「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス (光文社新書)

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  • 光文社
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  • Amazon.co.jp ・本 (259ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334033439

作品紹介・あらすじ

数字データでは語れないさまざまな現実を、いかに取り出すか。

感想・レビュー・書評

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  • こういう社会学の存在には勇気付けられる。

    岸先生の「断片のない」もよかったけど、これで学問として現実味が湧いた。

    1年後とかに、社会学を少し学んでから読み直すのが楽しみ。そのとき私はどのようなスタンスだろうか。

  • カテゴリー化という呪い。どんどん分節化してなにを明らかにしているのだろう。と研究に対して釈然としない時がある。興醒めというのかな。でもそれは研究者の視点やアプローチの工夫次第なのかもしれない。「世の中を質的に調べる」センス、もっと磨いていきたいなぁ。

  • 面白かった。

    研究者である前に人として忘れてはいけないこととか、情報操作の話とか、「入り込む」ということとか、気になっていたことが丁寧に書かれていて勉強になった。
    フィールドワーク=人類学のイメージがあったけど、社会学でもメジャーなんだということが知れてよかった。
    社会調査士という資格があることも初めて知った。(海外の大学院で学んだ場合は取れないのだろうか?)

    P.62-
    興味深いフィールドワークのひとつに、新潟県巻町の1996年に原子力発電所建設の是非をめぐって、条例による住民投票が初めて行われた際の研究がある。運動を進めてきた人に話を聞くと、「反対だという人たち」のほかに「イヤだという人たち」がいることが研究者の山室さんは気になり始める。はじめ、山室さんは原発建設の「賛成ー反対」の枠から完全に自由になっておらず、賛成でも反対でもない「会」の運動を捉えられないでいた。しかし、たまたま発見した会への賛同者名簿のファイルに書かれた「匿名希望の賛同者」の印である×印を発見し、「しがらみ」があって表立って賛同の声を挙げたり、賛同する姿を見せることはできないが、決して住民投票することに反対ではない多くの町民の姿が浮き上がってきた。
    もちろん「しがらみ」に配慮することは少し考えればわかることではあるが、山室さんが名簿を「たまたま」見ない限り確かめることは難しかっただろうし、さらにどのような内容の「しがらみ」なのかは直接「聞き取る」ことからしかわからない。
    社会学者が運動に「はいりこみ」、そこで「語られない部分」を実感することから、人々の問いを構成していくことが〈実践的〉だ。

    P.74-
    社会学者が「はいりこむ」時に自覚しておく必要があること
    ①どのような理屈を建てようとも「はいりこむ」人は、人々の暮らしや現実にとって"余計な存在"であるということ
    他人には入り込んでほしくない、触れてほしくない私の部分に、調べたいと直感する何かがあろうと、社会学者はすぐにあがりこむのではなく、いったん立ち止まり、自らの存在を見直す必要がある。
    ②「はいりこむ」なかで、自分自身に生じる微細な変化を感じ取り、起こるであろう自らの姿の変貌を心地よく受け止めよ、ということ
    よくわからない現実に「はいりこみ」、調べれば調べるほど、その姿は良く見えてくるが、同時に、調べる営みは社会学者がそれまで当たり前だと感じ、考えていたこと、自分たちが生きてきた日常生活を危うくさせる。

