ふしぎなふしぎな子どもの物語 なぜ成長を描かなくなったのか? (光文社新書)
- 光文社 (2011年8月17日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (372ページ)
- / ISBN・EAN: 9784334036386
感想・レビュー・書評
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H24/2/7
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R25で紹介されてて興味を持って買った本。
紹介ページはこちらです。
http://r25.yahoo.co.jp/books/detail/?id=20111102-00021936-r25
なんだろうな、しょうがないんだけど
どうしてもそれぞれの章の内容が年表のようになってしまうから
なかなか集中できず読みきるのに時間がかかりました。
本筋には関係ないんだけど、面白いなと思った視点。
RPGの登場で、物語を自分で動かしてるかのような感覚を
得ることができるようになり、その要素の一つとして
「自由に名前を付けられる」というのがあるのだけど。
この名前を、例えば代名詞にしてしまうと・・・・。
脇役が主人公を呼ぶとき、まるで他の人のことを
話しているかのようになってしまいます。
「☓☓(名前)はどう思うのだ?」→「彼はどう思うのだ?」へ。
一人称にしてしまうと、「私はどう思うのだ?」という混乱の極みへ。
ちょっとね、試してみたいかも。笑 -
懐かしい名前気並んで楽しく読めた。
共感するより他人深読みを楽しんだ感じ。
最後の考察がおもしろかった。 -
最終章だけ読めば十分です。
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日経BPネットで著者のインタビューを読んだ。DQやFFに比べてメジャーとは言えない「ペルソナ2」を本書で取り上げていることを知って購入した。
著者の主張を理解するだけなら、最後の第8章だけ読めば事足ります。誤解を承知でざっくり言ってしまうと、今の子どもはすれているということ。「ペルソナ2」に端的ですが、ちょっと牽強付会なところがあります。 -
駆け足で読み解くこども文化近代史。大人と子供の線引きが限界になっているとゆー説には激しく同意。そう、このトシになるまでずーっとこじらせていたもんだいもすっきり氷解。そもそも質問の立て方が間違っていたのだなぁ、と。ああ、これからも大手を振って生きてゆけそうでござる。
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仮面ライダー、ウルトラマン、ガンダムの話は面白かった。それぞれ、他にもっと詳しく書いてる本があるのだと思うけど、それだと重すぎなので、このくらいの裏話がちょうどいい。
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著者は児童文学作家。タイトルからして、ファンタジー童話に関する内容かと思いましたが、アニメやゲームを中心とした子供むけ作品の変遷について述べられたものでした。
月光仮面やウルトラマン、仮面ライダーなど、往年のヒーローについてこと細かに語られますが、実はその辺りの作品の内容に関してほとんど知らない私には、詳しすぎてよくわからず、共感の置きどころがなく、忍耐を持って読み進むこととなってしまいました。
この本も先日読んだ『リトル・ピープルの時代』も、雑誌で紹介されており、どちらも震災後に書かれた、ウルトラマンと仮面ライダーのヒーロー像について述べられた本。
二次元のヒーローというと、少年マンガ系のものになり、どうも縁遠くなってしまいます。
ゲームもやらないため、ドラクエでは主人公は無言のまま一言もしゃべらないということを知りませんでした。
なんだか、現実の会話の少ない子供たちの原型を見る気がします。
ウルトラマンは、死なせた青年と一体化していることや、仮面ライダーは世界征服をたくらむショッカーによって改造された人間だということも、知りませんでした。
デビルマンのようですね。
かつてはTVヒーローの実写版を見て、「シュワッチ!」「変身!」など空き地で真似をしていた子供たちが、危ないと禁止されたり、遊ぶ空き地が無くなったことで、そうした遊びをしなくなり、その代替行為としてアニメキャラのコスプレに繋がっていったという著者の論に、驚きました。
アニメ観賞後の表現行為としては共通しますが、それぞれの行動は、内容的にも年代的にも、かなりの変容を遂げています。
月光仮面の歌で、ヒーローをおじさんと呼んでいることに、前々から違和感を感じていましたが、放映当時は子供にとっておとなが憧れの対象であった時代だったからだとする著者の意見に、なるほどと納得しました。
おじさんとは、尊敬の念が混ざった呼び名だったわけですね。
キャラとはキャラクターの略語だと思っていましたが、著者に言わせると、双方別ものなんだそうです。
キャラとは、ミッキーマウスやキティなど、成長すると気持ち悪い存在で、キャラクターとは、ガンダムの登場人物など、成長しないと気持ち悪い存在を指すのだとか。
アムロの「親父にもぶたれたことないのに!」というセリフは、声優古谷徹が『巨人の星』星飛雄馬役で父親にぶたれっぱなしであることへのパロディだということは、製作者の遊び心が見えておもしろく思いました。
『エヴァ』では、子供たちは心を保つために、自閉する(シンジ)、切れる(アスカ)、感情をなくす(レイ)といった性質を帯びているとのこと。
逃げ場がない、病的さを感じます。
対照的な作品『ワンピース』では、主人公ルフィは、海賊王を目指す海賊行為をしない海賊というふるまいを永遠に続けていっているとのこと。
すでに完成形で、成長過程とはまったく縁がないそうです。
主人公の成長が見られない物語は、ストーリーとしておもしろいものなのでしょうか?
