論理哲学論考 (光文社古典新訳文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334752842

感想・レビュー・書評

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  • 論理は事実の総体であって事物の総体ではない。
    世界はすべて論理によって存在する。
    私の言語の限界は私の世界の限界を意味する。

    論理は世界の内、倫理は世界の外。内の認識は内外の境界のこと。


    「アポリオリ」
    アプリオリな知識とは、 経験を通じて知られてもかまわないが、 いかなる経験によっても反証されない (=間違いであることが示されない)ような知識のことである。 これに対して、アポステリオリな知識とは、 経験によって反証されうる知識のことである。

    「形而上学」

    ちょうどわれわれが地球の表面しか知らず、 内部の巨大で密度の高い塊を知らないように、 われわれは事物や世界について、 その現象--すなわち表面--以外は経験的に何も知らない。 この現象についての正確な知識によって成り立っているのが、 もっとも広い意味での物理学(physics; 自然学)である。 しかし、 この表面には単に面積だけでなく体積をも伴った内部があるはずだということ、 そしてこの内部の特徴についての推測、 これらは形而上学(metaphysics)のテーマである。

    「感想」

    言語は世界の単射になってないことが彼の言語批判の根拠。たしかに事実に対応していない言語でされた哲学は哲学ではないのかもしれない。

  • 古田徹也氏が書いた解説書を読んだおかげで、ようやく本書を読み終えられた。しかし、解説書には省かれている項目もあったため、その項目部分は理解できなかった。また、岩波文庫版の方が語句の定義も載っているし、訳も自然だと言うことに光文社版を買ってから気づいた。失敗。ところで、本書の冒頭部に記載されている、『高校生のための『論考』手前講義』を読んだだけで、論考の内容を理解できる人はいるのだろうか。。「どう考えても高校生向けじゃないだろ!」とツッコミたくなるのは私だけじゃないはず(笑)

  • 当然ながら、平明な文体で書かれていることと、分かり易さは別だ。

  • 最後のことばは「語ることができないことについては、沈黙するしかない」と訳されている。従前これは「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」などと訳されてきた。
    「せねばならない」は禁欲的でありそれゆえ戒律的で「自己」が見えるが、「するしかない」は事実を端的に述べている。ウィトゲンシュタインの本来はこっちではないのだろうか。淡々と事実を述べ、そうであるしかない結論に至る。もう否定しようがない事実が「示されている」のに、「せねばならない」などとご託宣を述べて屋上屋を架す理由はないわけだ。
    「世界は、私の意思に依存していない」「倫理の命題も存在することができない」「倫理を言葉にすることはできない」「意思を倫理的なものの担い手として語ることはできない」などという人が「せねばならない」とは語らないと思う。
    確かに英訳で読むウィトゲンシュタインにはご託宣めいたところがある。が、彼のネイティブはドイツ語だし、ドイツ語でところどころ読んでみる限りはこの丘沢訳のニュアンスに近い。
    単なる印象だが、日本では芥川のイメージが重ねられているんじゃなかろうか。ウィトゲンシュタインの叙述スタイルはアフォリズムとはまったく異なるものなのではないだろうか。少なくとも「論考」ではまったく異なるものだとしか考えられない。
    いろいろ考えさせられる貴重な翻訳だと思う。冒頭の野家啓一による解説も簡にして要を得たもので、ラッセルの序文なんか載せるよりよっぽどこの本の用途に適っている。

  • 読了したものの、当然の如く理解出来たわけではないが、世界を言語と定義によって分解し、既知と未知との境界線を明確にし、世界を再構築したヴィトゲンシュタイン氏の知性が光る。言い回しはかなりシンプル。かつ厳格。なので丁寧に読み進めると理解できないものではない。「語ることができないことについては、沈黙するしかない」 という有名なフレーズは、超自然的なロジックに逃げない、人知の限界への挑戦が感じられる。

  • 134-W
    文庫(小説・エッセイ以外)