    P.121
    差別問題を研究したいと真摯に思い、熱意に溢れていた。今もその思いに変化はないが、若い頃と大きく異なっている点がいくつかある。そのひとつが”正義”の側に立ちたいという思いへの硬直した囚われだ。
    20年前、被差別部落に聞き取りに出かけたときのこと。「〇〇さんは、これまでどのような差別を受けてきましたか」。「そんなん、差別なんか受けたことおませんわ。ここはええ村やし」と微笑みながら、私の問いかけを軽くいなすかのように無視をして、自分が小さかった時の村の様子やこれまで生んで育ててきた子どものことを女性たちは語っていった。
    私が、あたりまえのようにこともなげに女性たちに問いかけた言葉。この言葉や私の振る舞いは、いかに相手に対して失礼で、傲慢であっただろうか。
    社会学の大学院に進み、差別問題の社会学を専攻しようと決め、多くの専門書、調査研究も読んでいた。そうした経験から私の中でできあがっていたイメージ。それは、いかに狭く硬直したものだっただろうか。
    私は自らが抱いていたイメージや理解に見合う話を「聞き取ろう」「探し出そう」「吸い取ろう」として、うまくいかずに"かたまって"しまっていたのだ。
    こうした私の姿を「あんた、失礼なやつやねぇ」などと批判しないで、微笑みながら、おばあさんたちは見事に私をいなしていったのである。彼女たちの微笑みの語りには、普段の暮らしの中で「差別を受けて、対抗し、生きてきた」経験が詰まっていた。

    P.154-
    では、どのように聞き取りをすればいいのだろうか。
    それは「相手とまっすぐに向き合おうとする」ことだ。「まっすぐに」とは、相手の語りの背後に奥深く、はてなく広がっているであろう”語りをうみだすちから””生きてきた〈ひと〉のちから”に対して「まっすぐ」なのである。
    「生活史の語りを聞くと私たちがこともなげにいうとき、被差別部落のある女性のことばが頭をよぎる。『聞く人としゃべる人の気持ちっていうの、そりゃ、しゃべる人の気持ちって並大抵のもんじゃない。聞く人は何気なく聞くんだよ。(私ら)この何十年かかってやっといえるようになったんだよな』。私たち調査者に向けられる婉曲だが痛烈な批判」

    P.178-
    医療や福祉の世界でのカテゴリーによって、周りから勝手に自分の生きている世界のありようを決めつけられている人々がいる。自分たちは世間の人々が考えているような存在ではない、でも多くの「普通」の人々とは、このように異なる世界で生きているのだ、と。
    ニキ・リンコ『自閉っ子、こういう風にできてます!』という本では、アスペルガー症候群を生きる彼女たちが普段どのように感じ、どのように生きているのかを、対談のかたちでわかりやすく、面白おかしく語り出す。
    この語りを読み、驚いた。私の中にある自閉症に対する勝手な決めつけに、確実に亀裂が入っていったのだ。
    さまざまな状況のもと、人々は自らが生きている世界を少しでも変えていこうとして、語り出す。世の中を調べようとする社会学者は、語り出す力を、出来るだけ敏感に感じ取り、自らの分析や解読に利用する必要がある。ただそれは、人々の語りを読み、自分が感動した部分、重要だと思える部分をそのまま切り取ってきて、引用することではない。
    批判や非難の言葉が強烈で印象的であればあるほど、なぜ、どのようにして、こうした言葉が語り出されたのだろうかと、語り出す力の”源”とでも言える何かに向かって想像力を膨らませ、語った人、そして、語りの背後にある現実を調べようとする営み。それが語り出す力と向き合うセンスであり実践の一端なのである。

