創造性はどこからやってくるか ――天然表現の世界 (ちくま新書 1742)

  • 筑摩書房
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感想 : 8
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  • Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480075758

作品紹介・あらすじ

考えてもみなかったアイデアを思いつく。急に何かが降りてくる―。そのとき人間の中で何が起こっているのか。まだ見ぬ世界の〈外部〉を召喚するためのレッスン。

感想・レビュー・書評

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  • さて何から書こうかと考えて、何も書けない(笑)
    けれども本書がすこぶる刺激的な書物だったことだけは確か。おすすめの最近の本を訊かれたら、ぜったいにこれだけは読んだほうがいいと力説したい。

    本書は一言でいえば「創造入門」。
    AIに代表されるような、閉じた知能というものがある。
    そして、その陰画としての、未知。
    しかしそこにはまだ創造はない。
    創造の種は、まったく予想もしなかったような「外部」からやってくるのだ。
    この外部をいかに戦略的に招き寄せるか。その仕掛けをいかに作るのかを本書では論じる。

    キーワードは「肯定的矛盾」と「否定的矛盾」。
    肯定的矛盾というのはいわば二項対立。そしていわばその矛盾が成立しないがゆえに両者は「脱色される」。この独特の表現はぜひ、じっさいに本書にあたって確かめてほしい。
    この構造を著者は、「トラウマ構造」とも呼ぶ。

    と、ここへ、いよいよ外部がやってくる。創造の契機だ。
    ところで、何とも興味深いことに、著者は博士論文を指導した中村恭子という画家の導きを得て、みずから作品の制作をすることによってこの創造のプロセスを体験する。本書にはそのドキュメントもおさめられている。これがまためちゃくちゃ面白い。

    彼はカニやアリを研究したりしているが、こんどは彼自身が被験体である。少しだけ書くと、彼にとっての肯定的矛盾、否定的矛盾の構造に当てはまるのは、「虫」と「人」である。虫と人の共立。でも虫にも人にもなれない。ではその矛盾の間にうがたれた穴には、はたして何が招来するのだろうか。

    個人的には、このちょっと謎めいた創造の仕掛けについていちばん腑に落ちたのは、九鬼周造の『いきの構造』の例だ。
    本書における二項対立的概念は、「媚び」と「意気地」である。媚びはご存知のとおり、相手への執着であり、意気地はむしろ自身への執着。この両者を脱色させるのが「諦め」である。ここに「いき」が成立する。いきは概念ではなく、創造の実践だったのだ。

    じつはそこらじゅうに創造の種は転がっている。すでに実践している人も多いかもしれない。しかし本書を読むことで、より多くの人がより能動的に外部が到来するきっかけを作れるなら、どんなにすばらしいことか。

  • 年末年始旅行本。本屋でジャケ買い。
    生命科学者が創造力の源を考察し、実際にアートを創造し、展覧会を開いた記録。あらすじを読んでも、ちょっとなに言っているのかわからない案件。哲学本?アート本?と分類にも悩む。そのジャンル横断的な話の跳び方が魅力なのだと思う。
    アートを実際に制作しはじめた後半がおもしろかった。現代アートができるまで。著者の提唱する「天然表現」の難解さも、具体的な作品のかたちになると指向は何となくわかったような気になる。消化しきれなさをも楽しむ本。

    フランク・ステラ「What you see is what you see(見ているものは見たままのものだ)」

  • 筆者は外部から想定もしない何ものかを受け入れる知の在り方を「天然知能」と呼ぶ。
    それは得られた知識やデータの範囲で考える「人工」的な知のありかたと対置される。
    からっぽの「わたし」の中に、外から霊感がもたらされる。
    「天然表現」は、その外部に接続するための装置であり、その接続が作品化したものとされる。

    「外部」の一つの例として挙げられるのは死だ。
    たしかに存在するけれど、生きている誰にも知覚できないもの。
    「わたし」の内側にある価値は、この外部と接触することにより無際限化し、質的に変化する。
    これが創造であるという。