  • 本書で述べられていることは、論理学を利用して、言語の限界を探り、哲学(特に形而上学)の諸問題が、その限界を超えた命題もどきで無意味である点を指摘する、言語批判という点に尽きる。発想としては、世界を事実の総体として見ることで、それを写し取る言語命題と写像関係に落とし込む。そして、無時間的な全ての事態の可能性を含んだ論理空間を想定し、命題の最小単位、対象に対応する「名前」からできる「要素命題」なるものを設定することで、論理学の命題に変換し、全ての命題が要素命題に同じ演算(操作)を繰り返した反復適用であることを示す。それが言語の限界であり、思考の限界であり、世界の限界である。私、神、倫理、美、魂、意志などの形而上学的な絶対的価値の説明が、命題として事態を表していないトートロジーにしかなりえず、意味を欠き、かつ論理的に無意味な命題であることを示す。その意味で、「語ることができないことについては、沈黙するしかない」のである。
    参照は示さないと序文でいいながら、フレーゲラッセル概念記法を批判的に乗り越え、スピノザ『エチカ』永遠の相と論理空間を重ね合わせる。さらに言えば、カント『純粋理性批判』における、純粋理性理性の限界づけとしての批判とそれに伴う超越論的仮象の指摘という思想を引き継いでいると思われる。用語だけでなく、批判(特に言語)としての哲学の姿勢。同じソクラテスの命題も出てくる。形式を重視する点、アプリオリ、対象・物自体に対する名・ヌーメノン悟性体、超越論的、吟味的批判、対象x、点としての主体・統覚、定言命法と重なる部分はかなり多いように見受けられる。また、「右手と左手を重ね合わせることができないというカントの問題」として出ている。6.4倫理は超越論的、倫理と美は一つというのは、世界の論理の外にあるがしかし同時に要請される規則という意味で「超越論」的な、カントの『判断力批判』美的判断。
    同時代のハイデガーは別の方法から存在、世界、現存在すなわちここでいう「語りえないこと」を語ろうとしたが、同じ面を別の側面から、語源解釈で最小単位・限界を見出したように思える(本書にあるとおり、実際ウィトゲンシュタインは存在と不安に同じことを考えることができると述べている)。
    『論考』の問題は、論理空間が一瞬を切り取った静的な無時間的空間で、最小単位を要素命題と名前があると想定していることにある。実際には、現実は時間的で新旧語彙の生成変化がある。『論考』そのものが非現実的な空間ということだ。論理の特権化により、論理の形而上学となってしまっている。ただ、自己言及性の余地を残すことで、閉じた体系にはせず、また6.4以降で倫理について触れることによって論理学として不完全になり、完全な形而上学とすることを避けている。そのことが、『哲学探究』に向かわせた端緒なのかもしれない。
    写像関係の例示で、楽譜など音楽関係が多く、家族に音楽家がいたことで特殊なメタファーとなっていることがうかがえる。
    1〜3節が定義が多く難解だが、丁寧に追っていけば大筋は読める。しかし4,5節は論理学中心(特に5)になるので、ラッセル、フレーゲ、ホワイトヘッドの議論の前提知識がないと厳しい箇所がある。また、6.4から突然倫理的主題になり、語りえぬことを語りだすので面食らうが、そこから7までが一番面白いともいえる。
    1世界、2事実、3論理と像、4思考と言語命題、5要素命題と私、6倫理、7沈黙、と議論は進行する。
    訳は一見くだけて読みやすいように見えるが、語る→言う、名→名前、操作→演算、古代の人々→古い人、意志→意思など不自然な箇所が多く、特に序文のですます調など、ウィトゲンシュタインの語調とアンバランスで違和感が残る。また、クリア、シンボリズム、コーディネートなどカタカナ語を使用しているが、これもはまっておらず読みにくく、うまくいっていない。岩波文庫の野矢茂樹訳の方が締まった文章でよかったかもしれない。あとがきを見ると岩波文庫の訳に暑苦しい脚色を感じたそうで、オリジナルに近い訳文だそうだ。
    ・野家啓一講義
    アリストテレス伝統的論理学は、性質を扱えるが、大きさや間にあるなど関係は扱えなかった。フレーゲが『概念記法』名辞から命題を基盤とする、語から文へ転換した。美しいという価値判断人によって異なるから命題とはみなされない。真偽のみを認める論理を2値論理という。命題を関数で書く、Fa…aはFである、R(a,b)…aはbとRという関係にある。ラッセルホワイトヘッド『プリンキピアマテマティカ』記号論理学。命題同士の推論関係を扱う命題論理、命題の内部構造と量allやsomeに関わる推論関係を扱う述語論理に分かれる。最小単位は要素命題、命題変項p,q,r..で表される。接続詞である論理結合子、論理定項で複合命題を作る。否定not連言and選言or条件法if〜then。論理結合子の特徴は、複合命題の真理値が要素命題の真理値に左右される点。論理結合子の働きを真理関数という。複合命題の特別な二種類、結果が常に真となる複合命題トートロジー(恒真命題)同語反復pv~p排中律、偽になる矛盾命題(恒偽命題)p.~p。トートロジー確立が論理学の革命へのウィトゲンシュタインの貢献。
