- Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480072344
作品紹介・あらすじ
日本人の99%はなぜキリスト教を信じないのか? 宣教師たちの言動、日本人のキリスト教への眼差しを糸口に固定観念を問い直す。
感想・レビュー・書評
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わたしはイエスがわからない。というか宗教がわからない。宗教を「信じる」気持ちがわからない。宗教を信じるひとは、死んだのに生き返ったとか、海を割ったとか、そういう話を本気で「信じて」いるのだろうか? そういう奇跡を起こした(ということになっている)人が言うことだからと、無批判に受け入れて「信じて」いるのだろうか? 不思議でしょうがない。だがそういうことを敬虔な信者に直接根掘り葉掘り聞くと怒られそうなので、本を読む。だが、こういう素朴な疑問に答えてくれる本にはまだ出会っていない。
本書は冒頭で「宗教を信じるとはどういうことなのだろうか。(中略)実は、こういった問いそれ自体が、本書の究極的なテーマである」と謳っている。しかも筆者はキリスト教徒だという。お、これは明確な答えを教えてくれるかも、と期待して読んだ。
前半は有名なフランシスコ・ザビエルも登場する、戦国時代日本への布教の歴史。教科書ではさらっと流されるが、宣教師は貿易の、ひいては武器を持ち込んで武装を強化することで藩同士の戦いに関与する橋頭堡でもあったんだな。
キリスト教は平和主義、博愛主義みたいに言われることがあるが(なんじ右の頬を打たれば左の頬を差し出せ)、キリスト教徒でも殴られてこっちもどうぞ、という人がそうそういるとは思えない。大統領がバイブルに手を置いて宣誓を行うアメリカなんか、しょっちゅう戦争している。それでも彼らがキリスト教徒だとすれば、キリスト教徒の定義にはそうとう幅があると思われる。
いよいよ後半は「信じるとはどういうことか」に触れられていくが、残念ながらここでも明確な答えは出ない。わかったのは、信仰というのは信じる/信じないのどちらかというほど簡単ではない、ということだ。マザー・テレサは書簡の中で「わたくしの信仰はなくなりました」と書いているそうだが、列聖されたほどのマザーテレサすら揺らぐ「信仰」とはどういうものなのか。いよいよわからない。ぼくは正月には近所の神社に初詣に行くし、法事があれば線香の一つも上げるわけだが、それだって至極いい加減な神道信者、仏教徒と言えるのかもしれない。
本書に、各界の有名人に宗教について聞いた本を引用している部分がある。その中で2名、高村薫と立花隆がキリスト教または宗教全体について懐疑的な考えを述べているそうだ。立花隆は「宗教を信じる人ってどこかおかしいんじゃないかと思っています(笑)」という身も蓋もないコメントを残していて、ぼくはそこまでは言わないけど、でも宗教を信じる人の気持ちがわからないのは同じだ。信じる人はどうして信じているのだろう? 信じられるのだろう? キリスト教、または宗教を懐疑的に考えているのが2名だとすれば、残りの人達は宗教を肯定的に考えているということで、読みたいのはむしろそっちだ。と、ここまで考えて気づいた。引用されているこの文章のもとの本を読めばいいんだ。
というわけで、早速「私と宗教」という本を読むことにした。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
著者の石川明人(桃山学院大学准教授)は、とてもよい本を書く。
私が彼の著書を読むのはこれが3冊目だが、過去2冊――『キリスト教と戦争』と『私たち、戦争人間について』は、それぞれ私の年間ベスト5には入る好著であった。
著者の専門は宗教論と戦争論であり、「宗教と戦争」をテーマにした著作が多い。
本書のテーマは書名のとおり「キリスト教と日本人」であるが、やはり随所に「宗教と戦争」をめぐる話が出てくる。
とくに、戦国時代のキリシタン大名を軍事的に支えたのが宣教師たちだった――つまり宣教師たちが積極的に「戦争協力」していた――という話は衝撃的だ。
「あとがき」にはこうある。
《これはキリスト教の入門書ではなく、日本キリスト教史の解説書でもない。本書は、宗教とは何か、信仰とは何か、ということについての、長々とした「問い」そのものだと言ってもいい。》
本書の副題が「宣教史から信仰の本質を問う」であるのは、そうした意図ゆえなのだ。その意図は、第6章「疑う者も、救われる」にいちばんはっきりと示されている。