    P.214-
    大阪教育大学付属池田小学校に男が侵入し、刃物を振り回し、子どもたちを殺傷するという事件があった。レポーターが、事件に遭遇した子どもたちへの配慮など何もなく、まっすぐマイクを向けている。「どんなふうにして男の人は入ってきたの?」映像で見る限り、子どもの答えは、バラバラである印象を受けた。ただ一点、各局のニュース映像を見ていて、共通したことがあった。それは私の心にくっきりと残ったのである。なんだろうか。各ニュースがある子どものコメントを共通して流していたのである。
    広義では、このあたりに学生たちに問いかけていく。「いったいどんなコメントやったと思う?犯人の男の姿かたちに関わるもんや」と。「まだ当時は事件発生直後で、動機や背景なんかまったくわかっていない段階なんや。」「みんなの中にも、このコメントにあてはまる人もおるで。ほら、そこのあんたもそうやし。そこのあんたもや」
    「金髪やった」
    ニュースで共通に流された子どものコメントだ。なぜ、「金髪」コメントが、事件発生直後のニュースで、各局共通に流されたのだろうか。
    みんな『金髪やった』というコメントを聞いて、どう感じた。どう思った。みんなの中にけっこう髪の毛を染めたり、脱色している人はいる、だからといって、みんな、こんなひどい殺人事件を起こすだろうか。もちろんそんなことはない。
    「私は、こう考える。ニュースを報道する側が、子どものコメントを聞いた瞬間、これは使えると思ったのではないかと」
    『金髪だった』というコメントは、男が『普通ではない』ことを示すかすかな痕跡であったのではないだろうか。『普通の人間』であれば、こんなひどいことするはずがない、と。

    P.224-
    「普通」に生かされてしまっている私たちの姿は、エスノメソドロジー的なセンスで「人々の社会学」を調べたいと考えるとき、格好のターゲットになる。
    たとえば、以前、私は障害者フォビアについて論じたことがある。フォビア。すなわち、障害者を嫌ったり、嫌がったりすること。これは私たちの感情に由来するものだろうか。理屈では説明できない生理的な何かに源があるものなのだろうか。無条件で嫌がる人は、実際にどれくらいいるのだろうか。私は疑問に思う。嫌がるとしても、そこには何らかの理屈があるだろう。あるいは、喜んだり、関心を示したり、無関心を装ったりするというような営みの選択肢がなく、ただ嫌がるという反応しかできない結果、嫌がらざるを得ないのかもしれない。いずれにしても、フォビアを感情の世界に閉じ込めるのではなく、私たちが日常、障害者とともにいるうえで用いている「方法」ー障害者と日常どのような関係をつくっているのかをめぐる「人々の社会学」ーの問題として考えてみたいのである。
    私自身、”お風呂でドッキリ”したことがある。
    温泉につかり、湯にとろけながら”無”になることが私にとって最高のリフレッシュだった。いつものように湯船につかり、とろけようと目を閉じる。両手、両足を広げ緊張感をといて、ふと目を開けたところ、湯船のふちのところに、五、六歳くらいの少年が立っていた。”あぁ、かわいい子やなぁ”とまた目を閉じようとした瞬間、私の視線はその子に釘付けになった。彼の両腕は極端に短く、彼はその小さい手で顔をかきながら、そこに立っていたのだ。
    私は、自分が一瞬ドキッとした感触を確かめながら、”無”になることはなく、周囲の様子を観察していた。どうということもなく、ごく自然なふうにみんな湯につかったり、サウナに入ろうとしたり、水風呂でほてった体を冷やしている、でも、何か”つくられた”自然さであり、裏をかえせばとても”不自然な”様子が、そこにあった。特に少年を凝視したり、あれこれ言う人はいない。さりげなく気にならない感じで人は彼のそばを通り過ぎていく。でも、少年のまわりには何ともいえない”戸惑い”がただよっている、そんな雰囲気だ。
    いったい、この”戸惑い”は何だろうか。私の中に生じたドッキリという感覚は何だろうか。
    チラっと見て、あぁ腕に障害がある子なんやなぁ、と見てとった後は、まるっきり他の人に対してと同様に無視すればいいのかもしれない。でも「無視する」とは、ただ相手をみなかったり、相手に関心を向けない、ということではない。「無視する」とは、いま私が相手を”適切に”無視していることを、さまざまな「方法」を用いながら具体的に示すことなのだ。こうしたふるまいはとても微細で、普段、そんなことをしているなんて、気づくことはまずない。でも私たちは、微細なふるまいをさまざまな場面で他者とともに”適切に”実践することで、日常的な自然さをつくりつつあるのだ。他者と出会い、他者とともに日常的な自然さをつくりあげる知識。これは、「人々の社会学」の重要な部分を構成する。
    とすれば、少年を見た瞬間に生じた私の感覚は、少年という他者とともに銭湯という空間を共有する上での実践的な処方が、私の中に欠落していたこと、あるいはその適切な在庫がなかったことに、私自身気が付いたドッキリではなかっただろうか。
    私は、このように”お風呂でドッキリ”した自分の姿に驚いたのだ。それなりに障害者問題を勉強、研究し、実践していたつもりだったが、それでもなお「普通」に呪縛されている自分の姿を突き付けられて驚いたのである。
    私は、障害者フォビアに直接因果関係がある感情などない、と考えている。フォビアの直前に存在するもの。それは、日常のさまざまな場面で、他者として障害者と出会える実践的な処方を、体系的に持ち合わせていない私たちの姿であり、障害者と共に”適切な”関係をつくりあげるうえで、生きた想像力を十分に発揮できていない姿なのだ。