    述語論理、二つの両記号、すべてのall普遍量記号∀、いくつかのsome存在量記号∃。(∀x)Fx全てのxはFである。(∃x)GxあるxはGである。丸い四角は存在しない、伝統的論理学丸い四角は非存在。丸い四角は対象でないので無意味な命題になってしまうが、現代論理学丸いR四角いSという述語で、〜(∃x)(Rx.Sx)存在否定命題として、見かけの文法に惑わされず正しい論理形式を明らかにする論理分析、言語分析としての哲学の役割。
    フレーゲ文脈原理、命題だけが意味をもつ。脈略の中でしか名前は指示対象をもたない。事態と事物は、命題どうしの命題論理と量の述語論理に対応する。論理空間は思考の限界を論理的に具体化したもの。
    像も事実である。同一の情景などの事実に対し、別の事実の像、言語、絵画、楽譜、写真として。事実と写像は論理形式を共有し、すべて論理像となるが、それが思考、有意味な命題。言語の特別な地位。対象を名指す名前から構成される事態の最小単位の要素命題を全部並べることで世界が完全に記述される。すべての命題は要素命題に真理演算を行った結果である。完全な分析がひとつだけあるというのがウィトゲンシュタインの信念。
    →そういう想定で論理空間を設定しなければ限界を定められなかったのでは。絶対的価値であれば形而上学。
    言語「名前、要素命題、複合命題、論理空間」
    世界「対象(事物)、要素的事態、複合的事態、可能的世界」
    論理形式を共有することにより写像関係に立つ、という論理学的世界。
    正しい命題の総体が自然科学全体。語ることのできないもの、論理形式、倫理善悪美主体意志神。写真にはカメラとカメラマンは語られず、示される。
    →示唆される。
    私の言語の限界=私の世界の限界、母語による世界の理解、言語論的独我論。他方、論理は、経験的内容を語る言語のように個人的なものではなく、「私たち」の世界の普遍的な枠組みを形式的に示すもの。全ての経験的内容に「私の」とラベルを貼れば、純粋な実在論と一致する。
    6.4から形而上学的主題が多くなるが、1916.6.11の草稿ノートに書きつけられたあたりから変化している。6.4にブルシーロフ攻勢というロシア軍猛攻に遭い、九死に一生を得で退却した体験が生死の主題に向かわせた。世界の中に価値は存在しないという意味で、世界の中にある全ての命題は等価値。価値と対比されるのは事実。かけがえのないものと偶然的なもの。世界内部はすべて偶然的。倫理の命題も存在できない。超越論的。カント、経験を可能にする条件。もう一箇所は、6.13論理は超越論的。すべて法則性の探究という意味で偶然的事実を可能にする条件。倫理、論理は超越論的であるがゆえに世界の境界条件を形作っている。語りえないものと境界を接している。『論考』5/6は論理的考察、1/6倫理的考察。魅力はアンバランスさ。この本に書かれなかった部分が重要だ。倫理を内側から限界づけ、それは倫理の限界を定める唯一の方法。思考=言語の境界を定めてはじめて、倫理的価値などの語りえないものが、向こう側に示される。この作業そのものは、世界内事実を語る有意味な命題ではない。学説ではなく活動としての哲学は停止する。沈黙は世界の重さと釣り合っている。
    ・1世界はそうであることのすべてである。事実の総体。論理空間内の事実が世界。分解すると複数の事実。
    ・2そうであること、つまり事実とは、事態が現実にそうなっていることである。事態は対象(事柄、事物)が結合したもの。事態の構成要素が事物。論理には偶然性はなく、事態に現れる可能性は事物の中にある、対象の形式。あらゆる可能性は論理にとっては事実。対象は、時間、空間、結合可能性の外では考えられない。全ての対象とともに可能な全ての事態も与えられる。対象は単純で、合成されたものではない。形式は実体で規定され、特性は命題で像として規定される。実体とは、現在に従属しない、形式と内容。
    →カント形式、内容、時間、空間、対象(事物)
    対象の形式は、空間、時間、色。対象の配置が事態を形作る、構造。形式とは構造の可能性。現実になっている事態の総体が世界であり、どういう事態が現実になっていないのかもネガティブな事実として現実のうちに規定される。ある事態から別の事態は推論できない。私たちは事実の像、現実の模型をつくる。像は論理空間の状況を表し、事態の現実の成否を表す。写像形式は、構造の可能性で、事物たちが像のエレメントたちのように関係しあっている可能性。像が現実を写し取る様々な写像形式は、自分の写像形式を写し取ることはできず、提示するだけ。
    →フーコー言葉と物の王の位置
    現実と共有するのは、像は写像形式、形式は論理形式つまり現実の形式。写像形式が論理形式なら像は論理像。像は全て論理像で、世界を写像できる。
    →現実と像の間の関係が写像形式で、いろいろな形を持ちうるが、その総体が論理形式で、像の総体が論理像。
