第十六代徳川家達――その後の徳川家と近代日本(祥伝社新書296)

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  • 祥伝社
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  • / ISBN・EAN: 9784396112967

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  • 冒頭の系図をみると、津田梅子とは1歳ちがいの従妹同士。お互いの母が姉妹。母竹子は幕臣津田栄七の娘で同じ幕臣高井家の養女となり田安家慶頼の側室となる。竹子の実妹初子が婿養子をとり津田家を継ぎ梅子を生む。津田英学塾新築落成式には家達は主賓として招かれている。


    メモ
    1863(文久3)7.11 田安慶頼の三男として江戸で誕生
    1865(元治2)2.4(2才)兄の死により田安徳川家を相続
    1867(慶応3)<大政奉還>
    1868(慶応1)閏4.29(5才) 慶喜の跡を継ぎ徳川宗家を相続
           5.24 駿河府中70万石を下賜
           8.15 駿府に到着
    1868(明治元)11.18(5才)中将・従三位に叙。
    1869(明治2)(6才)<版籍奉還>
           6.17 版籍奉還により、静岡藩知事に任命。
    1870(明治3)4.2(7才)領内西部巡見
           4.20   領内東部巡見
    1871(明治4)<廃藩置県>
           8.28(8才)廃藩置県を受け、静岡から東京へ移住。
    1877(明治10)<西南戦争>
           6.13(14才)イギリス留学。
    1882(明治15)10.19(19才)イギリスから帰国
            11.16(19才)近衛忠房の長女泰子と結婚
    1884(明治17)7.7(21才)公爵を授けられる。
    1887(明治20)10.31(24才)千駄ヶ谷の邸宅に明治天皇が行幸
    1888(明治21)10.20(25才)静岡県を訪問。静岡県士族子弟学資として5000円と地所を寄付
    1889(明治22)<大日本帝国憲法発布>
    1890(明治23)10月(27才)貴族院議員となる
    1903(明治36)12.4(40才)貴族院議長となる
    1914(大正3)3.29(51才)山本権兵衛内閣総辞職により、後継組閣の内命を受けるが拝辞する。
    1917(大正6)10月(54才)静岡育英会総裁に就任
    1921(大正10)9.27(58才)ワシントン会議の全権委員に任命される
    1929(昭和4)(66才)日本赤十字社社長に任命
    1930(昭和5)(67才)ロンドン海軍軍縮会議に出席
    1933(昭和8)6.9(70才)貴族院議長を辞任。
    1936(昭和11)12.24(73才)第12回東京オリンピック東京大会組織委員会会長に就任
    1937(昭和12)7.7(74才)紀元二千六百年奉祝会会長に就任
       <日中戦争>
    1938(昭和13)5.1(75才)家名相続70周年式典を開催
            5.21赤十字国際会議(ロンドン)に出席のため出発するも発病し帰国
    1940(昭和15)6.5(76才)死去

    <慶喜との関係>
     慶喜とは年齢差26才。「慶喜は徳川を滅ぼした人、私は徳川を立てた人」と語った。版籍奉還により東京に行った際には、小川町の旧静岡藩邸や牛込戸山の旧尾張藩下屋敷などを経て、1871年(明治5)、赤坂福吉町の屋敷(元人吉藩邸)に住む。購入代金は3800両(勝海舟全集)敷地の別棟には天璋院、本寿院(13代家定実母)、実成院(14代家茂実母)も侍女たちと住んだ。慶喜ぎらいの天璋院の影響もあり慶喜に対し冷たい態度をとっていた。勝海舟は慶喜に冷たい態度をとる家達を危ぶみつつ、慶喜には謙虚な姿勢を取り続けることを要求していた。しかし慶喜も公爵に叙せられ(1902明治35~同時に慶喜家創立)、両公爵家が並立したこともあり、やがて時間が解決していくこととなる。
     家どうしとしてはけっして不和だったわけではなく、静岡にいる慶喜の子女を東京の邸宅に引き取り、華族女学校に通わせた。また分家して男爵家をたてた四男厚の家を千駄ヶ谷の敷地内に構えさせてもいる。

