- Amazon.co.jp ・本 (255ページ)
- / ISBN・EAN: 9784423196083
感想・レビュー・書評
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「今こそ来たれ、火よ!」で始まるヘルダーリンの讃歌『イスター』に、ハイデガーが注解を施す1942年の講義録が元となった全集の著作の一つです。
ヘルダーリンの詩を通じて、いかにして人間が故郷をえて住まうに至るのか、また住まうとはどういうことかを究明します。詩と哲学の交差の真骨頂。
第一部 流れの本質を詩作すること
※流れの本質の究明。流れは形而上学的に意味形象風に理解されてはならない。故郷を得て住まうに至るには、異郷への旅立ちが必要。
しかし火(太陽)は毎日来たっているのであって、今こそとはどういうことか。
太陽が昇るという当たり前の毎日は「今こそ」などとその日を特別にするものではない。
日が昇り沈む一つの「今」としてすぐに忘れられるものである。
しかしこの讃歌は冒頭に「今こそ来たれ、火よ」とある。これは詩作することで一つの時を規定し、一つの「今」を特筆する。
「この詩の始めに、突如昇り来たった星のように、そして全てを隈なく照らすかのように、この「今」が言われているのである」p15
「この来るべき火は、日を、それも特定の日を、見えるようにするものである」p13
「来たれ」とは、呼び声である。それはわれらが焦がれまた、われらがこの来たるべき火によって呼ばれている。
呼び声を呼ぶ者らは召された者らであり、その使命とは即ち詩作。特筆されたものを聴き取ることを求める。
讃歌の詩作が流れの本質を詩作するものとなる。遠き流れより来たった者らが建てる。
「ともあれこの川をひとはイスターと呼ぶ」
イスターとはローマ人がつけた名で、ドナウ川の下流を古代のギリシャ人がイストロスと呼んだことにちなむ。
あくまで下流の名前であって、上流は「ダヌービウス」と名づけられた。
しかしヘルダーリンはこの川全体を「イスター」と呼んだ。
「それはさながらドーナウ下流が上流へと、従ってその源泉へと逆に向けられているかのごとくである」p18
流れは人間が地上で住まう場所を規定する。人が何らかの宿泊施設を所有していても、それは住まうことの本質を充足したり基礎付けるわけではない。
住まうとはある滞在を得ることであり、滞在とは滞留であり、時の間である。ここで人間は休らいを見出す。
ヘルダーリンの詩は形而上学的に、意味形象的に解釈されてはならない。形而上学でない以上芸術でもありえない。
形而上学及び芸術はヘルダーリンの詩に、それに相応しい本質を与えるに十分ではない。
時とは流れ、流れそのものが住まう。
第二部 ソフォクレスのアンティゴネーにおける人間のギリシア的解釈
※旅立ち、越え出て行くことが、ヘルダーリンとスポクレースとの間の対話として詳述される。
ソポクレースの悲劇『アンティゴネー』において「人間讃歌」と呼ばれる斉唱部分とヘルダーリンの詩人的対話。
この「人間讃歌」はハイデガーのお気に入りで、講義『形而上学入門』でも取り上げられている。
ヘルダーリンは流れを語ることにおいて、故郷をえて休らうに至る生成を詩作する。
この詩作は異国の詩人たちとの歴史的対話のなかに止まらなければならない。
ソポクレースの合唱歌とヘルダーリンの流れの詩とは、同一のことを詩作している。
しかし二人は同様のものを詩作するのではない。同一のこととは異なるものにおいてのみ真に同一のことであるから。
異なるものとはギリシア人とドイツ人という別個の歴史的人間性にある。
その根拠は、異なる仕方において故郷をえて住まうに至らねばならぬところにある。
第三部 半神としての詩人の本質を詩作するヘルダーリン
※故郷をえて住まうに至ることを究明の継続、ヘルダーリンがいかに河流において半神の本質を詩作したか。
本質的に詩作さるべきものとは何か。それはドイツ人という歴史的人間性が、いかにして休けき故郷をえて住まうに至るかということ。
この「住まう」とは『存在と時間』の内存在(In-Sein)の説明の際に述べられた、存在するとは慣れ親しんだ世界に住む・滞在するという語源解釈に由来する。
もしドイツ人が困難である固有のものを習得し、自由に用いることを学ぶならば、ギリシャ人の神殿といえども及ばぬ聖堂の打ち建てられる日が来ぬとは限らない。
ヘルダーリンのみによって、故郷ならざる有りようと、故郷を得て住まうに至ることとの法則が語られる言葉は来たる。
人間が歴史的であるが故に歴史を持つ。歴史を持つが故に歴史を作ることができる。
詩作とは詩作する精神である。詩作において、歴史の贈り来たされたものが語られ、これによって人間の歴史は、
人間が故郷を得て住まうに至ることへと基礎付けられるのである。
ヘルダーリンは別の詩で
「功績に満ちている。だが詩人の如くに
人間はこの地上に住まうのだ。――」
と歌っている。人間は大地を利用し、耕し、庇護し確保するが、こうした全ては、人間がこの地上に住もうていることの本質根拠には届かないのである。
ヘルダーリンは火に迎えてもらわんがため、異国のものへと旅立つ。いかにして火が異国において神々の静かな輝きとなったか学ぶため。
火を語ることを学ばねばならない。この詩作さるべきものとは何か。ヘルダーリンはこれを「聖なるもの」と名付ける。
讃歌詩作において言われるべきものは、聖なるものである。これは神々を超えて神々自身を規定するところのもの。
そして同時に歴史的人間の住まうことをその本質にもたらすものである。
それゆえかかる詩人は、必然的に神々と人間の中間に立っている。それゆえ半神である。詳細をみるコメント0件をすべて表示