    像が描写するものが像の意味、それと現実との一致不一致が真偽。像からだけでは真偽はわからず、現実と比較する必要がある。アプリオリに真である像は存在しない。
    →カントアプリオリ
    ・3事実の論理像が、考えである。
    考えること=事態の像をつくること。真の考えの総体が、世界の像。非論理的に考えることはできない。アプリオリに正しい考えは、可能であるだけで真と保証されるもの。命題という音声や文字などの記号を、可能な状況を射影したものとして利用している。命題とは世界と射影関係にある、考えを表現する命題記号。
    →世界(事態)⇔ 言語(命題)⇔論理像(像)=思考
    命題記号は文字記号ではなく、空間的対象から構成されていると考えると、事物の占めている位置が命題の意味を表現しているという本質が明確になる。状況を記述できるが、名前をつけることはできない。名前は点、命題は矢であり意味がある。対象に対応する命題記号の要素を単純な記号といい、名前と呼ぶ。名前は命題では対象の代理。対象は言葉で表せない。名前を言うか、命題でどのようであるか話をするだけ。単純な記号であるはずだというのは意味が確定しているべきだという要求。
    →スタティックな意味が確定した論理空間を想定することで、言語の最小単位、言語の限界が分析できるようにするため。
    完全な分析がひとつだけある。
    →形而上学的な想定。
    名前はさらに分解はできない原始記号。その意味は原始記号を含んだ説明によって明かされる、そしてそれを理解できるのはその記号をすでに知っているときだけ。意味をもつ命題だけの中でしか名前は指示対象をもたない。命題の意味を特徴づける、命題とその部分を表現(シンボル)という。形式と内容は表現によって特徴を示される。表現は、それが現れる全ての命題を前提に、一般的形式によって定項となり、それ以外は変項になる。表現を含む命題が変項となる、命題変項。どんな変項も、表現が命題の中だけで意味をもつので、命題変項である。全て変項に変えても論理形式、論理的な原像は残る。とりうる値を、命題の列挙により、確定するということ自体が変項である。値の確定はシンボルを記述しているだけで、何が表されているかは発言していない★。
    →どのような表現が許容されるかが値の確定で、具体的に意味を表すときにそこから選ばれる。
    命題は表現の関数。シンボルのうち知覚できる面が記号、できない面が意味。
    日常言語では、異なった2つのシンボルの意味が同じ記号を共有する、あるいは逆に同じシンボルを2つの記号が表すことが多く、混同が生まれ、哲学全体にまみれている。ist繋辞等号存在、existieren存在する自動詞。あることが話題になる。
    →ハイデガー存在
    間違いを避けるため一シンボルに一記号の記号言語、フレーゲラッセル概念記法では不十分。使われない記号は意味をもたない。
    →中世イギリス哲学者神学者オッカム、説明に余計な原理存在の記号は不要。
    論理的シンタックス(構文)では、意味を問題にせず、表現記述だけを前提にする。ラッセルのタイプ理論はその点を間違えた。命題は、自分自身について発言はできない。F(F(fx))のFは異なった意味をもつ必要がある。文字が共通なだけでF単独では何も表さない。ラッセルのパラドックスは片づけられる。
    命題の偶然的特徴は命題記号を音や文字にするやり方、本質的特徴は意味表現。同じ意味を表現する全ての命題に共通しているシンボル、本来の名前。表記を任意に決めた後は、確定したものになるという表記の本性がある。個別の表記は重要でないが、可能な表し方があることで、世界のあり方が明らかになる。定義は翻訳のルール。
    幾何学的な場所のように、命題は論理空間に一つの場所を定める。その際、その場所以外の論理空間全ても決まっている。
    →時間性がない。新旧語彙の変化がない非現実的な空間。
    ・4考えとは、有意味な命題のことである。
    命題の総体が言語。日常言語は、人間の一部の有機体のように、理解のための暗黙の取り決めが複雑で、言語論理を直接引き出すことはできない。哲学的命題は間違っているのではなくノンセンス。言語の論理を理解していない。「善と美は同一か」などは問いですらない。全ての哲学は言語批判である。
    →カント吟味的批判
    ラッセルは、命題の見かけの論理形式は、現実の論理形式である必要はない、と示した。命題は現実の像、モデル。記号は記号で表されているものの比喩。
    →ローティ言語はメタファー
    レコード盤、楽想、楽譜、音波は、互いに内的な写像関係。交響曲を楽譜言語、レコード盤に射影する、射影法則。メタファーが可能なのは、写像の論理があるからだ。命題は意味を示し、それが真であれば、事態を示し、そのようであると言っている。命題は完全に記述されることで、現実がイエスノーに答えられる。命題の記述が対象を外的特性によって記述し、現実を内的特性によって記述する。命題は、真でなくても理解できる。翻訳はセンテンスではなく、構成要素だけが行われる。命題は、これまでの表現で、新しい意味を伝えることが本質。論理定項(~.∨)は対象の代理にならない。