ただ、そこまでの5章は、「日本キリスト教史の解説書」として読んでも十分有益である。
フランシスコ・ザビエルらによるキリスト教伝来から説き起こし、長いキリシタン弾圧を経て、現代日本におけるキリスト教まで、数百年の歴史が一望できるのだ。日本人とキリスト教をめぐる先行研究にも広く目配りされ、その研究史の概説として読むこともできる。
著者自身もキリスト教徒だそうだが、内容に「護教」的な偏りはない。キリスト教史の暗部についても中立公平に記述しているのだ。それは本書のみならず、過去の著作にも共通する姿勢である。
だが、そうした姿勢ゆえ、著者は他のキリスト教徒から批判されることもあるという。
《キリスト教徒の中には、その宗教に対して懐疑的なことも言う私のような者はキリスト教徒ではないと考える方もいらっしゃるようで、かつて、ある年上の信徒の方から、あなたには信仰がない、と言われたこともある》(16ページ)
敬虔なキリスト教徒からは、そう見える面もあるのかもしれない。が、非キリスト教徒の私から見ると、著者によるキリスト教の暗部への批判は、しごくまっとうである。
たとえば、キリシタン弾圧を紹介するにあたっても、宣教師たちが仏教弾圧も指導した〝加害者〟としての一面を持っていたことを、公平に紹介している。
また、宣教師の中に人格高潔な人もいた一方で、日本人と日本の宗教への蔑視を隠そうともしない傲慢な者もいたことが紹介されている。
くり返し映画化された遠藤周作の『沈黙』など、物語の中のキリシタンと宣教師たちは、もっぱら〝迫害された善良な被害者〟としてのみ描かれてきた。それが一面に偏った像であることを、本書は教えてくれる。
《日本でキリスト教が受け入れられず、過酷な迫害がなされるようになったのは、もっぱら日本人の側の無理解と差別のみが原因というわけではない。キリスト教の側が一方的に純粋な被害者だったのかというと、決してそう単純な話でもないのである。
かつて、ヨーロッパのキリスト教徒たちは、外国に行っては現地の宗教文化を排斥し、壊滅させ、反抗する原住民を虐殺してきた。暴力を用い、経済的に搾取し、同時に宣教師を送り込んで、キリスト教徒を増やしていった。(中略)
しかし、日本はヨーロッパのキリスト教徒による侵略が当たり前だった時代に、それをさせなかった。あるいは、それをされずに済んだ。そのことが日本にキリスト教が広まらなかった理由の全てとは言わないまでも、重要な背景の一部であることは確かである。》(228ページ)
本書は、キリスト教徒が読むと不快な面があるかもしれない。むしろ、非キリスト教徒にとってこそ興味深く読める本である。
第6章「疑う者も、救われる」だけは、全体から見るとやや異質。ここではそこまでの5章分の議論をふまえ、「宗教とは何か、信仰とは何か」という根源的な問いが提起されているのだ。
著者は、《何かを真理だと信じ込んで「疑わないこと」、すなわち「思考の停止」が信仰なのかというと、決してそう単純なものではない》(271ページ)とする。
そして、神学者パウル・ティリッヒの著作をふまえ、次のように書くのだ。
《真剣に真理を探求している限り、懐疑は信仰と矛盾しない。誠実な求道の精神による疑いのみならず、虚無感や絶望による疑い、さらには神に対する呪詛のなかにさえ、「究極的な関心」(=信仰)がありうる。神への「疑い」も、疑いや否定という形でその人の目は依然として神に向けられているからだとされる。宗教批判さえ、逆説的に宗教的でありうる。
つまり、疑う者も、救われるのだ。》(276ページ)
この第6章は、著者のことを「信仰がない」と批判したという、年長のキリスト教徒に向けた反論でもあるのだろう。
「キリスト教と日本人」という切り口から、信仰の本質を真正面から問う力作。 -
ふむ
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戦国時代のキリスト教伝来から、禁教時代を経て明治に入って再び布教に訪れた宣教師たちの様子や、彼らから見たキリスト教に対する日本人の様子、そして実際に日本内外でキリスト教に触れた人々の教えへの姿勢を通し、「信仰とは一体何か?」を探る。
キリスト教から見た日本史が解説されているほか、一般的にキリスト教への〝信仰が篤い〟とされている人々も、神や教えに対して疑問を持つという点が興味深かった。 -
