女ぎらい――ニッポンのミソジニー

著者 :
  • 紀伊國屋書店
3.85
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感想 : 141
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  • Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784314010696

作品紹介・あらすじ

ミソジニー。男にとっては「女性嫌悪」、女にとっては「自己嫌悪」。「皇室」から「婚活」「負け犬」「DV」「モテ」「少年愛」「自傷」「援交」「東電OL」「秋葉原事件」まで…。上野千鶴子が男社会の宿痾を衝く。

感想・レビュー・書評

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  • この本で批判されている、まさに「女ぎらい」な社会を生きてきた「男」として興味深く読む(そんな社会に加担した覚えはないが、その自覚自体この「ホモソーシャル」な「男社会」で安寧と暮らしている怠慢の産物だろう)。ぼくからすればボーヴォワール的に「女になる」のと同様に男だって例外はあれどどこかで(たぶんに性愛を通して)「男になる」「男に染まる」ものなのだと異論も言いたくなるし、他にも言いたいことはあるがしかしこの本の論点から切実に「逃げちゃダメだ」とも思った。彼女の指摘する「男」とこのぼくの実感のズレはどこから?

  • 面白い!面白すぎる!目から鱗すぎた。上野千鶴子、名前は知ってたけどちゃんと読んだのは今回が初めて。この本読んで、自分ってつくづくミソジニーを身体化してるんだなって思った。そして周りの人も。これまで付き合ってきたモラハラ男も。
    でも相手がモラハラ男なのって、単純に私の運が悪かっただけじゃなくて、私のように典型的なミソジニー的恋愛観(年上がいい、三高、尊敬できる相手がいい等)を持つ女にとって不可避なのかなとか思ったりもした。

  • 徹底的に男性を批判するのはわかるんだけど、男子校文化は別に女性抜きで成り立っている部分もあるので(異性の眼を気にしなくて良い)、上野氏の指摘は的外れな気がした。

    男性批判を通り越して男性を見下している印象を受けた。
    フェミニズムが一般に広がらないのは、こうした側面があるのかなぁ。

  • 二日連続でレビューを全消ししてしまい、泣きそう。

    読んでいて、具合が悪くなってきた。
    でもこの本に出会えてよかったと思う。
    女性学に向き合い続けることが、いかにしんどいかわかったから。

    女性の困り感をなくしたいし、でも男性のしんどさも理解しようとしたいし、誰もが平等という意味でのフェミニズムって良いよな、と思っていたけれど、女性学ってのは、カテゴライズしたくないという意思に反して、男性とは~女生徒は~と両者の溝を深める作業なのか、と感じてしまった。
    歴史を知れば知るほど、きついし、そんなんだったらフェミサイドとか起こるよな、とかぐちゃぐちゃとした思考でよくわからなくなった。

    面白かったところ、納得したけどしんど~と思ったとこ⇓
    (抜粋ではない)
    P.58-
    1960年代の半ばに「全員結婚社会は」ほぼ100%に達しそれ以降下降に転じた。
    階層差の大きい身分社会では、上位の男がたくさんの女を独占し、下層の男には女が行き渡らない。独身者の都市であった江戸には、かれらのための遊郭が発達したことは知られている。

    P.146-
    母は娘の幸せを喜ぶだろうか?母は娘に期待しながら、娘が実際に自分が達成できなかったことをなしとげたら、喜ぶだけでなく、ふくざつな思いをするだろう。息子が何かを達成しても母はそれと競合する必要はないが、娘なら同じ女だから、自分自身がそれを達成しなかった言い訳ができない。

    P.180-
    F県の名門公立女子高が共学化に踏み切ったときのこと。上野ゼミの学生が目の覚めるような卒業論文を書いてきた。「男子生徒の出現で女子高生の外見はどう変わったか」
    本人は女子高としての最後の卒業生、妹は共学化初の生徒。彼女の論文の鮮やかなところは、「主観的な」意識調査を避け、第三者の目から客観的に判断できる「外見」という指標に、徹底的にこだわったことにある。彼女が通っていた時に、授業中は体操服のズボンに履き替えて受けるという慣行は消え、スカート=最も強い女性性の記号である を履いて女子高生は「女装」を自ら選んだ。