    P.244-
    最近の学生の問題関心をめぐる語りを聞いていると、”自分ごと””当事者性”というものを感じる。端的にいえば、不登校やひきこもりという社会問題に傍観的な立場から関心があるというより、自分自身がそうした問題を生きている磁場に囚われていたり、あるいはかつて囚われていた経験があり、まさに”自分の問題”として悩み、考えてみたいと思っているのではないか、ということだ。
    こうした”自分ごと””当事者性”という視角から、現代の社会問題を考え、現実に接近して調べようとするとき、科学的客観性を装いながら一般的で抽象的な概念や理論を駆使して現実を説明したり、現実から一定の距離をとったり、一段高いところから現実を眺めおろしたりする発想は、調べる本人にとって受け入れがたいものではないだろうか。
    だとすれば、調べる「わたし」のありようまでも捉えなおしていこうとする「世の中を質的に調べる」うえで必要なセンスや、「人々の社会学」というものの見方は、そのまま彼らが”自分の問題”を社会学として位置づけ、考え、実際にフィールドワークしていくうえで、必要なものではないだろうか。

  • 素晴らしい本でした。構成も、文章も明快で読みやすく理解しやすい。おそらく著者が専門家として大事にしていることと通じるからだろうが、必ず「自分がこう思った感じた」ことと、客観的な事実とを、きっぱり分けて書いてある。勝手な押し付けが皆無。これほどクリアなのに、思わず引き込まれて泣いてしまう部分が、いくつもあった。紹介されていた本はどれも読んでみたくなった。とにかく素晴らしかった。ありがとうございました。

  • 社会学のフィールドワークにおいて、研究者自身が自己自身の立場そのものを問いなおされるような経験をすることに目を向け、そうした経験から社会学者はいったいなにを学ぶことができるのかという問題について、著者自身のこれまでの体験を振り返りながら考察をおこなっている本です。

    著者は、近年社会学という営みに注目が集まっているといい、社会調査士という資格制度が進められていることに触れたうえで、そこでは計量的な調査技法にかんしては充実しているものの、質的研究がやや置き去りにされているという問題点を指摘しています。調査をおこなうということは、人びとの生きている現場に踏み込んでいくことであり、調査をおこなう研究者自身が彼らとのかかわりを通じて自分自身が変わっていく過程をたどるとともに、そのような体験を通して研究者自身がこの社会を生きている人びとが生身で体験している真実に触れ、それをともに生きることになるのではないかと考えます。

    本書では、このような経験をもとにしておこなわれた研究の実践例が紹介されています。佐藤郁也の『暴走族のエスノグラフィー』(1984年、新曜社)をはじめ、大衆演劇の世界に飛び込むことで書かれた鵜飼正樹の『大衆演劇への旅』(1994年、未来社)や蘭由岐子の『「病いの経験」を聞き取る―ハンセン病者のライフヒストリー』(2004年、皓星社)など、質的調査における経験そのもののもつ力を示すような例を通して、社会学という営みがもっている、客観的な調査とはべつの可能性が示されています。