    こういう考え方は、なんとなくなじみがある気がしてしまうのは気のせいだろうか?
    デリダとか思い出してしまう。

    死に近づくような体験により、人はトラウマを心に抱える。
    生と死、内部と外部などの二項対立の構造がもつれ、入れ子構造となり、共立する矛盾状態(肯定的矛盾)を経て、意味は不確定なものになり、無際限に広がるものとなる、という。
    この両立しえない二つのものが存在する矛盾の中で、二つの存在の意味が脱色される。
    (筆者はこの辺りを、ラーメンかそばか迷った末に、どちらも食べずに帰ってしまう、といった例でも説明している。)
    この意味が脱色された状態とは、対立する二項の二つともがないという状態(否定的矛盾)となる。
    そして、肯定的矛盾と否定的矛盾が共立する状況を、「トラウマ構造」と名付ける。
    この構造の中に「わたし」があるとき、トラウマ構造が「わたし」に外部にふれさせ、創造につながる、と述べている。

    ここまでいくと、なかなか腹落ち感がない…。
    もはや読書が修行に近くなる。
    が、他の部分は、こういった構想によりながら、筆者の「天然表現」創作の様子が説明されている。
    段ボールを水に浸した後、べりべりと破って丸め、巨大な蚕のような形のものが無数に床に落ちている、といったものである。
    創作も写真で紹介されているが、なかなか面白いというか、風変りというか、なんというか。
    こういったものと併せて何度も例のトラウマ構造の話が繰り返されていくので、なんとなくわかったような、洗脳されたような気がしてくるのが不思議。

  • 創造性はどこからやってくるか ――天然表現の世界 (ちくま新書 1742)

    創造とは、「わたし」において、新しい何かを実現すること、「わたし」の外部との接触を感じることである。「やった」「できた」「わかった」という新たな扉を開くものだ。創造とは、自分でやるからこそ、意味がある。


    1章 「天然表現」から始める

    得られた経験やデータだけから推論し判断する知性のあり方全体を、広い意味で「人工知能」と捉え、これに対して、想定もしなかった自分にとっての外部を受け入れる、徹底して受動的な、しかし、それこそが創造的な「天然知能」という知性のあり方を提唱した。

    「天然知能」は、知能というより創造的態度、創造の装置であり、だからそれは、制作それ自体とも言える。そして実は、制作.された作品それ自体かもしれないのである。

    アートや表現として多くの読者が想像する、自己表現であるとか、「わたし」の中にあるものの吐露であるとか、そういうことではない。むしろ芸術にたずさわる多くのアーティストは、自己表現という意味での表現を否定する。「わたし」の中なんて空つぼで何もない。わたしの中ではなく、むしろ外から来る何か、インスピレーション(霊感)を受け取るのだ。そういう言い方をする。ここでいう天然表現は、 この感覚を披脹することで構想される。そして、自然現象や、人間の意識、心の形成まで、天然表現として展開していくものなのである。

    天然表現とは、「外部」に接続する装置であり、外部に接続することが「作品化」される営みである。
    外部とは、「わたし」が想定する世界、その外にある無限の宇宙とでもいうべきもので、認識不可能なものである。

    作品化とは、外部に接続することで、接続をきっかけに「もの化」することを意味する。もの化というのは、彫刻になったり、絵画になったり、楽曲になったりという意味で物象化することだけではなく、連綿と流れる時間が分節され、行為や経過ができごと化するようなことをも意味する。

    つまり、内側と外側のような二項対立的な対の中に閉じこもり、それ以外存在しないと信じていた人間が、その外部に触れたことで、何かが「起こった」と言えるとき、それは、外部を契機に「作品化」されたのであり、その意味で、それは本書の意味で天然表現なのである。

