オイディプス王 (古典新訳文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (176ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334753603

感想・レビュー・書評

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  • 「オイディプス王」は演劇の起源として有名ですが、今読んでも古びないのは、緊密なセリフの応酬や犯人が最後まで特定できないサスペンス感にあります。また、神の命に背いて子をなしたライオスに対するアポロンの呪いという因果の部分を削除したソポクレスの世界観が凄い!これで現代人にも共感できる立派な不条理劇になっています。

  • 先日読んだ齋藤孝氏の『読書する人だけがたどり着ける場所』の中で初めて知った本。

    そもそも私は所謂「名作」と言われている書籍は外国の(翻訳)ものから日本のものまで超苦手で、ちゃんと読み切ったものなどほんの数冊しかない。
    ましてや、それ以上大昔の紀元前の本書なんて、恥ずかしながら題名すら初耳だった。
    (日本で舞台上演もされているようなので、本当は有名なのだろう…)

    それを何故読みたくなったのかというと、齋藤孝氏の紹介では(たぶん私以外の誰しもが常識として知っているという前提なのだろう)思いっきりネタバレしており、そのネタバレの内容を「あら面白そう」と思ったからだ。

    そこで紹介されていたのは「藤沢令夫訳 岩波文庫」だったのだが、図書館にあったのはこちらだった。

    薄い文庫本で、開いてみて初めて「これ、劇なの?セリフなんだ?」と知った。
    齋藤孝氏のネタバレ状態で読んだから、かえって読みやすかった。
    そして、私が読んだのは「光文社古典新訳文庫 河合祥一郎訳」だったのも、読みやすかった所以だろうと思う。

    とにかくネタバレの件しか知らず、劇のセリフであることは本を開いて初めて知ったくらいなので、当然「イオカステはいつ気づいたのか問題」などというものが文学者達(や、おそらく長年の読者達)の中で考察されていることなど知る由もなかった。

    しかし、そういうことが書いてある解説にたどり着くよりも前に、本文を読んでいる時から、何も知らない私は自然と「イオカステはいつ気づいた?」が気になってしまい、その近辺を行きつ戻りつして確認していたのだから面白い現象である。
    今後この書籍の研究をする方は、前情報や常識の無い「ど素人」が初めて読んでも「イオカステはいつ気づいた?」を気にするのだということを心に留め置いて欲しいくらいだ。

    そして私の考察は、本書の河合氏派である。

    シェイクスピア作品もこの光文社古典新訳文庫で発刊されているようなので、いずれ読んでみようかな、いずれ…

  • 高校一年生のとき(30年以上前)、担任兼世界史の先生が、この作品のあらすじをプリントで配ってくれて、衝撃を受け、ずっと記憶には残っていたものの、作品そのものは読んだことがなかったので、今回お気に入りの光文社古典新訳文庫で読んだでみた。
    紀元前にこんな込み入った話を書いて劇をしていた、というのは正直驚きだ。
    ギリシャ人が、「元祖ヨーロッパ人」面をして、EUから財政支援を受けてもまだ文化的には貯金がある、という感覚であるのも、気持ち的には分かるような気がする。かな。。

  • 齋藤孝さんの「読書する人だけがたどり着ける場所」で紹介されていて読んでみた。
    自身、文学に限らず古典にはこれまで全くと言っていい程触れる機会がなかったが、良いきっかけだと思って読んでみた。
    まず何より、これだけのストーリー性のある話が、紀元前の時代に作られ、現代にまでその形を残している点に非常に感動した。
    ストーリーはある程度わかった上で読んではみたが、それでも楽しく読ませていただいた。
    オイディプス王自身が真実に気づいた後の狂気に満ちた行動もさる事ながら、解説にもある通り妻であるイオカステ妃が、いつどのタイミングでその事実に気づいたかという点において、諸説あるというところは非常に興味深かった。これは古典ならではの醍醐味であるのかもしれない。
    もちろん現代の小説に比べれば、読みづらい点、理解しづらい点はあるものの、自身の古典への入り口として読むには、非常に良い本だと感じた。

