転覆して子供含む多くの人々が亡くなり遺体が多数海岸に打ち上げられた」とかあるじゃないですか。あれを丁寧にその人の人生と家族とかすかに見える密入国した後の未来への希望の物語を描いた上でのこの結末。たぶん現実世界にも似たような亡くなり方してる人はたくさんいて、その人たちは最期の言葉すらなく何も遺せず何も伝えられず亡くなっている。「金持ち連中はスムーズに亡命出来てるけど貧しい人間にはこれが当たり前」という現実。
    男性てしての機能を失ったハイズラーンを女性名のハイズラーナと呼んだり踊り子とよろしくやってんだろ?と事情を知りながらからかったり、クウェートの人なのかイラクの人なのかわからないけど、窮する同じアラブの人間を貶める人間もいたという醜さもありありと描かれていて、トラウマになりそうな話だった。
    ハイズラーンが何度も神に呼びかけるシーンがあるのが胸を突き刺した。彼らの神はこの結末をもたらした。飲み込むしかない現実に読者もボロボロになる。

    「悲しいオレンジの実る土地」…二人称で子供の視点から描かれる、パレスチナの人たちがどのように土地を奪われたかの話。何年もかけて植えたオレンジの木ごと何もかも一瞬で奪われた苦しみ。この幼い主人公の中で、全知全能の神もこの土地を見放し逃げたと了解されてしまっていることの悲しさ。
    「きみの父さん」は絶望から子供たちを自分の手で殺して自殺しようとまでする…。そちらの方が幸せなのだと思ってしまうのも無理はない。今現在のパレスチナの惨状を知っているので。
    「ぼく」と「きみ」がどうなったかも描かれずプツンと物語が途切れるのがこれは現実と地続きと突きつけられている気持ちになる。唯一持ち出せたオレンジの実も、静かに乾いて朽ちていく。
    イスラエル建国は1948年。武力衝突は未だに続いているけれど、「パレスチナの人が何もかも奪われた」その日その年のことを語れる人は減っているのではないか。第二次世界大戦を語れる人が減っているように。早くどこかに書き留めておかないといけないのでは?と思った。

    「路傍の菓子パン」…靴磨きの子と、かつて靴磨きをしてた主人公の話。靴磨きの報酬の賃金以上の心づけのお金をもらってしまうと嬉しさよりみじめさが襲ってくるという針で刺すような文章がある。
    主人公は靴磨きのハミードと学校で教師と生徒として再会。そんな中、主人公の弟がお弁当を届けに来た。ハミードはそれを見て「死んだ兄ちゃんにそっくりだ」と話す(本当のことか嘘のことかは判明しないけど、このお兄さんの死に方も悲惨すぎる…)。そこから主人公とハミードは仲良くなっていくけれど、ハミードの話はどうも虚実混ざっていて主人公は混乱する。トラウマを抱え安心できない場所で育つ子供が嘘をついて心を守ったり、大人を思いやっての嘘をついたりする気持ちもわかるだけに、つらい。
    重たい話だけどハミードの明るさに救われる。希望があってありがたい話。
    ……なんだけど、作中で「パレスチナよりかは平和で都会のダマスカス(シリアの首都)」も今現在は内戦で何年も紛争続いてる土地だよなあと気づいて頭を抱えてしまった。

    「盗まれたシャツ」…タイトルがよくわからなくて何度か読み返してしまった。息子のシャツのための配給を掠め取ってる誰か、という理解で合ってるかな。
    またしても靴磨きが作中に出てくる。戦後の日本もそうだけど、子供がすぐできる仕事として世界共通のものなんだろうか?元手かからない仕事なのかもね。
    今回の武力衝突でも、西側諸国(とりわけアメリカと、スネに傷を持つがゆえに何も言えないだろうドイツ)の反応に驚いたけどまあこういうことは普通に起きてただろうなと思ってしまう。

    「彼岸へ」…国を失い家族を失い豚野郎と呼ばれ、選挙権などもなく人であることを剥がされてしまった男の怒涛の奔流のような独白。観光客のダークツーリズム、物見遊山への痛烈な一撃。喉から腹から血を吐き撒き散らしながら叫び続けるような文章だった。
    「これでも生きてるっていえるのか?死んだ方がまだましだ」…戦闘で死んでも生き延びても地獄って悲しすぎないですか。

    「戦闘の時」…ネコババした五リラ(紙幣なのでかなりの額だろう)について、自分が拾ったからぼくのものだと守ろうとする「ぼく」と家族たちの話。家族ですら疑い合い、奪い合いになってしまう。最終的にその五リラは「ぼく」が気を失ってる間に盗まれちゃうんだけど、道徳だの譲り合いだのは平時だからできることで戦闘中だからこうなっても仕方ないよね、というメッセージ。なのに軽妙だ。それでも強くやっていくしたたかさを勝ち得た人たちの話。良いか悪いかの是非を下せる人はいない。