    認知科学者のマーガレット・ボーデンは、人工知能に創造性を持たせられるか否か検討するため、創造とは何かについて議論している。そこで創造は、第一に組み合わせ的創造、第二に探索的創造、 第三に質的変化を伴う創治-に分類される。

    第一の、組み合わせ的創造とは、よく見知ったものを、 しかし組み合わせとしては、誰もが想定しなかった組み合わせで実現する創造である。


    第二の、探索的創造というのは、何かを創造するための探索空間はあらかじめ用意されているものの、空間が無限に広がっているかのように広く、探索の結果、思いもよらないものが見つかるというような創造である。

    第三の、質的変化を伴う創造というのは、概念空間を規定する規則が変化してしまうような創造である。

    ボーデンは、著書の最初のほうで、組み合わせ的創造や探索的創造は、其の創造とは呼ベず、質的変化を伴う創造だけが真の創造だと述べる。後者のみが、概念空間の定義を変えてしまうからだ。しかし翻って、質的変化を伴う創造とは、いかにして可能なのだろう。それを実現するには、何らかの「価値」が必要だ、とボーデンは言う

    死ぬことを思い出すときの、あの収拾のつかない感覚は、いつも同じだ。古代ギリシャの哲学者、エピクロスは言った。死は我々にとって何ものでもない。なぜなら、私は存在するとき、死は存在せず、死が存在するとき、私は存在しないからだ。そう言われても、私には何の慰めにもならなかった。

    持続暴露療法は、主に現実暴露と想像暴露という二つのプログラムから構成される。現実暴露とは、トラウマ体験を想起しないように、患者が現実に回避している事物、環境に向き合い、慣れていくことだ。想像暴露とは、トラウマ体験自体を想像の中で直接思い出し、その体験に立ち戻り、それに慣れていくことだ。

    癒しが出来事として個物化され、「作品化」されているのに対し、死の直視は作品化されていないのではないか。死に関する感覚には、さらにその先がある。それこそが、 死に関する天然表現、おそらく仏教で言う解脱のようなものとなるだろう。
    はたして、創造とトラウマにおける癒しは、同じく天然表現であり、死に関する直観の先に天然表現が可能と考えられる。

    2章 外部へ出るために

    人間にかぎらず、さまざまな動物は、自らの狭い経験に依存して勝手に予測し、それで周囲を認識することが知られている。その結果、未知のものさえ、既知のパターンとして知覚してしまう。こうして、森の中の岩や木の影を人間と見て幽盘を感じ、「へのへのもへじ」を人間の顔に見るわけだ。

    自分の経験を絶対的なものとして基礎づけ、そこから認識にバイアスをかけることと理解できる。このような認識の仕方は、ベイズ推定と呼ばれている。

    世界は二項対立的な二者によって構成され、そのいずれかを選択するしかない状況と仮定されている。だからこそ、その二者を共に成立させることも矛盾(肯定的矛后)だが、そのいずれもが存在しないことも矛盾(否定的矛盾)なのである

    二項対立的なものが、そこから抜け出せない閉域のように「わたし」を支配しているとき、対立する二頂を共に成り立たせる肯定的矛盾と、共に否定する否定的矛盾が共立することを、トラウマ構造と呼ぶ。わたしがトラウマ構造にあるとき、わたしは、この閉域の外部を召喚し、外部に触れることができる。それが創造であり、癒しである。トラウマ構造は、創造のための構えであり、装置ということができる。

    肯定的矛盾と否定的矛盾が共立する状況にあるからこそ、二項対立的な世界観から抜け出し、外部を召喚できる。それは、創造以外のなにものでもない。トラウマに苦しむ人間こそ、本来の意味で創造に開かれた人間なのである。

    デュシャンは、芸術家とは意図と実現のギャップに立つ霊媒師のようなもので.そこへ何かを捉えようとしている、と唱えたのだ。その上で、意図と実現の間をどのように測るか、両者の関係を彼は芸術係数と呼ぶのである。同時にデュシャンは、意図と実現の関係を作家と鑑賞者の関係と二重写しにし、作家が何を意図して制作しようと、それは鑑賞する者には徹底して無関係であると述べている。

