ガリツィアのユダヤ人(新装版): ポーランド人とウクライナ人のはざまで

著者 :
  • 人文書院
4.00
  • (1)
  • (0)
  • (1)
  • (0)
  • (0)
本棚登録 : 29
感想 : 3
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784409510933

作品紹介・あらすじ

西ウクライナの古都リヴィウは何を見たのか?

現在は西ウクライナと呼ばれる東ガリツィア。かつてそこでは、ウクライナ人が多数者でありながら、政治的、経済的支配権は少数者のポーランド人が握っていた。ウクライナ人とポーランド人のはざまにあって、彼らに嫌われる原因となる事柄がしばしば生き抜くための唯一の選択肢であったユダヤ人。やがてこの地でウクライナ人の民族独立運動が立ち上がり、スターリンのソ連とヒトラーのドイツが衝突するなかで、ユダヤ人はいかなる運命をたどったのか。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • ブルーノ・シュルツ――揺らぐ国境の町で(2) - ギャラリーと図書室の一隅で
    https://blog.goo.ne.jp/fumi9076/e/694cee0813807e9d9cb682155b2574ed

    佐藤優の読書ノート---黒川祐次著『物語 ウクライナの歴史――ヨーロッパ最後の大国』(佐藤 優) | 現代ビジネス | 講談社(2014.4.6)
    https://gendai.ismedia.jp/articles/-/38829

    ガリツィアのユダヤ人[新装版] - 株式会社 人文書院
    http://www.jimbunshoin.co.jp/book/b604992.html
    http://www.jimbunshoin.co.jp/book/b66790.html

  • ガリツィアと言われても日本に住む者にはピンと来ないが、ガリツィアとは現在のウクライナの西部でリヴィウ(リビウ、レンベルク)を中心とした一帯を指している。東欧(スラブ人、ルーシ人)の歴史を知るとき、ユダヤ人との歴史は切っても切れない。ウクライナ(とポーランド)は、それこそユダヤ人と共に歩んできており、ユダヤ人視点から眺めると、ウクライナの民族主義の高まりや共和国成立を経て、第2次世界大戦後のウクライナの歴史うねりが客観的によく理解できる。
    そして、ウクライナ西側はかつてはポーランドに治められていたが、その時代より近代化の要となったのがユダヤ人たちの働きであり、ウクライナの民族主義もポーランドとユダヤ人との確執から醸成されてきたと言っても過言ではない。

    さかのぼること1095年から始まる十字軍の時代。ムスリム達への十字軍討伐の正にとばっちりを受ける形で、欧州のユダヤ人たちは迫害される。そんな中で1264年のポーランドでは 「ユダヤ人の自由に関する一般教書」(カリッシュ法)が発布され、以降ポーランド王はユダヤ人を直接保護をすることになる。王の直接の支配下にユダヤ人をおいて、その才能を重用し、国家繁栄に生かそうとしたわけだ。その後も14世紀のペストの流行で迫害を受けたユダヤ人をもポーランドは受入れており、ポーランドには多くのユダヤ人が移住してくるようになった。

    16世紀になるとバルト海貿易でポーランドの港町グダニスク(ダンツィヒ)はたいそう栄えた。そのバルト海貿易を支えたのは、ウクライナの豊かな土壌にあった。西ヨーロッパでは急増する人口故に穀物が大量に必要になり、それに応えるのがポーランドの土地と作物、続いてウクライナの土地と作物となったのである。

    そこで、ポーランドの貴族達がウクライナに進出し、未開であったウクライナの土地の開墾に着手し始める。その際に、ポーランド貴族の手下として農民の管理を含め、経済運営の一切合切を一手に引き受けたのがユダヤ人たちであった。その規模は「ユダヤ人を持たない貴族は半人前」と言われるほどで、両者の関係はとても密接。徴税や収穫した穀物の売買はもちろんユダヤ人たちの専売特許であったし、それ以外にもユダヤ人内で分業がなされており、貴族の館の管理まで任される便利屋ユダヤ人までいたと言う。
    つまり、ポーランドの権力者たちは、西ヨーロッパへの穀物輸出という主要産業から身の回りの世話まですべてをユダヤ人に任せていたことになる。