著者は洗礼を受けたキリスト教徒とのことであるが、教会・キリスト教に対して非常に辛辣な分析である。実は16世紀のイエズス会の宣教師たちが人身売買をし、日本人への差別意識(特にカプラル)を持ち、戦争商人としての役割も果たしていた。その頃の日本が軍事大国になったために鎖国をすることができ、それが宣教師の「御陰!」など皮肉っぽいお話だ。そして、幕末以降のキリスト教史、ヘボン(米)、ド・ロ(仏)、ニコライ(露)などの各国の各宗派からの宣教師についての説明が詳しい。山本五十六、井上成美が聖書を精読していたという逸話が面白い。一方で、日本でキリスト教がなぜ普及しないのか?キリシタン禁教の影響もあれば、武士階級⇒知識階級の宗教になったことによる理由なども説得力がある。高村薫、立花隆のキリスト教に対する違和感、嫌悪感の説明もうなずけるところは多かった。宗教とは何か、信じるとは何か、キリスト者が疑うことはあるのか(マザーテレサの場合)など興味深い分析へと書は発展していく。
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膨大な資料をベースにキリスト教を核に宗教、信仰などについて、日本での成り立ちや現状の把握等、一見取りつきにくい問題を、ある程度明快に解き明かした好著だ.ザビエル、トーレス、カブラル、ヴァリニャーノと続く宣教師の行動を克明に辿っているのがよい.キリスト教弾圧の時代でも貿易に活路を見出す大名たちがいたことを記している.1873年に禁教高札撤去があったが、直ぐにキリスト教が広まったのではない理由も詳しく考察している.マザーテレサの葛藤が、信仰という把握が難しい問題の回答になる素晴らしい事例だと感じた.
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本書の目的は、「宗教とはなにか」「信仰とはなにか」という問いを提示すること。
まずは、キリスト教について概略から説明されている。他の宗教と比較し、知っているようでよく知らない、あまり歴史が長くない宗教だということから学んでいく。
それから日本へ伝来し、どのような歴史を辿ったのかを解説。
ザビエル以外にも、フルベッキ、ヘボン、ド・ロ、ニコライなどの宣教師が挙げられており、当時の時代背景からどのような活動を行ったのか知ることができる。
宣教師のなかには日本を見下していた人が多い印象を受けたが、上記の人物たちは、日本語・文化を学び、日本へ多くの良い影響を与えてくれたそうで、感謝しながら読んだ。
特に、日本で50年、日露戦争の間も奮闘し、今も日本の土の中で眠っているニコライのエピソードには胸を打たれるものがあった。
そのニコライは秀吉の伴天連追放令に理解を示しており、キリスト教による侵略が当たり前だった時代にそれをさせなかったと評価していたのが意外であった。
後半は、キリスト教・宗教への様々な意見を引用し、「宗教とはなにか」「信仰とはなにか」といった点を考察している。
感銘を受けたのは、神学者・ティリッヒの「宗教」「信仰」は盲目的になにかを信じることではなく、「自らの存在の意味について“究極的な関心”を抱く」ことだという主張。
これを受けて筆者は、真理を求めている限り、宗教批判でさえ宗教であり、「疑う者も、救われる」と述べているのだが、この一言で、宗教・信仰といった言葉のイメージが広がった気がした。 -
『宣教史から信仰の本質を問う』と副題にある通り、歴史の本です。ザビエルから明治までの、日本におけるキリスト教の歴史が、分かりやすく書かれています。
「日本人を助けてくれる温かな一面を持っていたのは確かであるが、その一方で、時にはかなり面倒でやっかいな存在であったのも事実だと言わざるをえない。」
と著者も書いていますが、日本人は『役に立つかどうか』『ためになるかどうか』という方向性を気にする傾向が強いのでしょう。
さらに、厄介者を放って置けない、ある種の「島国根性」のようなものが根深く、迫害にも繋がったのだと思われます。
個人的に大きな発見だったのは、宗教という言葉が日本には明治になってから入ってきたものであり、それまではそういう概念自体が無かったということです。
恐らくこの『宗教そのものに対する日本人と西洋人の認識のギャップ』が埋まらなかったことも、現状に大きな影響を与えていると思われます。
キリスト教も一つの「道」であり「教え」であり、唯一絶対な完成されたものではなく、究めていくべきものなのでしょう。
私たちが意識を変えることができれば、私たち日本人にも大きな恵みをもたらしてくれるに違いありません。 -
キリスト教が日本で普及しないのは、人工稠密で島国の日本には、内と外を分け、外に対しては厳しい見方をする文化があるためだろう。