自分を知るための哲学入門 (ちくま学芸文庫 タ 1-3)

著者 :
  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (252ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480081094

感想・レビュー・書評

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  • 機会があれば、第2章「わたしの哲学入門」だけでも読んでみるといい。なぜ”哲学”を学ぶのか、学んでどんな得があるのか、理解できます。
    竹田さん個人の体験に基づいて書かれているので、リアリティがあります。その分、彼がもっとも影響を受けたキルケゴール、現象学に関する記述が多くなって、評価も現象学を上に置いているところがあります。そのへんは賛否両論でしょうが、机上の観念で書かれていないので、哲学を語る本にしてはとても読みやすくわかりやすいです。

  • 2015.3.28入門と言いつつもやっぱり難しい、、、しかし、理解不能ではなく、哲学の大まかな流れ、哲学とは何か、その大まかな輪郭を捉えることができた。読む中で何度も唸る部分があり、より哲学に、特に人間の実存に対し哲学するソクラテスの系譜に強い関心を覚えた。哲学に対するふんわりとした関心を、はっきりとした興味に変えてくれた一冊。でもやっぱり難しい、、、。

    2015.10.23再読。前回読んでから7ヶ月経ってんのか。一元か二元か、主客は一致し得るかという枠組みで見ると哲学はすっきりする。この問題の動機は、主客の一致がないなら人間の知的営みの意義がなくなるからである。ソクラテス以前において哲学は、世界とは何かを考えていた。しかしソクラテス=プラトンが、世界に秩序があるのでなく、人間の精神ヌースが世界を秩序づけているのでは、とすれば探求すべきは精神ではという視点の転回を行い、人間はイデアという本質世界を知っており、世界はそのイデアから認識される仮象の世界とした。人間のイデアの内、特に人間精神の根源となるのが真善美のイデアとしてるが、なぜこの3つなのかは今後の私の関心である。ソクラテスは仮象世界=主観とイデア世界=客観の二元論で、主客は一致し得ると考えていた、のかな。飛んで近代哲学、デカルトは我思う故に我ありで懐疑主義を退け、心身二元論、神を根拠に主客は一致するといった。スピノザは一切は一なる神の変異体とし、一元論をとったが、それでは人間精神の自由の実感を説得しきれなかった。カントは理性の限界を証明し、本質世界=客観と現象世界=主観の二元論、主客は一致できない、人間の世界認識は不完全ながらも主観で認識し得るもの=seinと推論で辿り着く当為世界=sollenとし、前者は科学の仕事、なら後者の、世界は人間はいかにあるべきかを考えることが哲学の仕事とした。弁証法のヘーゲルは、認識能力は成長し、今はまだ知らない世界はあっても、将来も知りえない世界はないとし、主客の一致、一元論をとった。この問題に納得いく解決をもたらしたのはフッサールで、彼はソクラテス同様、世界に秩序があるのでなく人間が秩序づけているのだとし、客観とは主観による秩序づけの結果であり、よって人間の認識の外に客観があると考えることはナンセンス、考えるべきは主観による確信の条件であるとした。多数の主観によって確信されることつまり妥当こそが客観世界だと。彼は確信の構造を説き、内在的確証と相互確証、独我論からの脱し方という考えはとても参考になった。この本で一番フッサールの現象学が参考になった気がする。キルケゴール、ニーチェ、ハイデガーはソクラテスの系譜で世界認識を一旦無視して人間のなんたるかを考えた実存主義で、人間本性がルサンチマンや、死からの逃避による無限性(抽象概念)や有限性(世俗世界)へ同一化することを説き、その束縛がなければ人間本性の真善美は十全に志向される、とした。まぁ全体こんな感じだが、本著の主張はこのような学問的哲学でなく技術的哲学である。つまり哲学は知的功名心や知的好奇心を満たすだけのものでなく、深い自己了解のための技術である。哲学の概念が、自分の心のうちに経験や思考によって生まれた何か名付けられないものに名を与えてくれ、それによりそのモヤモヤを認識することができるようになることもそうである。哲学により導かれた考え方が、自分が生きる上での自分との関係や、他者との世界との関係に対する有力な捉え方になる、例えば独りよがりの信念は根拠を持たないので常に不安にさらされる、その根拠の見出し先は内在的確証つまり自己の現実具体的な経験か、相互確証つまり他者の主観にさらすことである。しかし他者に自分の信念をさらすのは怖い、なぜか、それはその信念と自己を同一化しているから、この信念を以って私は私だとしているなら信念が他者の主観により瓦解したらアイデンティティ崩壊である。私は何か、わからなくなる、つまりそれは私は無ということであり、死を意味する。この死を回避するため無限有限なるものと同一化したがるというのがキルケゴールの言うところだった。このように、なぜ自分は他者に主観をさらすのが怖いのか、ということにも哲学は答えられる。そうやって自分にとっての自分の不可思議を了解していける。了解するには納得が必要である、納得とは自分の真善美のアンテナに対象がひっかかることにより得られる快ではないか。内在的確証は過去の自分の経験によるこの真善美と現在の自分の得た情報がマッチするから確証になる。相互確証は各々の主観のすり合わせによって、互いの真善美のイデアが育てられ、よりよい共通了解を得られる営みである。経験と他者の主観が、私に了解を与えてくれる。しかし経験からのみ信念を育て、私がこう思うんだから世界はこうだ、なんて独善論はハリボテで、その自分の主観を抜け出る唯一の道が相互確証であり。そうやって、今まで知らなかった、けど内にあった自分を知っていく、また知ってたつもりだった自己解釈を、さらによりよい自己解釈へ刷新していく。哲学とはこのような、深い自己了解、それは即ち納得のもと、より深く自己を認識し、かつ再構築していくこと、そのための技術なのではと思った。んーこうやってまとめるとまとまらないな。もっと考えたことたくさんあったのに、その喜びだけが残り火みたいになって、何考えたか思い出せなくてもどかしい。あと、哲学は、問いと論理と答えがその構造だとして、一番大切なのは問いの理解つまり哲学者の直観の理解だと思った。ここが彼らと同じか近いレベルでわかる、すなわち彼らと同じ問いを共有できなければ、結局なんでこの人らこんなどーでもいいこと考えてんの?になるからである。私は世界にあまり興味がないので必然実存哲学に惹かれているわけだが、実存哲学者の問いを私の問いと実感できるよう、自らも考えて、自らの問いを育むことが、哲学するには大事だと思った。問いを育て、掘り下げ、それが私の人生においても関わる切実なものと了解できれば、彼らの主張もまた他人事ではない。このような姿勢もまた、自己や他者の了解の1つの道ではないか。哲「学者」でなく、「哲学」者であること、哲学することを説く、また読みたい哲学エッセンス本。今後の関心としてはソクラテス=プラトンの真善美、フッサールの現象学、実存哲学ってとこですかね。