  • 2000年前に紡がれた、これは短編でありつつも緻密でおぞましく、逆転と認知の悲劇的なストーリーです。
    辻褄があっているのか、疑問点を読み返して咀嚼してみたくなります。 
    最大の疑問は使者がオイディプス王に謁見した際、お互いにライオス殺害の現場に居ながらその時の場面について追求せず、それより遥か昔に両足を拘束された子どもについて固執し続けたことと、使者が複数人の犯行と証言したことがうやむやにされたことです。使者が王を殺された現場にいながら王を助けられなかった言い訳で虚偽の報告をしたんでしょうけど、その一点を頼りにしていたオイディプス王なのでキチンと回収されないと読み手としてはしっくりこないです。
    翻訳もギリシャ語を英語に訳したものからの日本語訳とはいえ、かなり原作に配慮しながら訳したものであるとのことで安心しました。
    そもそも我が子を預言者の言いなりに殺してしまおうと思う母が悲劇の元凶ではあるが、フロイトが提唱した、男子には近親相姦の本能があるかもしれない(エディプスコンプレックスの語源とされるのだと思い当たる)恐ろしさとともに深く考えさせられるミステリーでした。

  • あらすじは知っているけど、実際に読むと最初の堂々とした振る舞いと全てが判明してからの苦悩に満ちた心情の語り口の落差が興味深く、グイグイと読んでしまう。どういう運びで判明するのかを追うミステリーっぽさもあって面白かった。

  • 約2400年前に書かれたギリシャ悲劇が本として読めることに驚きです。

    本によって訳し方など内容が若干違いがあるようですが現代でもとても読みやすかったです。

    冒頭の怪物スフィンクスの件だけ、物足りなさを感じました。

    「朝は四本足、昼は二本足、夜は三本脚。これは何か」という謎をかけてテーバイの住民を苦しめてた怪物スフィンクスの謎を解いてテーバイを解放した。

    調べてみると
    怪物スフィンクスは人々になぞなぞをかけて答えれなければ食べてしまっていたそうです。
    オイディプスが謎を解いて答えは「人間」でした。
    謎を当てられたスフィンクスはショックで山の上から身投げしたそうです。

    物足りなさのおかげで色々調べてオイディプス王を更に楽しめたので結果的に良かったです。

  • ●ようやく、初めての古典。
    学生時代に歴史か国語の授業で確か触れたことがあったが、盛大なネタバレだけされていたのだなというのが読み終わって分かった。
    なるほど、父であり兄弟。なるほど子であり妻。。
    オイディプス王は(例の事件を除いては)至極真っ当な王様であるだけに、こんな運命を背負うのは酷すぎる(まさに過酷)

    ●短い本だが、あっという間に読み切れた。自信になる。

    ●ギリシャ語原文では韻が踏まれているらしい。日本語では分からないのが少し惜しい(とはいえギリシャ語を勉強しようとまでは思わないのでどうしようもないのだけど)

    ●このあとに2作品、続きがあるらしい。
    挑戦するか悩ましい。
    解説を読むのが一つの楽しみなのだけれど、この本の解説は淡々としたもので、それほどの驚きはなかった。

    ●アリストテレス詩学にて、逆転と認知が同時に起きる傑作として本作を賞賛。古典同士の作品の関わりってすごい。
    あとフロイトのエディプスコンプレックスも。
    男児が潜在的に抱く母親への欲望と父親への対抗心というやつ。確か倫理の授業でやったなと。

