近代日本の創業者100人 (ビッグマンスペシャル)

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  • 世界文化社
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  • Amazon.co.jp ・本 (100ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784418111213

感想・レビュー・書評

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    100人の創業者

  • 100人もの創業者を一冊にまとめた本ってあんまりないんだけど、コンパクトにうまくまとめてある。ムックらしく人物や商品の写真が満載で昔のイメージがわくのも〇。

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    所在記号:332.8||キン
    登録番号:20098786
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  • 「トマトを日本の人気者に育て、ケチャップの“カゴメ”を興した一太郎の話」

    トマトが日本の食卓に上るようになったのは、実はここ100年ほどの話。そのきっかけを作ったのは、愛知県の一太郎なる青年。時は明治時代。その彼がトマトケチャップやトマトソースの一大メーカー“カゴメ”を作り、トマトを日本の人気者に育てたのです。さて、その始まりの物語とは。

     * * *

    愛知県の農家に生まれた蟹江一太郎(かにえ・いちたろう:1875~1971)は、軍隊に入隊していた際、上官から西洋野菜の栽培をするよう勧められる。

    24歳の一太郎はその言葉を信じ、1899年(明治32)、当時珍しかった西洋野菜の栽培を開始した。成果は徐々に出始め、順調に収穫を伸ばしたが、唯一トマトだけはうまくいかなかった。しかし彼はあきらめずに研究を重ね、3年後には収穫量を飛躍的に上昇させた。

    だが当時、トマトをそのまま食べる習慣は定着しておらず売り上げはなかなか伸びない。そこで一太郎は海外から輸入されていたトマトソースを研究し、海外のものに負けない製品が完成すると、1903年(明治36)から自宅にてトマトソースを加工・出荷した。

    それから11年後に、愛知トマトソース製造合資会社(せいぞうごうしがいしゃ)を設立。これがカゴメ株式会社の始まりである。

    その後はトマト加工のノウハウを生かしトマトケチャップやトマトジュースなどのヒット商品を製造。以後、トマト加工の第一人者として今なお圧倒的なシェアを誇っている。

    一太郎の生家では米・麦作と養蚕を行っていたが、一太郎は効率性などを考え養蚕を徐々に減らし、西洋野菜に切り替えた。彼に農業を教えた養父・甚之助の協力も大きかったという。

    ~『近代日本の創業者100人』より

     * * *

    トマトもトマトソースも、一太郎の不屈の精神が生んだロングセラー商品。長く愛され、食卓の馴染みの顔となったのも、彼の熱意の賜物なのかもしれませんね。


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    「息子の病気がきっかけで生まれた“グリコ”のキャラメル」

    キャラメルやチョコレート、ポッキーなどを発売している食品メーカー「グリコ」。その創業は1921年。いまや一大メーカーとなったその始まりは、ある研究者の息子の病気がきっかけでした。

     * * *

    1920年(大正9)、絶望の淵に立つ男がいた。8歳の息子がチフスにかかり、医者にさじを投げられたのである。医者に相談し祈るような思いで、研究していた栄養エキスを箸(はし)の先につけて息子の口に入れた。すると息子は徐々に回復し、なんと一命を取り留めた。

    男の名は、江崎利一(えざき・りいち)。そしてこのエキスこそ、「グリコ」の由来となった栄養素・グリコーゲンである。

    江崎がグリコーゲンと出合ったのはこの前年のこと。偶然通りかかった河原で、漁師たちがカキをむいては鉄鍋に放り込んでいた。その度にあふれ落ちる煮汁を見て、江崎は「世界的に称揚(しょうよう)されているグリコーゲンは日本の貝類、とくにカキに多く含まれる」という記事を思い出す。漁師にわけてもらった煮汁からは予想通りグリコーゲンが抽出された。

    自身の経験から、育ち盛りの子供たちにグリコーゲンを摂取してほしいと願った江崎は菓子を媒体にすることを思いつく。菓子といえばキャラメルという時代。グリコーゲン入りキャラメル「グリコ」の試作に励んだ。