  • 哲学とは、
    ものごとを「自分で」を考える技術である。
    困った時、苦しい時役に立つ。
    世界が何であるか、ではなく、「自分が何であるか」を了解する技術。

    →習慣的な枠組みに逆らって考える。 unframed

    ・哲学は、「知る」ものでなく「する」もの。
    →技術である。

    →自分で自分を深く知るための技術。
      自分と世界との関係を深く知るための技術。

    ・ロマンとしての文学や思想の世界はそれを抱いている人間に、存在理由を与えてくれる。


    ・フッサール
    認識と客観の一致はあり得ない。
    完全な正しさはなく、「妥当」、相互的な確信の一致でしかない。
    =みんなで納得しあうことしかできない。
     「ほんとう」は、関係によってつくられる。
     生に対するポジティブな欲望が大切。

    ・カント
    真理は、神のみぞ知る。
    人間は、制約された認識能力の中でそれを意志するだけである。

    ・スピノザ
    世界の全体は神と一致。人間に認識できるのは、精神と物質という属性だけ。

    ・ギリシヤ哲学
    世界の原理原因を追求。


    ・ソクラテス
    世界はそれ自体秩序をもっているのではなく、
    心という原理がその秩序を作る。
    →であれば、精神の真善美こそが追求されるべき。

  • 哲学とは何か。
    自分で考える技術。

  • 哲学とは何か?それは、自分を知るための一つの<アート>(技術、ツール)である。そう語る著者の哲学観から、哲学史の明快な姿が暴露される。哲学者たちは、主観と客観における、二元論の論理的矛盾(デカルト)と、一元論的決定論(スピノザ)の周囲を堂々巡りするばかりであった。「世界を知る」ことは、人間もその世界に含まれている以上、人間においては不可能な試みであったのだ。ゆえに、哲学において求められるのは、人間を知ること、すなわち自分を知ることだったのだ。ソクラテスによって企てられた、この転換が、現代、ニーチェを嚆矢として繰り返されようとしている。
    …という筆者の主張は、なるほど、何よりわかりやすい。しかしながら、フッサールにおいて「ほんとう」の事案に、明確な答えが出ている(間主観的につくられる妥当)。などと言う姿勢には、違和感を覚える。哲学に明確な答えなどあるのか?
    青年期的独我論からの脱皮が、哲学者全員の課題であるならば、この本はあるいは聖典になるのかもしれない。そうでなくても、私にとっては福音であった。

  • 難しいなあ、、とおもうんだけど、その後必ずわかりやすい説明が入ってくる。

    そのパターンが信頼できてからは、難しいけど、もうちょっと進もう、の繰り返しで読了でに きました。

  • 原著: 1990/10/31

    本書をはじめて読んだのは、文庫化して三年後ぐらいのはず。先に、竹田『現代思想の冒険』を読み、その理解の補強として、本書にも手を出した。
    本書および『現代思想の冒険』を読んだことによって、自身が「哲学」しているかと問われれば、自信をもって肯定することはできないが、少なくとも両書のおかげで、思想のもつ大きな枠組み――二元論的思考/一元論的思考/現象学的思考――について納得することができた。そして、不完全ながらも、基本的な思考法について理解できたことは、その後、思想にかかわる本を読む上で非常に有益であった。

  • 哲学についての入門本はあまり読んでも理解できないことが多かったのですが、この本はギリギリなんとか分かるぐらいに噛み砕いて哲学の歴史や概観がつかめるので面白かったです。

  • 105 早稲田

  • 1/31読了

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著者プロフィール

1947年生まれ。哲学者、文芸評論家。著書に『「自分」を生きるための思想入門』(ちくま文庫)、『人間的自由の条件ーヘーゲルとポストモダン思想』(講談社)など。

「2007年 『自由は人間を幸福にするか』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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