    4章 脱色された日常

    一人称的風景は、特定の固定された視点、「わたし」の視点から見た風我だ。これに対して三人称的風景は、どこからでも見ることのできるモデル的風景である。だから、一人称的風景は経験されたもので、三人称的風景は理念的で仮想的なもの、作られたものだということがわかる。

    つまり、一人称的風景がぼんやりしながら、パッチワーク状に全体を構成するというのは、断片的で不完全な一人称的記憶から三人称的記憶を作り出そうとする過程であり、ー人称と三人称を同居させようとする過程であると思われる。

    一人称的記憶と三人称的記憶との肯定的矛盾の可能性は、過食症や拒食症のメカニズムと考えられるものの中にも見出されてきた。自分の肉体がどのような身体であるかという自分の中に持つイメージを身体イメージというが、それにもまた一人称的身体イメージと三人称的身体イメージとがある。

    「わたし」から見た以体イメージは、自己視点身体(一人称的身体イメージ)
    と呼ばれている。これに対し、いかなる視点からも見ることができる仮想的身体イメージもあって、これは他者視点以体(三人称的身体イメージ)と呼ばれている。

    拒食症や過食症のメカニズムの一つとして、「他者視点断絶」という仮説が提唱されている。通常、人は、自己祖点身体と他者視点,身体の両者の相互作用がうまくいっており、新たな自己視点身体の情報によって、 他者視点身体が更新され、他者視点身体で予測しながら、自己視点身体の情報を取り込む操作をしている。

    ところが何らかの原因で、自己視点身体と他者視点身体との連結が切れてしまうことがある。「自分は太っている」といったストレスが、その原因になることもあるだろう。
    こうなると、太っていた身体イメージの他者視点身体が固定され、ずっと・記憶されることになる。いくら食べるのをやめ、痩せていく自分の姿を鏡で見ても、その自己視点身体の情報が、他者視点身体を更新することはないからだ。結局、いくら痩せ、鏡でそれを見ていても、いざ食べるときには、他者視点身体のイメージ(「自分は太っている」) がその人を支配し、 食べることを拒否してしまう。

    4章 脱色された日常

    ある日、トイレから出た私の目に、段ボールに書かれた「冬物・衣類」という母親のマジック文字が、突然飛び込んできた。
    その段ボールは、母が生きていた頃からその場所にあり、気にも窗めなかった。「冬物・衣類」の文字も、おそらく何度も目に映っていただろうに、見たという記憶がなかった。それが突然、その黒々としてフラットなマジツクの書き文字が、何年も前にかれたものであるにもかかわらず、 ついさっき書かれたようなリアリティを持って、 私に迫ってきたのである。
    そのとき、 この時間に関する両義性の外部から、永遠性、無時間性が突然、 感じられたのである。

    5章  虫でも人でもなし痕跡

    生きるための根拠を、確固たる構造や基盤に求めようとしても、 そんなものはどこにもない。構造主義の後にやってきた哲学、ポストモダンと言われる哲学は、構造を脱構築し、存在を生成へと転換した。解体ではなく、わざわざ脱構造と言うのは、構造を完全に破壊し廃棄するのではなく、構造が絶えず流転し続けるものとして作り使うことを協調するためだ。

    6章 完全な不完全体

    フォーマリズムとは、 ー九五〇年代、アメリカの美術批評の中から生まれた、「絵画にしかできないことは何か」を追求した現代アートの運動である。そこではまず、絵画とは描くための「表面」を持つものだという前提が発見される。次に、その表而は無際限に広がっているわけではなく、「枠」によって境界づけられた有限性を持つことが理解される。
    つまり表面と枠さえあれば、 絵画は成立してしまう。そこで、 この表面と枠の意味を最大限活かす絵画が模索される。