    一方、こうした汗をかかずに中間搾取を行なうユダヤ人を、ウクライナに住む農民たちが憎むことになったのは当然のことである。農民たちのほとんどはルーシ人、すなわちウクライナに古来から住むスラブ民族(現在のウクライナ人)である。彼等からしてみれば、ユダヤ人がポーランド人の手先となって、自分たちを農奴として扱い、収奪をするのだから、おもしろくないことこの上なかったろう。
    この時のポーランドを示す有名な言葉「貴族の天国、ユダヤ人の楽園、農民の地獄」の始まりである。

    更にその後の歴史の流れにおいて、穀物の輸出減がウクライナの人々に追い打ちをかける。17世紀半ばより西ヨーロッパは穀物を自給できるようになり、ポーランドからの輸出も激減する。この収入減の苦境からポーランド貴族は追い込まれ、更に農民に厳しく接し、鉛を吹き付けた棍棒で農民を痛めつけるなどして酷使したとある。

    また、貴族たちは足りない収入を補う為に、貴族が独占権を持つ酒の製造と販売に手を染める。これによって農民は更に少ない所得を吸い上げられ、困窮度は増すばかりであった。
    中でもウクライナ地域では、酒の製造が顕著におこなわれた。なぜならバルト海から遠く輸送コストがかさむウクライナでは、酒の製造販売によって穀物出荷の穴埋めをするしかなかったためである。その比率も3~7割と本業そっちのけで多かったらしい。更に悪いことに、この酒場の運営を貴族たちはユダヤ人に任せた。その際、ユダヤ人たちは農民への酒の販売だけでなく、農民への金貸しとしても活躍した。

    そんな中で、1648年のコサックの反乱(フメリニツキーの乱)がおきる。軍事的共同体であるコサックたちに、農民達も加勢し、この反乱は大規模であった。この反乱によって、当時大国であったポーランド(ポーランド・リトアニア共和国)を衰退させ、ウクライナ独立(ヘーチマン国家)の契機となる。そして、この反乱時にユダヤ人は10万人以上が殺され、この地帯のユダヤ社会は大打撃を受けた。

    しかし、この独立は短命で、1686年 永遠平和条約(グジムフトフスキ条約)で、再びロシアとポーランド(+リトアニア)とでウクライナは分割されてしまう。その後1772年、今度はポーランドがドイツ、オーストリア、ロシアに分割されてしまい、ポーランド自体が消滅してしまう。そこでガリツィア地方はポーランド支配からオーストリア支配(ハプスブルク家)に移行した。その際にガリツィアを見たオーストリアの驚愕した記録がウクライナの惨状を物語っている。

    首都リヴィウは言葉に絶するほど荒んでおり、生ける肉体と化した農民とおびただしい数の貧困にあえぐユダヤ人ばかりである。特にユダヤ人は犯罪や卑しい仕事を担う者も多かった。

    そこでオーストリアは、ユダヤ人だけに対して諸権利を奪い、重い税を課して、同地から追放を試みる気運が生まれる。しかしながら、経済運営を担うユダヤ人を急速に追い払うことは不可能であり、表向きは寛容を装いながら、ヘブライ語、イディッシュ語を禁じ、ドイツ語をユダヤ人に強いるなど締め付けを強化していった。

    かつてのポーランド王から受けたような後ろ盾を失っているユダヤ人は、これ以降、権力に対して政治的に中立の立場をとろうとしたり、なるべく強い者(権力のある者)の側につこうとする。一方、ウクライナ人は再びの独立を狙い、民族主義色をますます強めていった。

    ロシア革命によってロシアは体制が変わり、続いて第1次世界大戦が終わりハプスブルク家の体制は崩壊し、ドイツでも革命がおこる。その結果、1918年に分割されていたポーランドが復活する。この時、ポーランドとウクライナとの間で再び紛争が起こり、そのどちら側にもつかなかったユダヤ人は1918年のリヴィウにおいて酷いポグロムに遭う。ポーランドにもウクライナにも肩入れしない中立の立場をユダヤ人はとったが、どっちつかずの態度は相手から誤解を受けやすい、この時ポーランドは、ユダヤ人がウクライナに協力をしていると見なしてユダヤ人を虐殺している。