    →~~p=pは、等しいのに消えている。命題と状況において区別できることはちょうど同じで、論理的(数学的)多様性をもっている。現実は命題によって喩えられる。命題はすでに意味をもっていて、肯定は意味の肯定にしかならない。正しい命題の総体が、自然科学全体である。哲学は自然科学ではなく、学説でもなく、活動として説明すること。つまり、命題ではなく、命題をクリアにして境界をはっきりさせること。認識論は心理学の哲学。記号言語の研究は、思考プロセスの研究だが、たいていの哲学者同様、この方法も本質的でない心理学的な研究に巻き込まれる危険はある。ダーウィン理論、自然科学とは哲学は関係ない。哲学は思考可能・不可能な境界を決め、考えることのできるものの内側から、考えることのできないことを締め出すこと。そのために、思考と言語は一致することから、言うことのできるものをクリアに描くことにより、言うことのできないものを指し示す。命題は、命題の中に写っている、論理形式を描けない。命題は現実の論理形式を示す、提示する。示されうるものは、言われえない。
    →示されるならば言えるが、それ以外で示唆されるだけのものは言えない。
    対象や事態の形式的特性、事実の構造の特性(内的な特性、事実の表情)、形式的関係、構造の関係(内的な関係)について語ることができる。哲学者たちは内的関係と外的関係を混同している。これらは命題ではなく、事態や対象を扱うことで示される。
    →個々の事例で特定できるが、命題で直接描写することは複雑で不可能。
    状況の内的関係と命題の内的関係で表現される。名前が対象の記号になっていること、数字が数の記号になっていることなど、形式的な概念、特性は関数で表すことができない。形式的な概念の意味をもつシンボルすべてにとって、特徴となる表情。形式的概念の表現とは、命題変項、表情が定項。
    →内容を表すための全ての条件なので、その形式内で表すことはできない。形式の個性はあるがそれを名指すことはできない。表情の表現は定項として同じだが、命題が変項として変化することそのものだから描写できない。
    命題変項が形式的概念、値はその概念に当てはまる対象。名前の変項xが対象という擬似概念の本来の記号。
    →カント対象x
    対象という語自体は、何らかの対象にはならない。「対象がある」など。全ての対象の数についても語りえない。複合体、事実、関数、数も同様。形式的な概念は対象とともに与えられるので、基本概念として別個に用意して導入はできない。ラッセル関数概念と特殊関数や、数概念と特定の数のように。
    分析した一番単純な命題、要素命題は、事態が現実にそうなっていることを主張する。互いに矛盾することはない。
    →同じ空間の赤青黒など矛盾もありうる。
    要素命題は名前のつながりからなる。世界が限りなく複合的で多くの事態や対象からなるとしても、対象や事態が存在している。
    →原子的
    名前という単純なシンボルを、x,y,zで表す。要素命題をfx、φ(x,y)などの形式、またはp,q,rで表す。置き換え可能を=、決めるときの定義Def.で表す。要素命題が真ではじめて事態を描く。それを全て並べることで世界は完全に記述される。要素命題たちが真である可能性が、命題の真の条件である。命題記号を真理表によって表すことができ、最終列に各要素命題から判断する真の行を加えることで、命題が要素命題に依存していることがわかる。要素命題が、全て真のトートロジー、全て偽の矛盾がある。トートロジー「今は雨が降っているまたは降っていない」(pv~q)、矛盾「今は雨が降っているかつ降っていない」(p.~q)。トートロジーと矛盾はノンセンスではなく、シンボリズムの一部で、0が算術のシンボリズムなのと同様。
    →シンボリズム象徴主義だが、おそらく記号体系
    トートロジーと矛盾は、全て許容あるいは一切許容しないことから、可能な状況を描写する現実の像ではない。真であることは、トートロジーが確実、命題は可能、矛盾は不可能。記号の論理的結合は、指示対象の論理的結合が対応している。トートロジーと矛盾は記号結合の境界例、記号結合が解消すること。トートロジーと矛盾の記号結合は無意味。命題の記述を記号言語に委ねる場合、名前、記述、シンボルを適切に選び、意味を表現する。命題の一般的な形式は、「これこれの事態である」。全ての要素命題が与えられているとき、組み合わせだけが問題になる。それが全ての命題の境界。全ての命題は、要素命題を一般化したもの。一般的な命題形式は変項。
    ・5命題は、要素命題の真理関数である。(要素命題は、それ自身の真理関数である)
