メノン: 徳について (光文社古典新訳文庫 Bフ 2-2)

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  • Amazon.co.jp ・本 (286ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334752446

作品紹介・あらすじ

「徳は教えられるものでしょうか?」メノンの問いに対し、ソクラテスは「徳とは何か?」と切り返す。そして「徳」を定義する試みから知識と信念、学問の方法、魂、善をめぐって議論は進んでいく。西洋哲学の豊かな内容をかたちづくる重要な問いがここで生まれた、初期対話篇の傑作。

感想・レビュー・書評

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  • 「プロタゴラス」で、ホメロスを引用して“2人で行けばどちらかが先に気付くことができる”と言っていてるのだけど、いいこと言うなあと思う。
    プロタゴラスに引き続きアレテーについての探究。誰もいなければ歴史の中での対話に参加することができると教えてくれたのはセネカなのだけど、プラトンのおかげ。彼らは無理強いもせず、置き去りにもせず、待ってくれる。

  • 意外と面白かった哲学の本。哲学は自分にとって難しいが、これは比較的読みやすい方だと思う。自分は、ソクラテスの考えにはメノンのように「その通りです」とか簡単に頷けなくて、それは違くない?と思ってしまう部分もあった。だが、哲学の考え方を教養として学べて良かった。
    自分の友人がソクラテスを「屁理屈おじさん」と呼んでいたのが面白かった。

  • 「徳は教えられるか」、それ以前に「徳とはそもそも何か」という問いに導かれて、
    それらの問いに答えることはできるのか、そのような問いにどうすれば多少なりとも答えられるか、という方法の問題にも話題がおよぶ。

    想起説、仮設の方法、行動における正しい思わく、など、色々な話題が出て来て面白かった。

    また、岩波版の先行訳と比べると、ソクラテスのモノローグとして対話篇を読むのではなく、ソクラテスが相手に合わせて話題や議論の進行に彩をつけている部分にまで注意をはらう近年の研究成果をふまえて、解説や訳文が作られている。
    そのため、先行訳とは読んだ時の印象が思った以上に変わったことに驚いた。

  • メノンがソクラテスを丁寧に侮辱していて面白い。「そしてほんの少したちの悪い言い回しで言わせていただけるなら 、お顔からも他の点からも 、わたしには 、あらゆる意味であなたは 、あの海にいる平たいシビレエイにもっともよく似ているように思えます」と。

  • 今作のソクラテスは、美少年を前にしていつになく優しい。「徳は教えられるものなのか」というメノンの質問から始まって、「徳とは何なのか」という大本の定義の問いと行き来しながら、対話を続けていく。最初はメノンのいい加減な定義をいちいち正していたが、メノンの逆切れから「想起説」のお披露目へとつながっていくなど新しい展開もある。あと、解説が懇切丁寧で安心した。
    徳とは何か、徳は教えられるか、という話は「プロタゴラス」でもあったが、やはりメノンの若さなのか、プロタゴラスの方が切り返しはうまかったし、論点によっては議論をより進められているように思う。ただ常にソクラテス主導で進む分、「メノン」のほうが話はすっきりしている。解説の「プラトンは徳が『教えられる』ものではなく想起によって『学習する』ものだと示唆している」という話は自分ではそこまで読み取れなかったけれど、勉強になった。

  • プラトン哲学のうち、初期に書かれた戯曲。「アレテーは教えられるか?」を問う若者メノンに対し、「そもそも自分はアレテーが何かすら知らない。よって、アレテーは教えられるかを知る由もない」とソクラテスが答える。メノンにアレテーとは何か問い、反駁し続ける事で、事物の本質を自分の頭で考え、「想起」する重要性を読者に説いているように感じる。

    この本を読み、自分の今までの学習はメノン寄りの考え、つまり川上から川下に水が流れるように、智慧者から教わるもの(正当化)に近しいものだったと感じる。プラトンはこれを否定し、生まれる前に人はあらゆる事を既に知っており、学習や経験によって想起する事が知であると解いているが、確かにそのような考えも道理だと感じた。

    後半に著者による解釈が述べられているが、非常に難解でよく分からなかった。哲学に関する探究を続ける事で、少しづつ理解し、本当にそうなのか考察できる様な気がするので、頭が痒くなるが哲学本の読書は続けたい。

  • 対話形式読みやすい…が、やはりところどころついていけなかった…。

  • 徳とは

  • 「教養として学んでおきたい哲学」という書籍でおすすめされていたので読みました。哲学に関する書籍はこれが2冊目です。会話形式なので読みやすく、取っかかりやすかったです。後半には訳者の解釈が述べられており、訳文を読んでいて疑問に感じた点が補足されています。なるほどなぁと感心する点もあるのですが、プラトンはそこまで考えていたんだろうかと初学者の僕は思うときがあります…笑