    「ハイファに戻って」…占領された故郷に戻った夫婦の話。生き別れた(死んでいる可能性が高い)息子を忘れられず探しに戻った二人が見たものとは。
    ハイファという彼らの故郷が予告もなく銃撃と爆撃で満たされ、混乱の中逃げおおせる描写が絶望的。
    「予兆はあったのかもしれない」「あったかもしれないが予測などできなかった」と主人公のサイードは述懐する。どの紛争地域でもそうだろう。種は蒔かれていたはずだけど誰も「そう」なるとは考えていなかったはずで。
    自分たちが暮らしていた家に誰かが住んでいて泣き崩れるソフィアの姿が痛ましい。この新しい住人もまたどこかから逃げてきた老夫婦であったらしい(ボロニアという地名はイタリアのボロニアでいいのかな?)。
    彼らもまた迫害の被害者だ。夫はすでに亡くなり、ここで一人で暮らすミリアムは父をアウシュヴィッツで亡くし、幼い弟が射殺されるのを目の当たりにしている。サイードもそれを読み取っただろうから何も言えない。
    彼らの知人ファーリスもまた似たような経験をしていて、別の人の物になったかつての自分の家に死んだ兄の写真が未だに飾られていて、その一家の一部となりつつあるのを見て、一度は返してもらったのに、「これはあの家にあるべきだった」ととって返してユダヤ人家族に再度渡している。この心の動きが複雑すぎて、なんとなくわかるような、わかってしまうことは私には出来ないと思ってしまうような、ただやるせなさだけが残った。その後ファーリスは武器を取った(戦闘に加わった、つまりユダヤ人からの解放、家を取り戻すことを願った?)との言葉もまた重い。
    二人の息子ハルドゥンはドウフと名前を変えられユダヤ人に育てられてしまい、ものものしい軍服に身を包んだ姿で帰ってきた。
    「あなたは向う側の人だ」息子から発せられた冷たい言葉。さらに「礼儀をわきまえた人間同士として話しましょう」→「向う側の人間とは話したくないんだろ」(意訳)という血を分けたはずの親子の会話の凄まじさ。ドウフはもうアラブ人を同じ人間と見ていない可能性がある。
    「お前が戦うのは実の弟かもしれないことを覚えておけ」サイードのなけなしの嘘がつらい。サイードはむしろここに来るまでは息子を戦闘に行かせるのを止めるような人間だったのだ。なのに、「息子が自分の留守の間に戦闘に加わっていたらいいのに」と願う人間になってしまった。
    サイードはまたミリアムが自分に都合のよい捻じ曲げられた経緯をハルドゥンに語ったことを苛むが、もう誰にもどうしようもない。だがしかしサイードの言葉はハルドゥン…ドウフがこの先の人生を疑うに値する鋭さと重みを持って彼を突き刺しただろう。だからこそ、ドウフは「お前らはハイファを出るべきじゃなかったし今さら帰ってきたってしょうがない、お前ら二十年何してたんだ、戦って勝ち抜けば良かったのに」と青臭い理想論を叩きつけたのだと思う。その時のことを知らない人間の言う言葉って残酷だね。
    ドウフが言うようにサイードが武器を取って彼の信じる正義を成したら最初に殺されるのはたくさんのミリアムやかつての自分でないかということに思い至らないドウフの傲慢さときたら。自分たちが永遠に絶対的に優位であると信じているのかもしれない。
    サイードの「虚偽でいっぱいの計算ずくの正当化」という言葉が重い。
    ミリアムとその夫とて別に個々としては悪辣な人間であるわけではないしユダヤ人同士では親切な部類の人間なんだろうなと垣間見ることはできるけど、朱に交われば赤くなることもあるだろうし、学校や友達の影響もあろうとは思うけど、彼らなりの真摯な愛情を持った「当たり前」の育て方をしたらドウフがこんな人間に育っちゃいましたというのがなんとも歯がゆいよ。これじゃあ世代が変わったところで何も変わりはしない。
    目の前の隣人が悪いわけではない、旗を振る人間が悪いんだ、「向う側の人」とあっさり言わせてしまう教育が悪いんだと武器を取りたくなる心の動きがよくわかる…。読者である私も復讐したり武力で奪い返すのもやむなしみたいな気持ちにさせられてしまったのがすごく嫌だ。それをしちゃうともうやったりやり返したりの繰り返しになるしかないのにね。

    最初の作品と最後の作品が一番しんどいサンドイッチ構造みたいになってて、構成考えた人は鬼かなって気持ちになったけどこれが現実だろうので仕方ない。
    巻末の解説もまたつらい。難民カードの整理番号で管理されるパレスチナ人の青年の言葉がとてもつらい。糸引いてたのはイギリスですよってはっきり書いてるのがまた…。ルワンダしかり歴史を紐解くと西側諸国の植民地支配が引き金だったりすることが多く暗澹たる思いになる。
    それでもこの本が発行されたのはとても大切でありがたいことなのではないかと思うし、今生きている人の言葉を一つでも届けてほしいと願うけれど、現実は物語以上に厳しそうだ。

  • 「私はこのハイファを知っている。しかしこの町は私を知らないと言うのだ」

    褪せない現代性

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著者プロフィール

1936年パレスチナ生まれ。12歳のときデイルヤーシン村虐殺事件が起こり難民となる。パレスチナ解放運動で重要な役割を果たすかたわら、小説、戯曲を執筆。72年、自動車に仕掛けられた爆弾により暗殺される。

「2017年 『ハイファに戻って/太陽の男たち』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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