- Amazon.co.jp ・本 (733ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480020130
感想・レビュー・書評
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古代ギリシアの三大悲劇詩人のひとりエウリピデス(前480?-406?)が物した作品のうち、現存する全19篇を上下巻に収録。彼の生涯は、ソフォクレスとほぼ同時代で、晩年はアテナイ民主制の終末期と重なる。
上巻
アルケスティス
メデイア
ヘラクレスの子供たち
ヒッポリュトス
アンドロマケ
ヘカベ
救いを求める女たち
ヘラクレス
イオン
トロイアの女たち
下巻
エレクトラ
タウリケのイピゲネイア
ヘレネ
フェニキアの女たち
オレステス
バッコスの信女
アウリスのイピゲネイア
レソス
キュクロプス
エウリピデスの作中に登場するギリシアの神々は、人間を超越した力を揮いながらも、その言動や感情は人間臭いところがあり、妙に親しみを覚えてしまうところがある。超越的な存在であるはずの神々が、人間と同水準に降りてきて張り合っているようだ。
「アプロディテ [略]、この世に生を享けて住まう人間のうち、わが神威を怖れうやまうものは栄えさせるが、いやしくもわれに向って思い上った振舞いをいたすものは、ことごとく打ち倒す。神といえど、人間にうやまわれてうれしく思う、そのような情に変りはない」(上巻p203ー204「ヒッポリュトス」)。
しかしエウリピデスも、アイスキュロスやソフォクレスと同じように、人間が自分の知性を恃みに神々によって表象される超越的な価値を蔑ろにするその傲慢を、繰り返し批判している。
「コロス 古来より守り来れる法を越えて/想いを馳せ、事理を探るは正しからず。/神霊の在すを信じ、/幾世を継ぎて法となれるは/本然の理に根差し/真理もまたここに在りと/思えば費え少なからん」(下巻p497「バッコスの信女」)。
「コロス 人間の力をもちて/克ち難き神に克たんと/惑う心の愚かさよ。/ただ死のみ、かかる惑いを匡すべし。/いやしくも神霊に関わることは、抗がわず、/ひたすらに人間のほどを守る、/かくてのみ憂いなき生こそはあれ。/[略]/夜も昼も、心を清く敬虔に持し、/誤れるならいを捨てて、神を敬う。/かくてのみ人みなは/幸ある生を送るべし」(下巻p504ー505同前)。
その一方でエウリピデスは、理不尽な神々への恨み節や呪詛を登場人物に言わせており、しかも作者として彼らの心情に同情を寄せているのではないかと感じられる箇所もある。神々の秩序だけでは人間世界の不条理を繕うことができなくなっていたのだろうか。アテナイ崩壊前夜の過渡期ということで、人心が不安定であったことの現れなのかもしれない。
「ヒッポリュトス ああ、人間の呪いが、神にもかけられたらよいのに」(上巻p272「ヒッポリュトス」)。
「ヒッポリュトス 神の御心に背くまいと、尽くして参りました苦労の数々も、誰のためにもなるのではなし、つまらぬ骨折損でございました」(上巻p269同前)。
「ヘカベ おお、神々よ。――いや今さらなんで神の名をよぶことがあろう、これまで幾たびもその名を呼んで祈ったのに、かつて聴いて下されたことのない神々であるのに」(上巻p701「トロイアの女」)。
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エウリピデスの物語は、登場する女たちが強い印象を残すものが多い。「ヒッポリュトス」や「メデイア」で描かれている、激しい情念に突き動かされた女たちの凄惨な姿は、読む者をぎょっとさせる。不倫の恋や血みどろの復讐譚などは、下世話で通俗的な楽しみ方もできる。俗受けしたからこそ、他の悲劇詩人と比較しても多くの作品が現存しているのかもしれない。