  • 知識は縛られていなければならない。このソクラテスの、あるいはプラトンの指摘は現代においても重要だ。

  • モヤモヤ

  • うーん。ゆっくりと考えながら読んだら面白いのだろうが、、、

    ソクラテスの切り返しは面白い。
    あなたそれわかってんの?
    わかってないよね?この点どう考えてんの?
    っていう、議論する前に、その議題についてちゃんと理解しないとなーと思った。

    議論の出発点からズレること良くあるし。

  • 2015.10.29
    徳は教えられるものか、という質問から、そもそも徳とは何か、という問いに変わり、そこから様々に哲学的テーマが広がっていくプラトン初期の著作。思ってたより難しかった。ソクラテスの言うことが、いまいちわかってるような、わかってないような、納得できるようなしかねるような、しかしできないなら何にひっかかってんのか自分でもよくわかんないような、なんというか見事に痺れさせられてしまった。しかしこのような根本的な問いは、道徳教育の教科化が話題になる現代の教育問題に絡めてまさに議論されるべきことだろう。徳とは教え得るか、そして徳とは何か、まさに問題にされるべきである。この2つの問いに答えられず教科化というのは、いささか不安だと言える。解説もサラーっと読んだが、徳というのは卓越性の意味で使われていたらしい。馬の徳、耳の徳、建築の徳のように。しかしそうならば徳とは人間中心の有益性ということにならないだろうか。人間に対し有益な価値を提供することが、徳ではないか。屋久島の縄文杉は、材木にされるような品質でなかったために7000年近くの樹齢を持つ。これは、この杉が人間にとっては徳を持たず、しかし杉の視点から見たら長生きできた、つまり徳があったことになる。ならば人間の視点から見て、人間の徳とは、人間にとって人間が有益なあり方ということになる。この場合の人間とは、私から見た場合の、私も含めた人間全体である。それは私という個人から、友人、家族、社会、国家すべての人間に対し有益な姿勢ということだ。そしてそれはやはり、正しいということではないか。しかしこの正しさから自分を引き離そうという力が幾つかある。恐怖、傲慢、強欲などである。それらの悪しき力と戦う意志の力をそれぞれ、勇気、謙虚、節制というならば、徳というのは、正しきところに留まる意志の力のことを言うのではないか。しかしでは正しいとは何か。お金もよく使えば有益で悪く使えば害であるというところの、よく、とは何か。徳に関してはこれがひとつ。次に徳は教え得るか。それを知っていることとそれを教えることはまた別のようであるし、またそれを教えることと教えた相手がそれを学ぶことはまた別のように思える。教えられるものがなければ学ぶものもない、よって徳は教えられないというのはちょっと強引かなとも思う。反面教師という言葉もある通り、教えようともせず寧ろ徳のない姿勢から、何かを学ぶこともできる。つまり徳を得るには、学ぶ側の姿勢がものをいうということではないか。それがなければ教えても学びえない。では学ぶ姿勢とは何か、それは正しくありたいという動機ではないか、ではそれを身につけさせることはできるか、これもちょっとわからない。徳は教えられるかもしれないし教えられないかもしれない、それは学ぶ側の姿勢による、これがふたつめ。最後に、知るということのレベルについてである。ただ知識として結論のみ知っていること、なぜそうなのか原因まで知っていること、理解と了解の一致したレベルで知っていることなど、知るにもいろいろあるということがわかった。正義に留まることを徳とするならば、それは行為としてできなければ意味がない。ただ知識として何が正しいか知っていても強欲に負けるようでは意味がない。ではどうすればこのように、理解と了解が一致したレベルで知るということができるのか。このレベルで考えたらますます教えるということは難しいように思える。結局何が言いたいかというと私は徳についてよくわかってないし、またソクラテスと違い知識と同等の正しく考える力も持たないということである。正しく考える力、これが哲学で学べるものだろうか。厳密な原理的な思考法というものが欲しいなと思った。あと知的耐久力も。考えて考えてあーもうしんどーやーめた、という風になりがちである。あと、想起説について、正直私は神の世界も信じないので何を言ってんだと思っていたが、我々はすでに真理について知っていて学習とは忘れていることを思い出すことだというこの説の必要性を述べているp95から引用すると、"われわれは、自分が知らないことを発見することはできないし、そのようなものを探求すべきでもないというふうに考えるよりも、人は自分が知らないことを探求すべきであると考えるほうが、よりすぐれた者であり得る"というのは、感動した。つまりこの説が正しいのかどうかは別として、こう考えた方が、探求に対する励みになるのである。何故なら知らないことなんてなくて、忘れているだけだから。だから、知ったふりしてしまうくらいなら、無知の自覚を促した方がいいということである。よりよいフィクションを創造するという、知的探求に対する前向きな姿勢を感じられた。プラトンの著作はどれも、私自身が傍観者でなく考える1人にならざるを得ず、それによって思考の厳密さ、知の獲得の困難さ、無知の自覚の大切さ、不知の探求の面白さを教えてくれる気がする。しかしただ知的好奇心に伴ってではなくいかに生活または人生上に関わる切実な問いとしてその動機を共有できているかが大切だろう。徳とは何かという問いを通してお馴染みのソクラテス節を垣間見ることのできる作品。正直、そんなに徳って必要ですかね?そこんとこから鵜呑みにせず考えたい。