    要素命題は、命題の真理項。真理項が真である可能性のうち、命題を真にするものを、「真である根拠」と呼ぶ。特定の命題の根拠になる場合は、導かれている、という。導かれるなら、その意味は含まれている。pがqから導かれるなら、qからpを推論することができ、pをqから導くことができる。ふたつの命題だけが推論を正当化することができる。導くことはアプリオリに起きる。要素命題から別の要素命題を導くことはできない。異なる状況から推論を正当化する因果連鎖は存在しない。未来を現在から推測できない。因果連鎖は迷信。意志の自由は未来の行為を今知ることができないという点にある。矛盾は全ての命題の外側で消える、全ての命題の外側の境界であり、トートロジーは全ての命題の内側で消える、実体のない中心である。
    →構造主義0記号ロランバルト
    命題rとsの真である根拠で、比Wrs:Wrのことを確率の度合いという。確率とは一般化のこと。ある命題を他の命題たち(演算のベース)から取り出す演算の結果として、その命題を描写することで、命題の構造の内的関係を浮かび上がらせる。演算はある命題から他の命題を作るために施される。要素命題の真理関数は、要素命題をベースとした真理演算の結果。否定、論理和、論理積などは演算。演算は形式たちの違いを表現する。
    →演算=操作、論理定項、命題変項確定による差異化
    演算を繰り返すことを反復適用。フレーゲラッセルの論理的対象、論理定項は存在しない。p=~~pなら~~は対象ではない。見かけの論理定項。基本概念はあらゆる記号結合に導入されたされるべきで、個別の記号結合のために導入すると、基本概念そのものが疑わしくなるし、同じ種類の記号結合を使う理由がなくなる。ラッセルホワイトヘッド『プリンキピアマテマティカ』のように言葉を導入するなど新しい便法を導入するとひどい結果になる。論理には数、特別扱いの数、横並びのもの、分類、より一般的なもの、より特殊なものは存在しない。論理学的解決は、単純である必要がある。論理学の演算記号は、句読点。一般的命題形式が命題の本質。命題の本質は、全ての記述、世界の本質である。一般的命題形式を記述することは、ただ一つの一般的論理原始記号を記述すること。オッカムの格言は、不必要な記号単位には意味がない。一定次元の、一定の数学的多様性の記号システムを作ること。基本概念の数ではなく、ルールの表現。どの真理関数も要素命題に対し演算(____W)(ξ,……)を反復適用した結果である。N(ξ)命題変項ξの全ての値の否定。対象、要素命題が与えられているとき、それと同時にそれぞれすべての対象、要素命題が与えられている。完璧に一般化された命題たちによって、世界を完全に記述することができる。…というxがただ一つだけ存在し、そしてそのxはaであるという具合に。真偽によって世界は変化する。ある要素命題が真のとき、そのことによって真の要素命題がひとつ増えたことになる。等号ではなく記号の等しさで表現する。Aはpと「信じている」「考えている」「言う」は「『p』はpと言う」の形式であって、対象に対象を割り当てることで、事実に事実を割り当てる。つまり、今日の心理学の主観などは馬鹿げている。異なった指示対象をもつ名前の数は報告できないので、要素命題の合成も報告できない。
    →それ以上分けることのできない原始記号は、分けられる具体例では名指せない。
    論理によって決着がつく問いなら全て即座に決着できる。論理理解、真偽のための経験は「何かがある」「なに」ということ。論理は「こうである」「どのように」という経験に先立つ。論理的に重要なのは、個々のシンボルではなく、そのシステム。経験的実在に境界をつくるのは対象の総体、境界は要素命題の総体において示される。要素命題は論理的理由から知らなくても、分析されていない形式で全ての人に理解されている。なぜなら日常言語は論理的完全な秩序をもつからだ。もっとも単純なものは真理そのもの、問題はもっとも具体的なもの。要素命題は報告できない。私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する。世界の限界は、論理の限界。「世界にこれこれは存在しない」というとき、論理が世界の限界を超えているので、いうことはできないし、考えることもできない。ソリプシズム(独我論)の思っていること「世界は私の世界」は正しいが言うことはできない。それは、私の言語の限界が私の世界の限界という意味において示される。
    →世界を見ている私はその中に現れない。
    世界と生はひとつ。私は私の世界(ミクロコスモス)。主体は存在しない、記述するのは私の見えている世界だけで、主体だけは描けない。主体は世界の一部ではなく、境界。ソリプシズムを徹底すると、私は点となり、純粋な実在論と一致する。
    →カント統覚。私の世界の経験的記述を徹底すれば、あらゆる実在を認めることになる。
    哲学は私の世界、心理学の人間の私ではなく、世界の境界としての形而上学的主体。
    ・6真理関数の一般的な形式はこうだ。[p-,ξ-,N(ξ-)]これは、命題の一般的な形式である。