    P. 225-
    女がミソジニーを自己嫌悪として経験しないで済む方法=自分を女の「例外」として扱い、自分以外の女を「他者化」することで、ミソジニーを転嫁すること
    二つの戦略=男から「名誉男性」として扱われる「できる女」になること、女というカテゴリーからドロップアウトし、値踏みから逃れる「ブス」になること
    「論理的な女はいない」
    「そうなのよ、ほんとに女って感情的でいやになるわ」
    「キミ?キミは特別だよ」
    「そう。わたしは『ふつうの女』じゃないわ」
    この「例外視」をつうじて、「ふつうの女」への蔑視を再生産しているのは彼女自身だ。
    「二グロの使用人ってのはね、ほんとにこずるくってすぐごまかしばかりやりやがる、眼を離したスキにね。あ、キミ?キミは特別だよ。キミはボクらと同じ教育をうけてきているもの。」
    「年とるってほんとにいやーね、ぐちが多くてくりかえしばかり。あら、お義母さま、お義母さまはべつよ、アタマがしっかりしていらっしゃるんですもの。」
    「日本の女ってのはどうしてあんなにハッキリしないんだい?イエスもノーもわからないじゃないか。キミ?キミは特別だよ。キミは典型的な日本の女の子とは言えないね。」
    「ええ、あたしだってうんざりよ。あたしは日本に合わないのよ。だから、日本を出てきたんだわ。」
    ほとんどブラックジョークだ。
    特権的な「例外」を産出することで、差別構造は無傷のまま、再生産され続ける。

  • 図書館にて。
    確か韓国で上野千鶴子さんの本がすごく読まれているというニュースを見てさっそく予約した中の1冊。
    筆者本人があとがきに書いている通り、”不愉快な読書経験”はそれはそうだった。
    でもそれは読めば読むほど、私たち女性の置かれている環境、現実がその通りだったからだ。
    でもこのような的確な分析がされている、ぐうの音も出ない状況分析を目の当たりにすることで、違う状況に置かれている人たちも気が付くべきだ。
    もしくは気が付いていないふりをやめるべきだと思う。
    読んでいるときはつらかったけれど、この本の文章はたいへんわかりやすく、ある意味痛快ともいえる。
    そして私たち自身も現実を見て感じることによって、理不尽を当たり前と思わないことが大切だと思う。
    ナチュラルに虐げられることに慣れてはいけないと強く思う。

  • ホモソーシャルという概念、非常に面白かった。男社会に存在する絆を理論的に解き明かして、そこから得られる帰結としての「ミソジニー」。
    難解な部分もあったが、これを機にミソジニーについて考えることができた。

  •  上野千鶴子さんの著書をちゃんと読むのは初めてだった。この本は、二〇一〇年つまり十三年前、自分に引きつけて考えると、だいたい私が働き始めたようなころに出た本だ。女性の私が会社員として働くなかで見えていた風景ひとつとっても、この十数年でけっこう変わったという実感がある。この本の内容は、そういう意味では「古い」と感じる点がないわけではなかったが、だからといって今更読む意味がないということにはならない。理由は次の通り。
     第一に、「けっこう変わったという実感がある」といってもそれはつまり、「私が個人的に経験する範囲では、女性蔑視的な文化・習慣が弱まったりなくなったりしていると感じることもある」という意味なので、社会全体から見ればまだまだ局所的な変化でしかないと思われるため。それどころか、逆に女性蔑視がより強まっている領域だって、おそらくあるようにも思う。
     第二に、第一の理由の通りまだ大きく視座が変わるほどの変革は起きていないとするならば、執筆時点以前の歴史的経緯や、事件や、作品や、先行研究(上野さん自身のものも含む)に対して本書で上野さんが行なっている整理・紹介・評価は、全く古びることはなく有用であるため。流行りが過ぎれば価値がなくなるというようなものではない。
     第三に、仮に一部の局所的な恵まれた環境においては女性蔑視の克服が達成されているとして、かつ読者がそこに安穏に暮らす者であったとしても、そこに至るまでの凄惨な歴史や、折り重なる死屍累々の存在や、周囲では今もなおそれが現実であるということを、知らないよりも知っていた方が人として深く豊かになるだろうと思うため。
     …というわけで、少なくとも私にとってはこの本を読んだことがフェミニズムに目を開く第一歩となった。「今この本」だったのはたまたまのご縁だが、上野千鶴子という人の積み上げてきた功績の偉大さ(の片鱗)がわかったので、今後も読んでいきたい。
     内容各論の読書メモや感想は山ほどあるが、ありすぎるので割愛。中途半端にはまとめられない…。