  • とても読みやすい訳でおもしろかった。

    「徳とは教えられるものか」をメノン、ソクラテスとアニュトスとのディアレクティケーにより探究していくもの。

    人間でなかった時から、正しい考えが内在しており、それが質問によって呼び起こされるという「起草」の概念が興味深い。

  • 「借」(大学の図書館)。

    アレテーとは何かを問うている。
    ただ、前読んだ「プロタゴラス」より難しい気がする。

  • 読みやすい。

  • 齢50にして人生初プラトン
    何より光文社古典新訳文庫の大胆な試みと訳のわかりやすさに感謝。高い値段は再読の価値ありの判断で納得です。短い内容であっても1日でプラトンが読めるなんて凄いです~
    アレテー(徳)の考察は洞察に富み、過去の拙い認識を改めることができます。
    哲学の入門に最適な新訳と思います。

  • “ソクラテス このような線のことを、学識のある専門の人は「対角線」と呼んでいる。したがって、きみ、この線の名がその対角線であるとすれば、メノンの召使いのきみがいう答は、

    「二倍の面積の正方形は、対角線を一辺としてつくることができる」

    というものになるのさ。
    少年 はい、まったくそのとおりです、ソクラテス。”[P.89]

    数学関係の講義でソクラテスとメノンの召使いのやり取り部分が紹介されたので。

  • 徳は教えられるのか?と言うふわっとした出だしから、そもそも徳ってなんだよ、定義は?という話になっていく、めんどくさい対話です。しかし、実社会において、自分で考えない人がいる以上、この古典は読まれる価値があると思います。

  • あれ、もう終わり?ってくらいあっという間の内容。薄くて読みやすい。もっとこの問答を見てみたい。

  • プラトン(渡辺邦夫・訳)『メノン』、光文社古典新訳文庫。

    藤沢令夫訳も以前読んでいるけど、これはまたものすごく読みやすい。
    とくに「探求のパラドックス」に答える場面、
    メノンの召使いの少年が任意の正方形から
    二倍の面積の正方形を作図する方法を考える場面など、
    たぶん誰でもすいすい読めるはず
    (藤沢令夫先生の訳は、原文に忠実に訳すあまりカクカクしてた気がするけど)。

    徳とは何かを考えるというのが主旨の対話篇だけれど、
    むしろメノンの愛らしさのほうに心を惹かれる。
    ゴルギアスを師として弁論術を学び、
    ソクラテスに議論をふっかけるメノン。
    もちろん愚昧なアニュトスとつるみ、
    あるいは『アナバシス』に描かれている強欲でじたばたと見苦しいメノンの姿は知っている。
    しかし、なんとなくこの対話篇のメノンは、
    やんちゃで自信家で自己中だが憎めない。
    ソクラテスもそこをからかいながら
    (この「からかい」はソクラテスのディアレクティケーにおいては重要なんだけど)、
    しかし愛情を持って接しているようにも思える。

    「この対話篇のメノン」は、きっと地に足をつけ、
    自分の足で歩けるようにいつかなるのだろう。
    そして、そういう場に立ち会えることは、
    どんなにクソな世界のなかであっても、やはり喜びなのだ。

  • 「徳は教えられるものか」という問いについて。
    註が同ページにあるのは便利でよかった。
    しかしメノンが「不思議だなあ」となった時に、「この感慨がメノンの得た財産である」と註に記すのはどうかと思った。
    解説のページ数が充実している(半分ぐらいある)

  •  「徳は教えられるものではない。」ということを、メノンという青年との対話によって延々と証明していく話。すぐれた徳性をもつ世に知れた偉大な人物の息子は果たしてすぐれた人物になっているかというとどうもそういう例はないらしいということから、いわば帰納的に、徳は教えられるものではないということを論じていく。騎乗の技術、文章の技術、詩作の技術のための最上の教育を彼らに施したにもかかわらず、すぐれた徳をもった人物には至らなかった。もし徳というものが教えられるのであれば、優れた徳を持った父は、子にそれを受け継がせようとしない理由があるだろうか?いや断じてありはしない。にもかかわらず、教える教師がいないということは、徳というのもは教えられるものではないということになるのである。

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著者プロフィール

山口大学教授
1961年 大阪府生まれ
1991年 京都大学大学院文学研究科博士課程研究指導認定退学
2010年 山口大学講師、助教授を経て現職

主な著訳書
『イリソスのほとり──藤澤令夫先生献呈論文集』(共著、世界思想社)
マーク・L・マックフェラン『ソクラテスの宗教』(共訳、法政大学出版局)
アルビノス他『プラトン哲学入門』(共訳、京都大学学術出版会)

「2018年 『パイドロス』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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