    どんな命題も要素命題に演算N(ξ-)の反復適用した結果。数は、演算の冪(べき)であり、その概念は、全ての数に共通な一般的形式、数の変項。論理学の命題はトートロジーであり、何も言っていない分析の命題。自然科学の命題ではない。トートロジーは、言語すなわち世界の形式的論理的特性を示している。トートロジーになることが、構造特性があることを示す。論理学と経験は互いに反駁・証明不可能であるがゆえに、論理的な真理があるように感じられるが、そのことが十分な表記法を要求する。形式と推論の教え。一般的とは、偶然全てのものに妥当するということ。還元公理が正しいとしても、好都合な偶然のおかげで正しいだけかもしれない。論理は世界が実際どうかとは無関係。論理学の命題は何も扱っておらず、前提しているのは、名前に指示対象があること、要素命題に意味があることである。論理で表現するのは任意でない面、すなわち自然で必然的な記号の本性が自分で供述する。論理ではプロセスと結果は等価であるから、驚くようなことはありえない。論理命題の証明は、トートロジーからトートロジーを生み出す反復適用を行い、問題の論理命題を成立させ、トートロジーであることを示すこと。証明は複雑なトートロジーを簡単に見分けるための補助手段にすぎない。論理は学説ではなく、世界の鏡像、超越論的。数学は論理的な方法、等式であるから擬似命題であり思想を表現しない。世界の論理を、論理はトートロジー、数学は等式で示す。二つの表現が同じ指示対象を持っていることを示すための等式は、二つの表現から見て取ることができるので、必要ない。数学の正しさは納得がいくものなので、事実と比較する必要がない。
    →カント数学的直観
    数学は論理の方法、本質は投資期で仕事をすること。等式に従いながら、表現を代入で別の表現に置き換えることで新しい等式へと歩いていく。論理の探求は、全て法則性の探求のこと。その外側では全ては偶然である。帰納法則は、有意味な命題であるから、論理法則、アプリオリな法則ではありえない。因果法則は法則の形式であり、法則ではない。保存法則を信じているのではなく、論理形式の可能性を知っている。ニュートン力学は世界を記述する統一された形式を用いる。力学は、世界の記述に必要な真の命題全てをたった一つのプランに沿って構成しようとする試み。因果法則が存在するなら自然法則だが、言うことはできず、示される。時間の経過は存在しない。右手と左手を重ね合わせることができないというカントの問題は、一次元においても存在しており、同一直線上の二つの線分は、空間の外に出なければ、重ねられない。帰納は経験と調和する最も単純な法則を採用すること。それは論理的ではなく、心理的。明日太陽が昇るかどうかはわからない。現代の世界観は、自然法則が自然現象の説明だという錯覚に基づく。昔の人々や神や運命に立ち止まりクリアな終着点を認めていた意味でクリア。
    →昔の人々ははっきりと限界を理解していた意味で明晰だった。訳がうまくいってない。
    世界は私の意思に依存していない。望むことが起きても運命の恩寵であり、意思と世界に論理的つながりはない。論理的必然しかないように論理的不可能しか存在しない。
    →必然の対義は不可能
    二つの色が同時に視野の一箇所にあることは不可能。二つの要素命題の論理積はトートロジーでも矛盾でもない。全ての命題は等価値。世界の意味は、世界の外側にある。全てがあるようにしてあり、起きるようにして起きる。世界の中には価値は存在しない。なぜなら世界の中で起きることは偶然であるから。倫理の問題も存在できない。命題はより高いものを表現できない。倫理は言葉にできない超越論的なもの。倫理[学]と美[学]は一つのもの。
    →絶対的真理に基づく倫理の中に、美的価値観がある。学ではないように思う。
    為すべしという倫理は、そうしなければどうなるかが問題。行為の結果たる普通の賞罰とは無関係。行為そのものの中に賞罰がなければならない。意思は倫理的な担い手にならない。それに興味をもつのは心理学だけ。善悪が変えるのは世界の限界だけ。事実、言語表現を変えることはできない。意思によって別の世界になり、世界のサイズが増減する。死において世界は変わらず、世界が終わる。死は経験できないから人生の出来後ではない。永遠を無時間と捉えるなら現在に生きる者は永遠の中に生きる。生は視野に境界がないのと同様に終わりがない。魂の不死は保証されないし、そうだとしても死ぬことはないので、何も言ったことにならない。生の謎は、時間と空間の外側にある。世界がどうであるかはより高いものにとってどうでもよく、神は世界の中にない。事実は課題の一部で、解かれるためにあるのではない。世界がどうであるかでなく、あるということが神秘。永遠の相の下で世界を見るということは、世界を境界で囲まれた全体として見ること。そう感じることが神秘。
    →スピノザ『エチカ』