    著者の社会学にかける熱い思いがつたわってくる内容でした。

  • 【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/699557

  • メルカリ売却

  • 好井さんの社会学のちょうどよいまとめになっている。被差別部落での調査でのやりとり、その具体的なやり取りから自分の立ち位置が明らかになる。

    また、鵜飼正樹さんという大衆演劇に実際入ってフィールドワークしている人がいることに驚く。

    ミクロ社会学って一言でまとめれるけど奥は深い。

  • ビジネス書に慣れてしまうと、とても読みづらい一冊。
    大学時代に受けた「社会学総論二」を思い出した。
    この講義もフィールドワークを専門にしていた先生のものだった。
    書かれていることはむしろ興味がある内容なのに、なぜ読みづらいのか。フィールドワークの世界は対象に一体化することが求められる。
    しかし、それを外の人に伝える時はスイッチを替えねばならない。
    本書は、著者の思いを「好きに語ったもの」だそうだ。ならばよい。
    ただ、社会学(フィールドワーク)が、専門外の人に広く理解されないのは、このスイッチの切り替えが出来ていない点にあるのではないかと感じた。

  • S361.9-コウ-243 000441204
    (光文社新書 243)

  • 貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
    http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784334033439

  • 大学時代、先生の講義に出席して、その際購入したと記憶。

    あぁ、面白いなぁ、とフィールドワークの醍醐味や緊張感のある知的営みにただただ感銘を受けっぱなしでした。哲学を専門にする前は人類学に興味を持っていて、人類学でもフィールドに出るからと当時先生の授業も受けていました。講義を思い出しつつ、そういうことだったのかと今更ながら振り返りました。

    内容としては、フィールドワークの際の心構えについて著者の好井先生の体験を濃厚に織り交ぜつつざっくばらんに書かれた本です。そして、それを通して社会学の営みを解説する入門書でもあります。
    社会学者の書いた本はもう無数にあるのですが、社会学、特にフィールドワークが何かを知りたかったらこの本はオススメですよ。何せ、著者が肩書きで社会学者を名乗っていても、本によって学者によって、書き口から問題の扱い方から主張からピンキリがあります。質の悪い調査、センスのない研究で本を出す「社会学者」も多いんですよ。そこのところ、好井先生なりに本のキュレーションもなさっているので、巻末の参考文献に挙げられた本もなかなかのチョイスです。私も久々に社会学でいい本が読めたとホクホクしてます。『大衆演劇への旅』はまだ読めてないので早速探して読みます。

    好井先生もあとがきでおっしゃるように、"自分の問題"としてこの本を読むよう勧めていらっしゃいます。フィールドワークと言っても、自分の置かれた現状・立ち位置をフィールドとすれば、そこからそのままフィールドワークは出来るのだと思います。だとすれば、必要なのはほんのちょっとの心構えとセンスでしょう。私も自分なりのフィールドワークをしていこう。社会学を専門にはしませんでしたが、そんな気持ちになる一冊でした。

  •  本書は、本学教員の好井裕明先生によって書かれた、社会学における社会調査、特に質的なフィールドワーク(聞き取り調査、会話分析、参与観察など)をめぐる一冊です。
    「私たちが普段生きている意味や価値、暮らしのなかで使用する現実の言葉やさまざまにわきおこる情緒など、いわゆる質的な部分」(p.35)を詳細に調べようとする時、アンケート調査や質問紙調査という量的な調査方法では限界があります。そこで、用いられるのが聞き取り調査・会話分析などの質的な調査手法です。
     とはいえ、本書は、そのような質的調査に関する技法や方法論、倫理などを一般的に説明するような教科書的なものではありません。「世の中を質的に調べる」うえで、著者が基本であり大切だと考える「リサーチ・マインド」について書かれた一冊であります。そのため、質的調査の入門書の「副読本」として、本書を位置付けていただくといいかもしれません。
     構成としては、社会学の質的研究における古典的名作と言われる面白い論文や書籍(佐藤郁也著『暴走族のエスノグラフィー』、ガーフィンケル著「エスノメソドロジー命名の由来」等)を数多く取り上げ、各研究の概要に触れつつ、調査手法の面におけるそれぞれの特徴をわかりやすく順に解説していくというかたちをとっているので、とても読みやすいと思います。これから卒論で質的調査を行おうと考えている3年生や、大学院進学を考えている4年生にオススメの一冊です。
    (ラーニング・アドバイザー/教育 SAKAI)