  •  アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデス、ってギリシャの三大悲劇詩人、っていうのをたぶん世界史の最初の方で習うと思うけど、そのソフォクレスが書いた父殺しの『オイディプス王』。すごく短いので、あっという間に読めてしまう。シェイクスピアの翻訳で有名な河合祥一郎先生の訳。
      もともとは数冊前に読んだ、トルコの小説の『赤い髪の女』で、父殺しがテーマになっていたので、河合先生が訳していることもあり、読んでみた。おかげでシェイクスピアを読むように台詞が読めて、分かりやすい。というか読みつつ、その台詞を役者が喋る感じで頭の中に響いてきて気持ちよく読める。けど、あらすじをだいたい知って淡々と読んでしまい、あんまり印象に残ったところがなかった。もう少し味わって読むべきだった。でも2500年?くらい前の人たちもこんなドラマチックな話を作って共感したりできるって、なんかすごいなあ、とか小学生みたいな純粋な感嘆の念は常に持ってたけれど。(24/03/09)

  • 訳がたいへん読みやすく、ト書きはほとんどないものの、台詞の言い回しによって鬼気迫る情景が思い浮かぶ。シェイクスピアも翻訳している訳者あとがきによれば、ギリシャ悲劇は譜面のように韻律が決まっており、それを軸に音楽的に訳すことを心がけたという。声に出したときに古典の良さが実感できるとのことだ。紀元前429年頃の古典といえど心理描写が全く色褪せておらず、現代においても共感をもって読める(演劇だから読むものでもないが)。
    この共感は、第一に、「己の行為の影響について無知であること」だろう。現代の文脈でいえば、随所に伏線がありすぎて、かなり初期の段階で結論は読めてしまうが、それでも最後まで惹きつけるのは、その事実を知ることではなく、オイディプスの事実の「引き受け方」が気になるからだ。ひとは、自分一人だけではその行為に対してどんな影響があるのかを測り知ることはできない。なぜなら、行為の結果からしか影響を意味づけできないからだ。これは、人間が一人では生きていけない以上、避けられない一般性がある。
    第二に、偶然性がある。行為には選択意志だけでは決定できない、あらゆる可能性から現在の状況の制約を受ける。この物語では、ありえない偶然の連なりが、悲劇をより劇的にするが、日常生活においても、偶然性が人の生を形作る。あるいは、その偶然性を後から解釈して「必然性」と名づける。今では神託・予言を信じる者など多くはないが、あらかじめアポロンの神託によって筋書きが示されている必然性は、偶然性を絡めとる。
    そして第三に、親子関係の性と死の禁忌であって、この事件自体はふつう関わることがないものの、家族というものに共同体の言語、法や慣習といった多様を超えた、人間的な一般性がある。人間的な、というのはここでは動物にまで通用するかはわからないということにとどまる。フロイトがいわばメタファーとしてエディプスコンプレックスを定義したのも、人間的な病としての神経症をここに見たからといえる。オイディプスの母、イオカステはいう。
    "多くの男性が夢の中で、自分を生んだ母と   結ばれる夢を見るものです。それでも気に留めない者が、幸せに生きられるのです。"
    しかし、オイディプスは、気にせずにはいられない。なぜなら、それが夢にとどまらないのだから。
    "オイディプス、つまり「腫れた足」"
    名前に刻まれたその起源は、その人生の行為の証拠として叩きつけられる。
    "ああ、これで何もかも明らかになった。すべて真実なのだ。光よ、もはやおまえを目にはすまい。生まれてはならぬ人から生まれ、娶ってはならぬ人を娶り、殺してはならぬ人を殺した呪われた人間なのだ、私は!"
    光は、たんに見ることの前提のみならず、真実のメタファーであり、オイディプスは耐えきることはできなかった。
    "父でありながら兄弟。夫でありながら息子。   そして私が娶った女は、母でありながら妻。"
    真実は、役割としての人格を分裂する。オイディプスが父と出会うスキステ街道(「別れ道」の意だが、実際には狭い一本道)は、逃れられない必然性へ、偶然性の形をとって(あるいは逆かもしれない)、運命を導く。

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