少女向けアニメのことも、書かれていました。
TVアニメは、男の子向け漫画が原作で、主人公も男の子、製作側も男性ばかりだったため、いざ女の子向けのアニメを作ろうとしても、誰も「女の子」についてわからないため、苦肉の策として、「大人の女」を子供化した像を作り上げ、それが魔法少女たちの造形となったと知りました。
少女向けアニメながら、男性ファンが多い作品があるのは、やはり男性目線で作られたものだからでしょう。
かなりジェンダー的な背景がネックになって存在していることがわかりました。
興味深い内容ながら、アニメ大国日本の膨大な作品を比較し、潮流を押さえていくのは、なかなか大変な作業だと思います。
はっきりとした方向性も見えない、混沌とした流れになんとか竿をさしていこうとするのは果敢な試みですが、テーマが大きすぎて、著者の手に余っているような印象を受けました。
それにしても、少女向け作品といったら、憧れの彼との恋愛成就というような感情表現がメインテーマになることがほとんどですが、それは(そうあっていてほしい)という製作側男性たちの希望と妄想によって形作られたものだとわかり、多少なりとも衝撃を受けました。
いまだ、少女が大人の女になる話はあっても、少女が大人になる話はないとのこと。
なんだか、いまだジェンダー面での表現方法は発展途上で、整い切れていないという、根深い問題があるように思います。
また、あとがきでは、3月の震災についても触れられており、今後は、ファンタジーがリアル側面を持つであろうことが述べられていました。
ありえない光景を目にしてしまった私たち。
もしかしたら、仮想世界の表現法が今後がらりと変わりゆく、その分岐点に立っているのかもしれません。 -
8章に全てが書いてある。筆者は否定してるが何だか意地悪な表現が気になりなかなか読みすすめられなかった。でもヒーロー物やドラクエなんかの歴史を体系だてて知るには良かった。
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タイトルの「なぜ」に対する答えとしてはつまり、大人と子供の境界線があいまいになったから、ということなのだろうか。
著者の言っていることは、「なぜ成長しなければならないのかではなく、なぜ成長しなければならないと思いこんでしまったのか、必ずしもその必要はないのに」ということのようだ。時代がそういう風に変わって来たのだから、それはそれで受け入れてもいいはずだと…。
あれ?本当にそれでいいのかな??
著者が、非常に細かく丁寧に、様々なゲームやアニメ、テレビ、児童文学など、それぞれの内容とその意義、時代の流れを照らし合わせ分析しているのには驚かされたし、またそれぞれが時代の潮流に敏感に反応し、それが作品に見事に反映されているのにも大変感じ入るものがあったが、近代社会の目指すものが、必ずしも成長する子供や目標としての大人ではなく、もっとフレキシブルな社会なのだ、という結論には、あまり納得できないかな…。
そういうことなのかもしれないけれど、だからこそ成長物語が作られなくなったということなのかもしれないけれど、そんな社会でいいのだろうか、と疑問に思わずにいられない。
まあ、それこそが著者の言う「自分の知識や経験や文化的背景を通してしか物を見られない」ということなのかもしれないけど。