エウリピデスは私生活において二度の結婚の失敗を経験しており、それゆえに女性に対する不信感を募らせていたことが、彼の作品に描かれた女性像に影響を与えている、という説があるらしい。その真偽はともかくとして、一方で、家父長制の抑圧に喘ぐ女たちの悲哀を描く筆は、女が置かれている状況に対して同情的であるようにも読めるが、他方で、女の情念の発現を殊更に不気味なものとして描きあたかも男としての自分の属性から切断して異物化しようとする姿勢は、典型的な女性恐怖=女性嫌悪の現れであるようにも思う。いずれにせよ、そこで描かれている女の苦難やそれに対する男からのミソジニー的な視線は、長い時を経た現代の日本社会においても広く見出される普遍的なものだ。
「メデイア この世に生を享けてものを思う、あらゆるもののうちでいちばんみじめな存在は、わたくしたち女というものです。だいいち、万金を積んで、いわば金で夫を買わねばならないし、あげく、身体を献げて、言いなりにならねばなりません。[略]いい男を掴むか、悪いのにぶつかるか、それが、運命のわかれ路になるのです。離別するということは、女の身には聞こえもよくないし、かといって夫を拒むこともできないのですから。未知の生活習慣の中へ飛び込んで、女というものは、あらかじめ家で教えられてもいず、どうして夫を扱えばいいか、予言者ででもない限り知るすべもないのですし。[略]男の場合には、家の者が面白くなければ、外に出て憂さをはらせますが、わたくしたち女は、ただ一人だけを見つめていねばなりません。女たちは家で安穏な生活を送っているが、男は槍を執って戦に出ねばならないではないか、などと言いますね。大間違いです。一度お産をするくらいなら、三度でも戦場に出るほうがましではありませんか」(上巻p87ー88「メデイア」)。
「メデイア その上に、女と生れた身ではないか、善いことには、まるで力がないくせに、悪いことなら何事にも、いちばん巧みなやり手だという、女と生れた身ではないか」(上巻p94同前)。
「イアソン まったくだ、女なぞこの世にいなくて、どこか別のところから子供が出来るのだとよいのだが。そうすれば、人間には、禍いという禍いがなくなるであろうに」(上巻p102同前)。
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本書を読みながら考えたこと。
性的資源としての女を男に分配するために、家父長制は婚姻制度や性規範などの社会的文化的な装置を張り巡らせて、女たちからその主体性を奪おうとする。女たちが、家父長制の文化に自己を同一化してそれに従属することを強いられる姿(同一化しきれず家父長制の抑圧に苦しむ姿も含まれる)は、男の性的欲望の引き金になる。ここに、女に対する男の性的欲望の実相があるのではないか。
そもそも男は、自分の性的欲望を刺激して自らの理性を翻弄し無化してしまう女の存在を、恐れている。女は男の主体性に対する脅威であり、その意味で男にとって女は敵対的な存在である。そのため男は、女から主体性を奪って以て性的客体に貶め、一方で男の性的主体性を保持したまま、他方で女から性的快楽を(自分と対等な他者と向き合うという緊張を強いられることなく)掠め取ることで、女に対する恐怖を克服し、女への復讐を果たそうとする。男の性的欲望は、「女は男の性的欲望を充足させる為だけの存在である」という、女に対する男の支配を確認する作業それ自体ではないか。つまり、男の性的欲望は、女そのものによって惹き起こされる生理的な欲望であるばかりでなく、男が女を性的に支配しているという事態によって惹き起こされる文化的な欲望なのではないか。
家父長制は、このような女に対する男の支配の装置として、機能している。つまり、男の性的欲望は家父長制に自己を同一化することを強いられる女に対する欲望であり、そこでは家父長制が男の性的欲望を逆規定しているのであるから、その意味では男の性的欲望は男の自己愛となる。男の性的欲望は自閉している。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