    他社との差別化のため、形はハート形に決めた。ハートは人体の中心であり、真心を表すもの。栄養菓子「グリコ」の象徴にぴったりだった。また、丸みをおびた形のほうが幼児もなめやすいだろうと考えたのだ。1921年(大正10)、江崎は一家で大阪へ移り、「江崎商店」を設立した。

    トレードマーク(※男性が両手を上げて走るポーズのこと)は「スポーツこそ健康への近道であり、ゴールインの姿はその象徴」との考えから採用された。

    ~ 日本史100人ファイル『近代日本の創業者100人』江崎商店(江崎グリコ)より

     * * *

    大阪・心斎橋にあるグリコの看板が有名ですが、なぜゴールインした男性の姿がトレードマークなのか不思議に思われていたかたも多いと思います。ですが、こうして企業が始まった経緯を知ると、あの姿が採用された背景もわかる気がしますね。


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    「経営の神様・松下幸之助の、小さな小さな最初の一歩とは」

    「千里の道も一歩から」「ローマは一日にしてならず」と古くからのことわざにもありますが、経営の神様・松下幸之助もそれは同じでした。今や世界に名だたる一大企業となったパナソニックですが、その始まりは私たちにも身近な小さなひとつの仕事からでした。

    * * *

    松下幸之助(まつした・こうのすけ)といえば、新型ソケットの成功が有名だが、じつはそれ以前に、まさに松下の命を救ったともいえる商品がある。それは扇風機の碍盤(がいばん:スイッチを取り付ける絶縁体)だ。

    独立後に着手した新型ソケットの開発は苦労の連続だった。まず、機械設備があまりに整っていなかった。会社設立に用意できた金では、必要な機械すら購入できなかったのだ。また材料となる煉物(ねりもの)の製法がわからなかったために、煉物工場を訪ね歩いて原料のかけらを拾い、研究する日々が続いた。すべてが手探りであった。

    4か月の苦心の末、新型ソケット開発がようやく成功して意気も高らかに営業に励んだものの、いつまでたっても商品はまったく売れない。このままでは会社が立ち行かなくなるというところまで追い込まれたとき、偶然にも扇風機の碍盤製造の注文が入った。それも、1000個という数。

    松下はこの会社の命運をかけた商品の製造に全力を注いだ。設備も不十分な作業場で、型押しなど力作業は松下が一人ですべて行った。努力の甲斐(かい)もあり完納すると、80円の利益となった上に、碍盤の出来(でき)の良さから、追加で2000個という大量の受注に繋(つな)がった。

    松下はこれで一息つくことができ、本来目指していた電気器具開発を進めるため、1917年(大正6)、大阪市北区に松下電器具製作所(まつしたでんききぐせいさくしょ)を創業。第一号の電気器具は「アタッチメントプラグ」で、古電球の口金を利用したものであった。

    「アタチン」と呼ばれたこの斬新(ざんしん)な製品をはじめ、「2灯用差し込みプラグ」、「砲弾型電池ランプ」などのヒット商品を生み出した。この頃になると周囲からは「松下電器は新しいものを生み出す」と評判になり、注文も増えていった。さらには電池製造にも進出。総合家電メーカーとしての松下王国の基盤を着実に築いていったのだ。

    松下が成功した要因はいくつもあるだろうが、窮地(きゅうち)にあったときに大量の碍盤を受注できたことなど、運の強さもその理由のひとつであろう。
    ※松下が開発した自転車用の砲弾型電池ランプは、他社製品と比べて、約10倍の30時間から40時間も使えた。

    ~日本史100人ファイル『近代日本の創業者100人』より

    ⇒ 扇風機の碍盤
    ※パナソニック公式サイト「松下幸之助の生涯:23. 扇風機の碍盤を受注 1917年(大正6年)」

    * * *

    現在のパナソニックという企業の繁栄を見ると、途方もないその規模の大きさに圧倒されます。ですが、どんな企業も、ひとりの人間が心に抱いた思いと、ひとつの事業から始まっているのですよね。それを大きくするのも、またその逆も、その人次第というわけで。

    さて、本日は月曜日。新しい気持ちで仕事を始めるあなたの心に、どんな思いが湧き起こりましたか。

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著者プロフィール

なし

「2020年 『築地と豊洲 「市場移転問題」という名のブラックボックスを開封する』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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