日本語文法の謎を解く: ある日本語とする英語 (ちくま新書 383)
- 筑摩書房 (2003年1月1日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (189ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480059833
作品紹介・あらすじ
日本語教師にとって一番の問題は何か。それは西洋語と日本語の根本的な発想・世界観の違いがどの文法書にも記述されていないことだ。日本語の学校文法は西洋語、特に英文法を下敷きにしているからである。本書はそれと反対の方向で「日本語に即した、借り物でない文法」を提唱する。
感想・レビュー・書評
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前掲の「差がつく読書」で紹介されていた本。不勉強で三上文法知りませんでしたが、かなり説得力ありました。「ある」日本語と「する」英語の対比もわかりやすい。
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浅学なので違うかもしれないけど画期的で新たな指摘だと思う。「ある」と「する」ね、なるほどねと頷いた。
ただいかんせん癖のある筆者のようで読みにくい。 -
ある日本語
する英語
好きではない
youとIは相互排他的
行為者不在文のおおさと格助詞「が」
ら抜き言葉ではなく、子音抜き言葉
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アメリカでジョージ・ブッシュ山は可能性があり得る、日本で吉田茂山はあり得ない、との事。文化の差って面白い。
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非常に参考になったので各章まとめをメモ
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久しぶりに読み直した。英語上達の鍵は、発声法と発想法。"I see Mt. Fuji."と「富士山が見える。」の違いは、「する」英語と「ある」日本語の違い。人と動作に着目し、人が何を「する」かを表現する英語では、人称代名詞と所有形容詞が発達し、動詞"do"が活躍する。空間と状態に着目し、何がどう「ある」かを表現する日本語では、整然とした「こそあど」の体系が発達し、尊敬表現を含むさまざまな場面で動詞「ある」が活躍する。かつて「像は鼻が長い。」、「ぼくはウナギだ。」、「コンニャクは太らない。」を文法的にどう説明するかが問題とされたが、いずれも疑似問題にすぎない。日本語の文は、スーパー助詞「は」が表す主題の後に、名詞文(例:好きだ。)、形容詞文(例:楽しい。)、動詞文(例:笑った。)という3種類の基本文が並ぶ「盆栽型」であることを理解すれば、日本語の文として成り立つことに何の不思議もない。主語と述語動詞と結びついて「クリスマスツリー型」の文を作る英語の文法を、主格補語はあるが主語(という概念そのもの)が不要な日本語に当てはめたことが、そもそもの間違い。2003年1月20日第1刷発行。定価(本体価格680円+税)。
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人称代名詞と所有形容詞を使って文に人間をちりばめる、と言う英語の特徴はあまりに的確すぎて笑いが止まらなかった。
He took his gun out of his jacket. 彼が三度も出てくる。日本語だと銃を上着から取り出した、て終わり。何冊か読んでいるが、金谷氏の日本語に対する洞察は本当に凄い。長年外国に住んでいるからこそ見えてくるものが多いのかもしれない。 -
英語に代表されるヨーロッパの言語と日本語を比較し、前者が行為者を重視する「する言語」であるのに対し、後者は場所における存在を重視する「ある言語」だという主張を展開している本です。著者はこうした立場にたって、日本語における主語の問題のほか、過去、敬語、受身と使役などの問題に対して明快な答えを提示しています。
同じちくま新書から刊行されている山崎紀美子の『日本語基礎講座―三上文法入門』と同じく、三上文法の一般向けの入門書として読めるように思います。また、「する言語」と「ある言語」の対比に基づいて、日本と英語の文化的な差異にまで議論を及ぼす試みもあり、これも厳密にこうした主張が成り立つのかどうかはさておき、読み物としてはおもしろいと思います。 -
2015/2/7図書館から借りてきた。
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これはおなじ著者の手による『日本語に主語はいらない』で出てきた問題に、多少の彩りを加えたものといえる。新書で手ごろだし、説明もさらに上手になっていると思うが、共通の要素も多い。
とくに重要な「プラス」要素としては、英語と日本語を比較して、前者を「する言語」、後者を「ある言語」と位置づけることから、さまざまな考察がなされている点。
例えば、「I see Mt.Fuji」と「富士山が見える」の違い。英語ではあくまで「I」が主体にあるのに対し、日本語では「富士山」の「見える」という属性を表現している。ここに端的に「する」と「ある」の違いがある。
この「する」と「ある」の刻印は、両国語の実にあちこちに見受けられる。
例えば日本語では場所を示す名詞である「こなた」「そなた」「あなた」が人間を表すことがある。「殿」も「正室」「側室」も「奥さん」も、場所が人に変じている。もとより、「名字」そのものも、地名であったり、村の中での位置関係(お山の入り口だから山口とか、田んぼの中だから田中だとか)がもとになったりしているものが多い。一方、英米では「地名が人名にちなんで名付けられる」という逆の発想がされている。ビクトリア湖もセントルイスもサンフランシスコも人名だ。
過去形の作り方を見てみよう。英語動詞の過去形に添えられる接尾辞[-ed]は、[did]から来ているらしい。killed は「kill-did」であるというのが、まさに「する」言語なのだ。一方、日本語で過去形をつくる「た」は、「殺してあり」→「殺したり」→「殺した」という変化でつくられた。まさに「ある」言語といえよう。
エベレストに初登頂したヒラリーの「そこに山があるから(Because the mountain is there.)」は、その発想が英語的でない、「ある言語」的な発想だからこそ名言となった。反対に、有森裕子の「初めて自分で自分をほめたいと思います」は、日本語的でない、典型的な「する言語」発想である。
という具合に、英語/日本語を比較しながら、文法論が文化論にまで昇華しているのが特徴。言葉が文化をつくるのか、文化が言葉に影響を与えるのか。どちらの要素もあるとは思うが、これも著者が外国で日本語を教えるという経験から、多くのインスピレーションがあったに違いないだろう。
文化論、文明論というと腐るほどあるが、「言葉」に寄り添った考察としておもしろく読める。より「日本語文法」を詳しく知りたい人には前著を、英語と比較しての日本語論に興味がある人はこっちを、というふうにすすめたい。