時代が降ってきたせいか…構成が複雑になってきているような。
正統的な神話や説話を設定などを変えて独自の筋立てにしていたりする。
身を清くしようと女性を斥けすぎたヒッポリュトスは父の後妻に言い寄ろうとしたと疑われ、父親に呪い殺され、仇敵ヘラクレスの子供たちを殺して未来の安心を確実なものにしようとしたエウリュステウスは滅ぼされる。
やはり、まんなか五十。何事も程々がいいようだ。
トロイア戦争で負けたトロイアの女たちがギリシアに奴隷として連れて行かれる凄まじい不幸を描いた「トロイアの女」が印象に残った。
アルケスティス
メデイア
ヘラクレスの子供たち
ヒッポリュトス
アンドロマケ
ヘカベ
救いを求める女たち
ヘラクレス
イオン
トロイアの女
Mahalo -
お目当てのメディア、すんごい。
でもエウリピデスは女のドロドロした想いを書くの得意だなあと思う。アルケスティスも、ヘカベも。イオンはどちらかというと滑稽もののようで、親子のやりとりを面白おかしく読みました。 -
神、英雄、人それぞれ悲しみもそれぞれで、無常である。正に悲劇だ。2500年近く前の傑作を読めるのはとてもうれしく幸せである。
『メデイア』『ヒッポリュトス』『イオン』『トロイアの女』が特に良かった。 -
文庫で読めるギリシア悲劇には、岩波文庫で幾つかと、ちくま書房の「ギリシア悲劇」シリーズがある。ちくまのシリーズは、現存する全作品が文庫4冊に収録されているので、がっつり読みたいときにはとても便利(岩波も「オイディプス王」などは名訳中の名訳なので捨てがたい)。
今回読んだのは第3集エウリピデス。エウリピデスの作品で最も有名なのはやはり「メディア」だろう。
一人の女の復讐譚。夫に裏切られたメディアが、その復讐のために我が子を手にかける過程が描かれる。嫉妬と怨みとにかられたメディアは、夫に対する復讐を画策する。そして取られたのが、自らと夫との間に生まれ育った子供を殺めるという非情な手段。子供とは男にとって自らの家系を未来へと繋ぐ役割を担う存在であり、それだけに極めて大切な存在であった。だから、大切な後継たる子供を殺すということは、夫に対する最大級の復讐だといえる。
しかしそうは言っても、メディアの心は揺れ動く。我が子を手にかけることの罪悪をメディアも十分に自覚ししばしば躊躇う。しかし最後には自らの復讐を優先させ、我が子を自らの手で殺害する。そして、その子供の死体を夫の前に晒し、メディアは去っていく。
この作品はしばしばジェンダーの視点から論じられることがある。確かに、家父長制的な男性優位社会とそこでの女の惨めな取り扱いとへの異議申し立てとして読むこともできる。しかし、それはあまりに現代的な視点からの読みに過ぎる気がする。そう読める、というだけであり、それ以上のものはない。やはりここは純粋に、徹底した情念の物語として読むほうがいいんじゃないか。
「オイディプス王」や「アンティゴネ」などソポクレスの作品に特に顕著だと思うのだけど、一般にギリシア悲劇は知性や理性に重きを置いた作品が多い。神と人、古来の価値観と新しい価値観、さまざまな対立軸はあるが、それらがよって立つのが知性であり、対立の解消もまた知性によってなされる。どの作品にも知性に対する信頼がある。しかし、「メディア」に限っていえば、メディアの情念は知性に優越する。すべての原動力は夫への怨みであり復讐心である。そうした情念の優位性というのは、古代ギリシアでも現代でも変わらない。エウリピデスから25世紀を経た現代でも、情念は人を突き動かす。この時代を超えた普遍性があるからこそ、現代まで 残ったのだろう。 -
真実に背を向けるべからず
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[内容]
エウリピデス著:アルケスティス/メデイア/ヘラクレスの子供たち/ヒッポリュトス/アンドロマケ/ヘカベ/救いを求める女たち/ヘラクレス/イオン/トロイアの女 -
¥105