  • 男性が自分の自尊心の為に女性を所有したり、都合よく扱おうとする様子を女性として生きてきて幾度となく見て来た。あのような考えはどこから来ているのかずっと不思議に思っていたが、なるほど、分かった気がする。これは個人の話ではなく社会生物としての話だった。

  • 「書き手にとっても読者にとっても不愉快な経験をもたらす本」と著者は謙遜する。そのくらい、本書が暴き出すミソジニー−−私は対象にも責任があると捉えられかねない「女性蔑視」(たとえば性犯罪者や性差別者、そのアライに対する女性の「男性蔑視」には、確固たる正当性が存在する)より、いっそ「女性差別」が訳語としてふさわしいと思う−−の醜さ・おぞましさは、万人にとって不愉快だ。
    だがそれは差別の不愉快さであって、本書が不愉快なのでは断じてない。他レビューにもあるが、特に女性にとっては、ある種の爽快ささえもたらすだろう。「そうそう、そうなんだよ!!!」と。
    「弱者男性」による「主夫」希望論を、「それならこれまで女が家庭で引き受けてきたすべての経験、家事・育児・介護、性的奉仕、DVへの受忍までをも引き受ける気があるのか、と聞いてみたくなるが、そこにはかれは踏みこまない」「それどころか「養われる」ために、弱者女性の側が経済力のある男に選ばれるためのありとあらゆる努力や犠牲を払ってきたことにも言及はない」とあざやかに斬り。
    「障碍者の性の権利」とはすなわち障碍者男性が生身の他者(それも当人がヘテロの場合は女性限定)をセックス相手として(ときには「福祉」として無償で)購うことであり、「風俗で遊ぶ権利」どころか性暴力被害に晒されている障碍者女性は一顧だにされていない事実を指摘し。
    涎を垂らして女性を追いかけ回す男たちが真に渇望しているものは「オンナを所有[モノ]にしたひとかどの男」という同性からの承認であり、女性は獲物としてすら求められておらず、単なるダシにされているだけであることを証明し。
    そして、これだけの無体を働きながら「家ではかあちゃんに頭が上がらないw」などと臆面もなく被害者ヅラをしてみせる男どもの唾棄すべき欺瞞を明らかにする。この「不都合な真実」を白日のもとに曝け出した快挙に、快哉を叫ばぬ女性はいないだろう。

    星1つ減じたのは、「想像力は取り締まれない」という理由でポルノの規制に反対していること(現実世界に表象として表された時点で、それは単なる「想像力」ではない。悪しき「想像力の産物」は、当然に取り締まられるべきだろう)と、旧来のステロタイプにとどまる女子校像の浅薄さ。後者は、一貫して国公立の共学育ちであるという著者の経歴を考えればやむをえないとも言えるが、影響力の大きい論客が「女子校はギスギス、ドロドロ」のような百害あって一理なしの俗説をばら撒くのは非常によろしくない。
    著者と同じ公立の共学育ちの私が、女子校育ちのママ友と女子校について話題にしたことがあった。「女子校って…」の口火に続いて、
    私「人間関係大変だったりする?」
    友「ラクだよー」
    とみごとにかぶった声の、しかし内容は正反対であったことを書いておく。

    2021/11/24〜11/28読了

  • ミソジニーについてよくわかった。ホモソーシャル、ホモフィビア、ミソジニーの三点セット。ふむふむ。面白いが中盤以降疲れてきた。読書にも体力が要るのだ。でも、読んでよかった。これ読んでおけばミソジニーという単語が出てきたときに狼狽えずに話がきける。軸がブレずに返答できるだろう。

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著者プロフィール

上野千鶴子(うえの・ちづこ)東京大学名誉教授、WAN理事長。社会学。

「2021年 『学問の自由が危ない』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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