    この文脈の果てに現れた芸術運動が、ー九六〇年代後半のミ二マリズムである。枠に囲まれた平面である限り、そこに「描かれる」ことになる: 描かれたのではなく、絵画を、単に「絵具ののった平面」として、もつと言うなら.厚みのある物体にしてしまう。それこそが絵画の原本的存在様式であろう。

    ミニマリズムはある意味、終着点にも思える。いま述べたような歴史を見る限り、多くの読者もそのように思うのではないか。まさにこの状況において、批評家のマイケル・フリードはミニマリズムを批判する。ただの「物体」を見せられてどうしろというのか。そこには、芸術的実質が欠如し、作者や鑑賞者の主観が入り込むことを拒絶した、「客体性」- 裸の物体のようなもの— があるだけだ、と論じたのだ。

    「形相と質料」という対立図式を、「マクロとミクロ」に置き換えるなら、さまざまな分野で同様の交代を見ることができる。心理学では、対象の認知過程を要素に還元して理解しようとするアプローチに対し、対象を全体として認知する過程こそ重要とするゲシュタルト心理学が生まれた。

    人間を含む組織的システムの制御、 運動に関しては、常に構成要素の相互作用から全体の連動が生じる「ボトムアップ」的制御が基本なのか、システムの中枢が存在し 、そこで構想されろ目的を実現するよう構成要素に命令を下す「トップダウン」的制御が基本なのかという対立が、さまざまな時代に現れては消える。

    つまりトップダウン的制御とは、まず目的ありきでその実現を目指す制御であり、ボトムアップ的制御とは、下位組織の運動に任せて、そこから目的が自ら立ち上がってくることを目論む制御である。
    そして多くの場合、二項対立の成分、両者を共に引き受け、折衷するという方針が、最終的に取られるようになる。

    昨今、さまざまな意味で隆盛を極める文化人類学の影響を受けて、芸術学の分野でも唱えられているのが、人問中心主義批判だ。第一に、ヴィヴェイロス・デ・カストロの唱える多自然主義の影響があり、 第二に、自然界のすべてのものを世界の中の演じ手とみなす、ブルーノ・フトゥールが提唱したアクター・ネットワーク理論の影響がある。これらは、しかし自然界のさまざまな構成要素を取り込んだとしても、あまりに異質で、ネットワークの全体を記述できないといった、否定的ニュアンスの強い理論である。ネットワークに流れるものを情報のように一元化するような、 数理的に理解される多くのネットワークモデルとは、異なる世界観である。

    人新世とは、人間が生きた時代を特徴づける、仮想的な地質年代を意味する言葉だ。種族として生存期間の短い生物は、何億年にもわたる地質年代の中で明瞭な時刻を刻むことができる。恐竜の時代のジュラ紀などがその一例だ。自然環境を破壊し尽くし絶滅した後の人間の時代は、そのような時刻を特徴づけるに違いない。人間の時代の呼称が、人新世である。

    ハイデガーは、プラトンに由来するヨーロッパの伝統的な事物のあり方、プラトニズムを批判する。プラト二ズムは結局のところ、意識に依存し、 人間の認識に依存してしまう。
    これを超えて存在そのものに迫ろうとすることがハイデガーの目的だった。

    その中でハイデガーは、人間の認識に基礎付けられたもののあり方を超えた「ものそれ自体」の性格を、「隠れなさ」と言っている。

    現代思想とは、構造主義より後の、構造からの逸脱や逃走に、思想の根幹を求める哲学思想で、ポスト構造主義と呼ばれる。構造主義は、営語や文化人類学的現象の根底に、ある種の数学的構造を認める原理主義で、クロード・レヴィ=ストロースや、フェルディナン・ド・ソシュールによって提唱された。根底にある原理的なものを発見するという手法は科学の手法であり、概念構築の基盤を与えるものであるから、理論の王道をいくものである。

