- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784396111885
感想・レビュー・書評
-
内容についても著者についても謎が多いとされる「歎異抄」。ビジネスマンでも読んでいる方は多く、先の大戦では死地へ赴く兵士が唯一持っていきたいと言って携えたのが歎異抄だったというエピソードも有名だ。あらゆる人が触れてきた歎異抄ではあるが、大作家の五木寛之氏がその歎異抄の魅力について迫る内容となっている。単に原文を読もうとするなら、長くはないが言葉も古くとっつきにくいのではあるが、原文・訳文両方を掲載しており、尚且つ、先に訳文を読んだ後に原文を読めるので二重に頭に残る様になっている。
歎異抄は親鸞の言葉を死後に書き残した内容だと言われている。親鸞に師事していた唯円が親鸞の残した教えが後世様々な形で間違って伝わっていく現状を憂い、自身がその耳で聞いた言葉として記載している。また、それから更に時代を下り、蓮如上人が内容を門外不出の発禁扱いにしており、その際にも内容の一部を書き加えたり削除したのではないかと言われている。親鸞にしても浄土宗を興し、蓮如も浄土真宗の高僧であるから、多くの仏教徒に支えられ支持されてきた内容である事には間違いない。
歎異抄それ自体は前述のとおり、短い内容であり、六章十八条の文から成り立っている。ここでは内容には触れないが、どれを読んでみても、自分という存在、人間という存在の悪について淡々と書かれている。そしてそこには金持ちも貧乏も正義の味方も人殺しも皆全て仏に救われる対象としての平等性が描かれている。結局のところ人は食わなければ生きられないから、動物だけでなく植物などの命を身勝手に奪う存在である。そうした生きるという理由や背景の中で、あらゆる出来事が起こっており、悪人が人を殺すのも同様に理由があるから、結果として受け入れられるものではなくとも、そこには必ず理由があるという。その下において人間が自身の力だけで極楽へ行くのではなく、仏の他力によって救われる。だから念じるという考え方であろうか。
自分の内側には人間の醜い部分がたくさんあって、そればかりを考えていると鬱々とした気分になってしまう。だがこんな時に、改めて自分=人間のというそもそもちっぽけで悪の存在であると認めることができると、また今をどの様に生きるべきか考え始めることができる様になる。私も歎異抄を理解できた人間ではない。ただ短い文章を繰り返し読むうちに、なんとなく自分という存在を見つめ直したくなってくる、そんな言葉を本書はわかりやすく解説してくれる。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
「善人ですら救われるのだ。まして悪人が救われぬわけはない。」らへんが確かにイエス・キリストと同じようなかんじだ。
親鸞もイエスみたいに罪人たちについて考えていたのかな。
でも、「いくらなんでも念仏頼みすぎじゃ…」とちょっと思ってしまった。 -
悪人正機と言って、悪人でもひたすらに念仏を唱えれば必ず極楽浄土へゆけるという、一般には受け入れられない事を書いているのですが、なるほど人間は殺生しなければ生きてはいけないのであって、その点からすれば誰しもが悪人になります。キリスト教の原罪と似たような出発点で、なかなかに興味深いです。
阿弥陀仏は誰でも救うのだから簡素な教義で良い、すなわち『南無阿弥陀仏』と唱えるだけで往生できるとしたのは画期的だと言えますし、大いに共感できますが、すべてを阿弥陀仏に委ねるという『他力』には若干の違和感というか、それじゃあ阿弥陀様の操り人形じゃん!って思ってしまいます。
他力、というキーワードが出ましたが、これって西田幾多郎のいう純粋経験と通じるものがあるように思います。どちらも自分から離れた「神懸かり的な」もので、西田は阿弥陀仏の教えを基に純粋経験を考えたのか、それとも全くそれを知らないままに純粋経験の論理に至ったのか……。
僕の評価はA-にします。 -
原文、訳文ともに初めて拝見いたしました。
ちなみに古典の現代語訳に関しての知識は、高校生レベルのため、五木氏の訳文の正確さは私にはわかりません。
ただ、親鸞上人の思想、及び歎異抄の言葉は、この深刻な「鬱の時代」を生きる上では羅針盤となるような言葉なのではないだろうか、と思う。
生れながらに罪人であるという事実を受け入れるのはつらいことであるが、明日の自分が何者なのかは今のおこないが決めること。
希望を持って善き人であろうと思う。 -
歎異抄を読みたくて本屋にいってみたら、これが一番廉価だったのと、五木氏の親鸞を読んだところだったのでそんなのもあって選択。原文と五木氏による対訳、それに少し対談とエッセイが含まれる。対訳、対談、エッセイについてはここでは言及しない。とりあえず、最初に原文を読んでみたが、非常にわかりやすくてほかの宗教のOld Testamentとどはずれて遠いということもない。一神教的かというとそうでもない。哲学的。私的には自力と他力というのがよくわからなかったので、そこらへん自分なりに理解した。といっても信心はやはり全く起こらないので、親鸞が真に念仏を唱える人に対して”こう”と理解してほしい”他力と自力”というものかどうかは別として。本当に”伝える”ということの難しさを感じる。
-
親鸞や蓮如の思想に長く関心を抱いてきた著者が、『歎異抄』を平明な現代語に訳した本です。巻末には、やはり『歎異抄』の現代語訳、それも関西弁で訳した、文芸評論家の川村湊との対談が収められています。
わかりやすくすっと入ってくるようなことばで現代語訳されており、自然に読むことができました。ただ、すでに著者は方々で『歎異抄』について語っているということもあるのかもしれませんが、イントロダクションにもう少し中身がほしかったように思います。新書一冊には、やや中身が薄いように感じました。 -
「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」で有名な歎異抄についての分かりやすい解説本。元々歎異抄には興味があったのだが、原本はおろか、解説本にも手をつけられずにいた。この本を読んでみて、なるほど不思議な本だと思った。
仏教といえば厳しい修行を積み、ストイックで心の清い人が救われるというイメージをぶっ壊した本といえるだろうか。
まず親鸞の教えでは、「人間は生まれながらに煩悩だらけの悪人である」という事を前提にしている。そして阿弥陀仏はそのような悪人こそを救うという。ただしこの本では積極的に悪事を働く事を薦めているわけではない。
『歎異抄』は多くの悩みを抱えて生きる現代人にも訴えかけてくるものがあるだろう。 -
読まないことには生きていけない気がする。
-
親鸞の教えが記された「歎異抄」について、簡単な紹介に続けて、五木寛之氏自身の現代語訳(私訳)と原文が掲載され、別の現代語訳を著した人との対談で締めくくられている。名前だけは聞いた事がある歎異抄であるが、「抄」と付くだけあって、予想以上に短く文章で、サラッと読み進んでしまった。しかしながら、中身をちゃんと味わうには、もっとじっくり取組まなければ駄目なようだ。親鸞の教えの解説でもなく、歎異抄そのものの研究書でもない、私訳かメインの本なので、解釈は読み手に委ねられている。
-
タイトルから想像するほど専門的に『歎異抄』に迫っているわけではなく、序文・私訳・原文・対談の構成でアッサリしています。
私訳があるので古文表現で躓く事なく読めます。
入門書としては最適だと思います。