――
「解ってたんだね?」
「いえ、探偵したんです」
…これいつの台詞だっけねぇ。思い出せずに困っています。
わたしのレヴューをある程度読んでくれている方(そんな奇特なひと居るのか…?)はなんとなくお解りだと思いますが、ステレオタイプな男性/女性像、とか典型的な老人による不理解、とかが極端に嫌い。それもこう、なんだろう明らかに物語上そういった機能を持たされてるひと、っていうのだと最悪。別にそういうひとが居るからって、逆にリベラルな人間(こういう局面で遣うことばかは疑問だけど。何かが薄まる気がする)が輝いて見えるってわけでもないから。
そんなに単純じゃねぇよ、って、時にはそのステレオタイプな側からも含めて思うこともあるし、もっと云えばそういう形の物語を読むことでそれを乗り越えた風、になってスカッとしている読者の姿というものを見てしまって首をひねるわけだ。固定観念をよりスムーズに固定化する餌を与えんじゃねぇよ、というか。
というか皆さんは、何故本を読みますか?
まぁひと口に本、といっても色々だからこの質問は水蒸気のようなものなのかもしれないけれど。
そして本当は、呼吸するように本を読むのが理想なのかなぁ、とか思っているんだけれど。
感動するために、とかそれこそ泣き本、とか。自分の考えを補強するために? 耳障りの良いことばを探して? なんで悪い例ばかり並べますかね?(笑
辛くて読めない、ってことは、無い。結局どんなことばでも、それを研いで自分に突き刺すのは自分自身だから。これはこういう形なんですー、って云われても困る。困るだけでとりあえず手に取るわけだけど、そういう、皆に刺さるように作られた刃は、自分の奥底までは届かないよねきっと。なんか思春期の女子みたいなこと云ってるけど、それはそうでしょう。
そして、その刃の形が自分にぴったりで安心してるひと、って云うのも少なからず居る。これはなんでもそうかも知れないけど、受け手の啓蒙、っていうのはどんなメディアにとっても大きな課題だよなぁ。
確かになんでも他人事っぽく受け止めてると思われることは多いし、正論は正論なんだけど別にそれが自分に影響は無いと思ってる、とかよく考えると社会的に破綻してるって云われているのと同じようなことを云われたこともあるけれど、
なんだろな、別に響かないわけじゃないし、
ただ、その響きは自分だけのものだって、これは大事に隠してるってことなのか?
盛大に話が逸れましたが。
さて、『スコッチ・ゲーム』。普段や短編集のライトな雰囲気とは掛け離れて、全編をどんよりとした空気に包まれている。それは殺人事件の凄惨さだけでなくて、そこに至るまでのタカチの人間関係、家族関係にもあるんだけれど、けれど裏腹な軽妙さも保っているのがやっぱり、象徴的。
男女のこと、女同士のこと、家族のこと…決して優しくない諸々が、それこそ典型的な描かれ方をしているんだけれどなんていうか、やるんならここまでやれ、っていっそ潔くて。これもしかし、書き手の信頼感の為せるわざなのかもしれない。松尾さんのお耽美小説が非常に読みたいのと一緒で。にしてもこの松尾女史によるナルシズム論は、タカチのひとつの側面を確立させたと云ってもいいんじゃないだろうか。自覚させた、というか。
その点、現在のタカチの姿を松尾さんはどんなふうに見るんだろうな、と考えてしまった。
この、やりすぎ、と云うくらいの極端な人物論がけれど、真相解明に対してミスリードになっているのがこれぞミステリ。
そしてそういった部分を度外視するタックこそが、真相を綺麗に切り分ける。そこには確かにカタルシスがあって、それはミステリとしてはもちろんなんだけれど、散々積み重なっているオレを不機嫌にすると書いた諸々に対する、力強い抵抗のようにも、読めた。
☆3.6