    この後、ウクライナに対してソ連も食指を動かす、新しいソ連とポーランドが争った結果、ウクライナ東部はソ連のウクライナ・ソビエト社会主義共和国へ、ウクライナ西部はポーランドの傘下となる。そして、ほどなく第2次世界大戦となり、ナチスドイツに占領されたポーランドはウクライナ西部をもソ連に譲ることになる。

    この時、ユダヤ人たちにとってソ連とは、反ユダヤ主義のドイツやポーランドから守ってくれる立場でもあり、ソ連に協力すらした。そんなソ連の支配下のリヴィウでは、ウクライナ人がユダヤ人に対して反感をつのらせていくのは当然のことだった。

    1941年にはナチスドイツは不可侵条約を破ってソ連に侵攻する。つかの間の間ソ連の支配下にあったリヴィウもドイツ軍に占領される。ソ連は退却時にリヴィウの刑務所で数千人の囚人を処刑した。ウクライナ人は、この処刑を口実にして、ソ連に協力的であったとしてユダヤ人を虐殺する。これがリヴィウでの二度目の大きなポグロムである。

    昨今のウクライナでも歴史修正主義的に英雄視し持ち上げられている人物バンデラ(Stepan Bandera)が、この時に登場する。ウクライナの民族主義者は機を狙って勢力を増していたが、この時のリヴィウのポグロムでそれが爆発した。バンデラの率いる民族主義者が5,000人以上のユダヤ人の処刑を行ったのだ。

    こういった排外主義は、第二次世界大戦後の国境の再設定とあいまってウクライナとポーランドの民族構成に大きな影響を及ぼした。ナチスドイツのホロコースト、ポーランドやウクライナのポグロムによってユダヤ人は各国から一掃され、あわせて国境の再設定により民族移動がなされ、ポーランドからはドイツ人が、ウクライナからはポーランド人がいなくなった。そして、ポーランドもウクライナも同国人の割合が極端に高くなっている。

    多民族によって形成される国が多いヨーロッパで、このウクライナとポーランドの特異な状況は極めて稀であり、第2次世界大戦前後で急速に人口構成が変化したことがこの本からわかる。また、ウクライナの民族主義の高まりと強固さ、そして今でも民族意識が強烈であることは、長い歴史を通じて培われてきたことであることがこの書籍「ガリツィアのユダヤ人」から理解できた。

    農民の国ウクライナは、ポーランド、オーストラリア(ハプスブルク)、ロシア(ソ連)と大国支配に相次いで悩まされ続けてきており、その都度、民族の結束を求められてきたことが、ある意味ユダヤ人という第三の視点で明らかにされる興味深い書籍である。

    <ウクライナ関係書籍紹介>
    https://jtaniguchi.com/books-recommended-ukraine/
    <その他の書籍紹介>
    https://jtaniguchi.com/tag/%e6%9b%b8%e7%b1%8d%e7%b4%b9%e4%bb%8b/

  • 女子栄養大学図書館OPAC▼ https://opac.eiyo.ac.jp/detail?bbid=2000058155

全3件中 1 - 3件を表示

著者プロフィール

野村 真理(のむら・まり)
1953年生まれ。一橋大学社会学研究科博士課程単位取得退学。現在、金沢大学名誉教授。社会学博士。専攻は社会思想史・社会史。著書に『西欧とユダヤのはざま―近代ドイツ・ユダヤ人問題』(南窓社、1992)、『ウイーンのユダヤ人―19世紀末からホロコースト前夜まで』(御茶ノ水書房、1999、日本学士院賞受賞)、『ガリツィアのユダヤ人―ポーランド人とウクライナ人のはざまで』(人文書院、2008)、『ホロコースト後のユダヤ人―約束の土地は何処か』(世界思想社、2012)、など。

「2022年 『ガリツィアのユダヤ人(新装版)』 で使われていた紹介文から引用しています。」

野村真理の作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
アントニオ・G・...
ヴィトルト・ピレ...
ヴィクトール・E...
有効な右矢印 無効な右矢印
  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×