    口にすることができない答えは、問いも口にすることができない。謎は存在しない。問うことができるなら答えることもできる。問えない場合に疑うのはノンセンス。問いがあるときしか疑えない。答えがあるときしか問えない。言うことができるときのみ答え、問い、疑える。全ての科学の問いに答えても、生の問題は残る。生の問題が解決するのは、問題そのものが消えたとき。ただし、口に出せないものは存在するが、自分を示す。それは神秘である。哲学の正しい方法は、言うことのできること以外言わないこと。形而上学的なことを言おうとしたら無意味であることを教える。これこそが厳密に正しい方法。
    ここに書いたことを理解する人は、文章を通り乗り越えて、私のノンセンスに気づく。ハシゴを上ってしまったら投げ捨てるに違いない。その人はこれらの文章を克服し、世界を正しく見ることになる。
    7語ることができないことについては、沈黙するしかない。
    ・訳者あとがき
    ヴィトゲンシュタインは自分の仕事について、「自分で考えるといっても、私がやっているのは複製・再生でしかない。私は思想の運動をつくりだしたことなど一度もないと思う。いつも誰かからのもらいもの。すぐに飛びついて、それをクリアにしようと情熱をかたむけたにすぎない。そうやって私はボルツマン、ヘルツ、ショーペンハウアー、フレーゲ、ラッセル、クラウス、ロース、ヴァイニンガー、シュペングラー、スラッファから影響を受けた。ユダヤ的複製・再生の例として、ブロイアーとフロイトの名前をあげることができるだろうか?──私がつくりだすのは、新しい比喩である。」(『反哲学的断章』)
    →ローティ、新しいメタファー
    編集者フィッカーあての手紙、「この本の意味は、倫理的なものです。[…]私の仕事は、二つの部分からなっています。この本に書かれている部分と、私が書かなかった部分です。そしてまさに書かれなかった2番目の部分こそが、重要なのです。なぜなら、倫理的なものの境界線を、私の本はいわば内側から引いているのですから。厳密には、このようにしてしか境界線を引くことができない、と確信しています。要するに、今日、多くのひとの口から出まかせにしゃべられていること全てを、この本の中で私は、それについて沈黙することによって、確定したつもりです。[…]この本のはじめにとおわりを読んでみてください。この本の意味が、最も直接的に表現されています。」
    学生のレポートで引用されていた岩波文庫『論考』の情熱的な訳に違和感があった。だろう→である、である→にほかならない、もしかしたら→おそらく、決められている→決められる。これでは引いているようで押している微妙なスタンスが伝わりにくい。「語ることができないことについては、沈黙するしかない」→「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」、その気になれば語ることができるように見え、お説教のにおいがする。読むことは読む者の読み方を通すが、訳はオリジナルに色をつけるような「装飾は犯罪だ」(アドルフロース)。せねばならないは、厚化粧の読み方。寄せ書きされた日の丸の旗みたいで、暑苦しい。『論考』が美しくなくなる。ヴィトゲンシュタインは騒音が大の苦手だった。「私の理想はある種の冷たさである。情熱に口を挟むことなく、情熱を取り囲む寺院」。哲学は理論や学説ではなく、考えをクリアにする活動だ。「哲学って君の目的って何?ハエに、ハエ取りボトルからの逃げ道を教えてやること」。ヴィトゲンシュタインが嫌々ながら呑んだラッセルの序文も載せていない。

  • 衝撃的だった。特に否定によって世界の内にあるものは全て真理関数で表せることに気がついたことがすごいと思ったし、納得してしまった。その上で世界の外にあるものは真理関数では表せないと気づいたときに著者が「6,44 世界がどうであるかということが、神秘なのではない。世界があることが神秘なのだ。」と述べてて、なんとなく毎日を生きている自分にとってささった。
    記号論理学を勉強した上でもう一度よんだら今回理解できなかったところも理解できてまた新しい視点から本を読めそうで面白そう。読み直したい。

  • よくわからんかった
    ただ6.4前後あたりから、何かとても大切なことを呼んでいるような感覚があった

  • 高校生向けの解説つきでしたが、それすら私は難しかったです。本文も辛うじて読み通しましたが、よく解らずじまいでした。ですが、所々、気になる文章が出てくるので、他の解説書などを読んでから再チャレンジしたいです。

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著者プロフィール

1889-1951年。オーストリアに生まれた哲学者。論理実証主義や分析哲学をはじめ現代哲学に多大な影響を与えた。生前に出版された著作は『論理哲学論考』と本書の二冊のみ。

「2018年 『小学生のための正書法辞典』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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