    ▼筑波大学附属図書館の所蔵情報はこちら
    http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/mylimedio/search/book.do?target=local&bibid=1271369

  • フィールドワークに興味があるので、読んでみた。
    これまであんまりなじみのない本やったけど、自分の感覚にフィットしているような、そんな気がした。
    フィールドワークは先入観を排して、徹底的に、ひとりひとりと向き合う作業である、そんな印象でした。おもしろく読めた。

  • エスノメソドロジーを「人々の方法」と説明してあるところ(181ページ)が分かりやすかった。ただ、社会学はそれを疑うから左翼思想となり、それを大切にする保守思想と対立すると思った。

  • 見えていて、やっているけど、意識されないこと。日常の様々な場面に存在するし、大衆演劇の役者内にあったり、LGBTの人々の中にあったり。
    それを明らかにする方法として、質的な社会学、エスノメソドロジーがある。
    既に行われた優秀なエスノメソドロジーの実践を紹介しながら、心構えや考え方について語る。入門書であり、一般書。

  • 社会学者である著者の主にフィールドワークについての経験や文献から得たことを分かりやすく語った本。入口としてはよいと思うが、そこで紹介されていた研究がその後どう発展していくのか、いったのかについてはあまり触れられておらず、その点では物足りなさが残った(本書の射程ではなかったのかもしれないが)。

  • 質的調査・社会学を学ぶための心構えが書かれた一冊
    すべての社会学を学ぶ人・これから学びたいと思ってる人が読むべき一冊だと思う

  • 質問するとき、仕方によっては、失礼にもなるし、こたえを誘導することにもなる。
    日常生活でもそうだが、相手が本当に考えいることはなにかを聞きたいときには、質問の仕方やその前後の雰囲気づくりなどに注意を払わなければいけないなーと思った。

    「普通ではないことだって、いいじゃないか」と思うことがある。だが、裏を返せばこれは、自分が"普通"を気にしているから感じることなのかもしれないとギクリとした、、。

  • 社会学って自分を発見するための学問?調査の対象にされた方々になにかいいことはあるのか?

  • 二年生前期に社会学(ジンメル)についての本を輪読し、三年生からはフィールドワークを行うゼミに入った自分にとって、二つを結びつけるヒントになった。

    特に、後半はこれから何を捉えて行けば良いのかを考えるヒントになったように思う。あたりまえを疑うこと。カテゴリーの罠。センスはやらなきゃ磨かれないだろうが、自分も、質的調査を。

  • 「あたりまえ」と「普通」は曲者

  • <閲覧スタッフより>
    数字データでは語れないさまざまな現実を、いかに取り出すか。著者が考える、「世の中を質的に調べる」上で基本であり大切だと考えるセンスについて語っています。特に6章と7章はぜひとも一読していただきたいです。

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    所在記号:新書||361.9||YOH
    登録番号:20082191
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  • 卒業論文の作成にあたってヒントを掴みたくて読み始めたのだが、「もっと早くに出会いたかった」というのが読了しての大きな感想。