    しかしポスト構造主義は、構造というものの盤石さを疑い、 それに根底から揺さぶりをかける。ジル・ドウルーズは、二項対立的なものを際立たせる構造を認めると同時に、その根拠を覆すことで、外部を浮かび上がらせる。

    8章 創造性はどこからやってくるか

    一人ひとりが、状況の中にあえて二項対立的なものを見出し、肯定的、否定的矛盾の共立を構想するとき、すなわち、天然表現を心がけるとき、ものの価値とは量的価値ではなく、質的な、創造のポテンシャルと理解される。そのとき、創造そのものが、社会において伝播し、創造的価値が流通するに違いない。

    心を無にして徹底して何かを待つ。空白、 虚無をつくって何かを待つ。それだけでは足りない。いや、むしろ、そのような態度によってどれだけ、失敗の歴史があったことか。シュルレアリスムが唱えた、自動記述(オートマティズム) の失敗など、枚挙にいとまがない。

    穴、亀裂、空白域が、ダイナミックな「不在」となり、外部を召喚するようなものになるには、それをうまく構築する能動性が必要なのである。受動性に対する能動性とは、単に、受動的態度を「能動的に」選択する、だけではない。この、能動的に作られる仕掛けこそ、天然表現なのであり、そうして現れる結果イコール痕跡も、 天然表現となる。

    象り返したように、天然表現は、確実に外部を捉えるものではない。失敗もある。苦労して、肯定的矛盾と否定的矛盾の共立を構成してなお、失敗する可能性はゼロではない。だからこそ、そこには「賭け」がある。

    我々は、創造の当事者になることによってのみ、生を感じることができる。「はじまりのアート」のきっかけはどこにでも転がっている。しかしそれを実現するために、我々は賭けるしかないのである。

  • 東2法経図・6F開架:B1/7/1742/K

  • 台風のため、戻りを1日延期して妻の実家にいる。そして、本書を読みきった。自然現象は思うようには行かないものだ。「ああすれば、こうなる」とはならない。向こうから勝手に「やってくる」ものを受け入れるしかない。作品が完成するというのも、何かやってくるものに作者が気付くということなのだろうか。創る側も、鑑賞する側も、何か「府に落ちる」ということがあるのだろう。作品を見たときに、ふっと心が熱くなるものがあって、「これだ。これを見たかったのだ。」なんて思えた日は1日幸せな気分になれる。本書を読んで、やはり哲学的な部分はよく分からないままだが、製作や展示の過程は楽しめた。そりゃ、実家に帰った妹さんは驚くはなあ。水漏れを確認に来た2人はプロに徹して、家の中のものは見て見ぬ振りをしたわけだなあ。ということは、誰かが点検とかで家の中に入って来るとしても、部屋をあわてて片付ける必要もないのだな。郡司さんのなにやら虫のような作品も見てみたい気はするが、中村恭子さんの「書き割り少女」を実際に見に行きたいと思えたのが、本書を読んでの収穫であった。9月に中之島に行きます。

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著者プロフィール

郡司ペギオ幸夫(ぐんじぺぎおゆきお):1959年生まれ。東北大学理学部卒業。同大学大学院理学研究科博士後期課程修了。理学博士。神戸大学理学部地球惑星科学科教授を経て、現在、早稲田大学基幹理工学部・表現工学専攻教授。著書『生きていることの科学』(講談社現代新書)、『いきものとなまものの哲学』『生命壱号』『生命、微動だにせず』『かつてそのゲームの世界に住んでいたという記憶はどこから来るのか』(以上、青土社)、『群れは意識をもつ』(PHP サイエンス・ワールド新書)、『天然知能』(講談社選書メチエ)、『やってくる』(医学書院)、『TANKURI』(中村恭子との共著、水声社)など多数。

「2023年 『創造性はどこからやってくるか』 で使われていた紹介文から引用しています。」

郡司ペギオ幸夫の作品

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