     また勝は家達には表立った政治活動は控えるよう要求した。徳川家の当主たるもの、つまらない公職につかないで、いざ国家の一大事というような時にこそ命を投げ出すような役割を果たすべき、と家達にアドバイスしていた。

    昭和8年8月から9年4月に自費で欧米に渡航し、各国の赤十字社を訪問し東京大会開催を説く。その時の写真が「週間国際写真新聞」代56号表紙では、子家正、孫豊子とともに、ゲーリー・クーパーと共にうつる。

    少年時代のロンドン留学ではロンドン郊外のコーナー婦人方に寄留し、テーラー・ジョーンズ経営のシドナム・カレッジに入学。(私塾のようなものだったとある)

    2012.10.10初版第1刷 図書館

  • 渋沢栄一の青天を衝けで明治以降の徳川家及び旧幕臣の状況が出てたが、徳川家達はほとんど出てこなかった。
    基本的には本人を取り巻く徳川家の状況の解説という風に感じました。総理大臣になっていればどうなってたか。おそらくお飾りだったのではと思いました。人物伝としては物足りなさを感じました。

  • 活字大きめですぐ読める「十六代様」伝。
    「最後の将軍」のキャッチフレーズの威光と言おうか、大河ドラマはやっぱすごいと言うべきか、従来は慶喜のほうが断然有名だった。となると立場的に相容れず、また個人的にもあまりしっくりいっていなかったというこの人が、なんとなく「悪役」っぽくなってしまっていたところはあったと思う(顔がまたコワいし)。
    そのへんのバイアスを緩和してくれる意味で、このような本の存在意義はけして小さくはないだろう。

    著者みずから言うように直筆の日記などを参照できたわけではないので、どうしても「公式記録」的というか、家達その人のキャラクターや肉声が伝わってくるようなものではない。しかし、歿後70年も過ぎた世にあって、できるだけを尽くした力作であることは伝わってくる。
    というか、6歳で「明治維新の尻ぬぐい」のスケープゴート(であろう、実のところ。この年齢であれば)に立たされ、家族にとってさえまず何より「謹厳な家長」であったというこの人は、キャラや肉声などというものを表に出さない「最後の貴人」だったのではあるまいか。現代の我々が「戦前」と聞いて漠然と想起するような断絶や「おっかなさ」を、ちょうど大正昭和期の人たちは、「御一新前」に対して覚えていたのではあるまいか。御簾1枚を隔てたように描き出される家達の「実像」に、ふとそんな思いを抱いた。

    2015/8/20~8/21読了

  • 慶喜の養子として徳川宗家16代の家達(いえさと)という人物は、1903年から30年間、貴族院議長として大きな存在感を持ち、1914年には組閣の内命を拝辞し、1922年にワシントン条約の日本全権を務めたなど、徳川は明治から昭和にまで復権して公爵として天皇の藩屏として活躍したというのは灌漑深いものです。慶喜には慶久・厚という実子もいたわけで、田安からの養子が後を継いだということは、朝敵慶喜への懲罰だったのか?朝敵の赦免後は公爵になっているが、この辺りは興味深いところである。

  • いままであまり焦点の当たることのなかった徳川家達の生涯について記載された書籍である。
    本書の記載は、平易かつ簡潔に書かれているので、読みやすいし、記憶に残りやすい。
    著者のセンスの良さを感じる。

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著者プロフィール

1961年静岡県熱海市生まれ。国立歴史民俗博物館・総合大学院教授。文学博士。著書に『旧幕臣の明治維新』『沼津兵学校の研究』『シリーズ藩物語 沼津藩』など多数。

「2017年 『幕末の農兵』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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