    フィールドワークにおいて「聞き取る」ことは言わずもがな重要だが、その過程において「はいりこむ」「あるものになる」という部分は意外と見落としがちな要素であり、そこが欠落すると本質を「聞き取る」ことは出来ない。勿論、この著者の眼差しを「あたりまえ」として鵜呑みにしてはならないのだが、改めて社会へ向き合う姿勢、センスについて考えさせられた。

    社会学を専攻していない人にも、是非ともお薦めしたい。

  • タイトルから想像される内容とは、確かにちょっと違うかも知れない。でも社会学に関わりのなかった人にこそ読んでほしくなる本。
    数々の調査を例に出して、自分ではない他者、そして他者の生きる生活や世界へと目を向け足を踏み入れることの困難さと魅力についてが書かれている。
    学生の時にしたフィールドワークのことを思い出して、ほんと恥ずかしくなってしまった。

  • 本書は社会学での調査において質的に調べるために基本であり大切だと著者が考えた事を述べたもの。

    「質的に」というのは、数字だけでは説明できない現実を調べるために生きた答えを得ること。

    「住みやすいですか」という質問に対して、5段階評価でAさんは4点とし、Bさんは2点とした場合、2人のデータを単純に比較することはできない。
    なぜなら「住みやすさ」の基準がAさんとBさんで同じかどうか分からないから。

    このようなケースの場合、インタビューなどの人との対話が必要になるのだが、その際、著者が大切にしていることを述べている。

    社会学そのものに興味を持っていたわけではないが、
    「あたりまえを疑う」
    「”普通であること”に居直らない」
    といった点が気になったので、この本を手に取った。

    「普通」という言葉は、ついつい使ってしまうものではあるが、よくよく考えてみると、この「普通」には特に定義があるわけでない。

    厳密に言うなら「その他いろいろ」でしかない。
    少人数の集団が、世間一般からは「A」というカテゴリーで呼ばれていた、とすると「普通」というのは「A以外」の人々、という事でしかない。
    「A」は明確に定義されるが、「A以外」は「A」と線引きをしているだけで、特に定義されているわけではない。
    しかも「A」というカテゴリーが適切かどうか、という問題もあったりする。

    カテゴリー分けは便利で、強力だが一歩間違えると「先入観」「決め付け」となってしまう。
    なんでもかんでも疑うと疲れてしまうが、自分にとって大切な事に関しては、基本的なところから疑ってかかった方がいいかもしれない。

  • 社会学の質的調査について書かれた読みもの。
    調査だけではなく、考え方等参考になる点がある。
    この書を読んだ後は、実際にエスノグラフィーを読むべき。

  • タイトルから想像した内容と違っていた。

  • 社会学の意義や方法に対して、その姿勢を問う、示唆的な本。

    題名の通り、本書のテーマは「あたりまえ」を疑うこと。

    我々の生活を覆っている、「あたりまえ」や「普通」が本来は空洞なもの、或は、無数の「方法」によってなりたっていて、それが生きづらさにつながっている、という主張が根底にある。

    「普通であること」は権力行使である。それは「普通でないもの」を差別・排除することの裏返しである。ただし、本書が秀逸なのは、その差別や排除を、すぐに反省すべきものだと思うことも「普通であること」の権力行使の結果である、と指摘している点だと思う。差別・排除を普通じゃないものとし、普通な立場という高みから対面する姿勢そのものが、普通に囚われてしまっているのである。


    では、どうすればいいのか?

    方法論的には、前半部の、「はいりこむ」「あるものになる」「聞き取る」など、いろいろなやり方が考えられる。

    そこに共通することは、”常に、「方法」を駆使しつつ、他者と関係をつくる存在として人間を考え”、その方法を微細に捉えていくことである。

    そして、そのための心構えが、 ”常に自分の中に「風穴」をあけておき、いわば常に自分を「危うさ」に直面させておく”ことであり、それが、世の中を質的に調べるセンスの核心にあるのだ。

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著者プロフィール

日本大学文理学部社会学科教授

「2023年 『新社会学研究 2023年 第8号』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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