- Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
- / ISBN・EAN: 9784479304210
作品紹介・あらすじ
「昔はよかった」といわれる昭和30年代-戦後復興、高度経済成長、東京オリンピック開幕など、日本の黄金期を思わせるこれらの言葉は、たしかに華々しく聞こえる…。しかし、その栄光の陰で忘れ去られた真実があった!国情、生活、スポーツ、文化、サブカルなど、多方面から100を超える仰天必至のエピソードを紹介。
感想・レビュー・書評
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昭和39年の生まれなので記憶に残っているのは昭和40年の後半あたりからでしょうか。三丁目の夕日シリーズでは、東京タワーが建設されていた元気なころの日本が上手に描かれていましたが、子供ながらに記憶を辿ると、両親はその時代を必死に生きていたような気がします。
会社が休みなのは日曜日だけ、平日は接待なども含めて遅くまで残業、年金も充実していなかったので親に対する仕送りもあったと思います。それでいて周りの家がどんどん、三種の神器を備えていく中、ムリをして買い物をしていたと、今からは想像することができます。新幹線は開通しましたが、当時の車両は座席が狭く、社会人になりたての頃、古い車両に当った時には残念だったのを覚えています。
公害をなんとかしなくてはという運動が始まったばかりで、禁煙や省エネという言葉は無かったと思います。電車の床にはタバコの吸い殻だらけで、電車の中でモノを落とすことはできませんでした。これが昭和40年代の姿なので、これよりさらに10年前はもっと異なった姿なのだろうと予想されます。
そんな私にとって、今までの歴史について興味深い観点から解説をしてくれていた武田氏により、この本が出たので早速読んでみることにしました。三丁目の夕日では、触れられていなかった「意外な真実」は、当時の姿を想像する上でも楽しいものでした。
また、この本を読むことで、今では「ピンク映画」しかつくっていないような映画会社に、有名な俳優さんが所属していた理由(p137)がわかったのは私にとっては収穫でした。
以下は気になったポイントです。
・東京タワー建設以前は、各テレビ局が別々に電波塔を建設していた、この電波塔を一つにまとめようと産経新聞社長(前田氏)が計画をした、但し、東京タワーは展望台を備えているため、建築基準法における建築物とみなされ高さ制限にひっかかり工事が中断されていた。それを郵政大臣に就任した田中角栄が「工作物である」という解釈をして東京都を説得し工事が再開された(p23)
・戦後の日本はアメリカの管理下にあり、貿易も米ドル建て、昭和24年に緩和されて、英ポンドでも許可されロスチャイルド家がビジネスを始めた(p29)
・弾丸列車計画では、軌道軸幅を広くして昭和15年に決定した、東京~下関間を9時間(大阪間は4時間)で結ぶもので、新幹線開業時と似ている(34)
・青森から上野へむかう集団就職列車は、昭和29-50年(1975)まで毎年春先に走っていた、安い賃金で働いてくれる中卒者たちは中小企業の経営者にとって「金を生むタマゴ」だった、昭和39年の新規中卒者の求人倍率は、男女ともに3倍以上(p39、40)
・昭和37年に就職した年少労働者のうち1年以内に離職した者は、男子で22.9%、女子で16.8%、零細企業になるともっと高い(p44)
・昭和30年には0.9%だったテレビの普及率は、39年には83.0%になっていた、つまり昭和30年代の家庭は、テレビのない世界からある世界に変わった(p52)
・電気自動炊飯器の登場は、誰が炊いても一定の炊き上がりとなるため、米の種類による味比べができるようになり、米の品質向上に役立った(p68)
・スバル360の登場により、自動車が庶民にも手の届くものになった、スバル360は、昭和35-45年の12年間で、約40万台生産された、昭和35年の日本の自動車保有台数が 140万台だった時代なので驚異的(p72)
・昭和38年当時、女性の洋装は 70.1%であったが、世代間で異なっていた、10代では0%、20代では7.3%、50代で 96.3%が和装であった、また寝るときの男性の75%が和装、一方女性は50%であった(p77)
・昭和30年代は、日本人は、野球や水泳、テニス、陸上競技で世界レベルの選手を輩出していた。(p86)
・プロ野球のレギュラーシーズンでの天覧試合は、現在のところ、昭和34.6.25の巨人阪神のみ、9回裏に4-4で長嶋に打順がまわり、逆転ホームランを打った。尚、入団1年目の高卒ルーキーの王もホームランを打っている、その年に7本打ったうちの1本(p93)
・東京オリンピックの女子バレーの、日本ーソ連の決勝戦のテレビ視聴率は、66.8%、この記録は破られていない(p103)
・1963.10の選考会で1万メートルに選ばれた円谷氏は、マラソンを勧めら
れ、昭和39.3の最終選考会で2位となり、マラソン代表となった(p110)
・当時の日本人は、プロレスがショーであることを、ほとんど知らなかった
(p116)
・昭和33年の映画観客動員数は、年間11.2億人、この絶頂期の5年後には、観客が半減するという急落を味わった、徐々にテレビ番組を請負制作するようになる、そこで起死回生の手として、ピンク映画への転向をした(p136)
・昭和39年には、ピンク映画プロダクションは 40社以上、映画館の半分の 2000近くがピンク映画専門官、これは昭和50年代(ビデオの登場)まで続く(p139)
・「上を向いて歩こう」は、アメリカ・ビルボード誌のヒットチャートで1位となった、日本人が日本語で歌った曲がビルボードで1位になったのは初めてで、現在まで唯一、全米レコード協会から、ゴールドディスク賞をもらっている(p149)
・手塚治虫プロダクションでは、アメリカで採用されていたフルアニメーション動画数を、18分の1(1秒に24コマから、1.3コマ)、画像が動くと認識できる最低限の枚数、日本ではこれがスタンダードになった(p159)
・昭和30年代に創刊されたマガジンの創刊号は、全体86ページ中で、マンガは10ページもなかった(p166)
・昭和30年代までは売春は合法、戦前は「公娼(公認された売春婦)」があったが、GHQ指導で廃止、そのかわりに「赤線」制度をつくった、国が定めた赤線地域に国家が公認した売春宿(特殊飲食店)が営業できるもの(p197)
2013年7月13日作成