大衆の反逆 (ちくま学芸文庫 オ 10-1)

  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (302ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480082091

作品紹介・あらすじ

1930年刊行の大衆社会論の嚆矢。20世紀は、「何世紀にもわたる不断の発展の末に現われたものでありながら、一つの出発点、一つの夜明け、一つの発端、一つの揺籃期であるかのように見える時代」、過去の模範や規範から断絶した時代。こうして、「生の増大」と「時代の高さ」のなかから『大衆』が誕生する。諸権利を主張するばかりで、自らにたのむところ少なく、しかも凡庸たることの権利までも要求する大衆。オルテガはこの『大衆』に『真の貴族』を対置する。「生・理性」の哲学によってみちびかれた、予言と警世の書。

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  • "大衆とは、善い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は「すべての人」と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出しているすべての人のことである。"
    今日のヨーロッパ社会で最も重要な事実の一つ、大衆は社会的権力の座に登った。大衆は自身を指導できず、すべきでもなく、社会支配など及びもつかない。つまり、最大の危機に瀕していることを示している。歴史上何度かあるこの危機は、大衆の反逆と呼ばれる。凡庸なる平均人、大衆の蜂起を根拠に、サンディカリズムやファシズムの台頭を分析するにとどまらず、個人の生のあり方、国民国家のあり方、ヨーロッパの進むべき統合の方向性を示す。
    本書の要約。ヨーロッパの歴史が初めて、凡庸人の決定に委ねられるに至った、あるいは凡庸人が世界を支配する決心をした。この大衆人は、①生は容易で豊かで無限だと感じ支配と勝利の実感を得ている。そのことが、②あるがままの自分を肯定させ、道徳的、知的に完璧だと自負させる。この自己満足が、外部示唆や自己懐疑、他人の存在を受け入れない自閉性となる。そして、同類しかいないと思い込む。したがって、③あらゆることに介入し、凡俗な意見を、配慮内省手続遠慮なしに直接行動で強行する。大衆は優秀な少数者に指導されることを必要とするから、自ら直接行動をすること、すなわち大衆の反逆は、運命に反した人類の危機である。16世紀にヨーロッパ(フランス、イギリス、ドイツ)の世界支配が進み、ヨーロッパ的な生活様式が定着すると、民族の潜在能力向上に対する地方的な国家単位の小ささから、ヨーロッパの没落と言われるようになった。諸外国の大衆は民族主義を掲げ、反ヨーロッパ的になるが、そこに新しい規範はない。これは人類の滅亡の兆候だ。各人の生の潜在能力に見合う、支配的な生の計画が必要。国家は、贈り物ではなく、血縁関係から脱却する努力によって、造り上げねばならない、混血的で多言語的なもの。国家は、統一に向かう協同計画であり、血言語領土などの現時点での境界ではない。むしろそれらは国民国家の政治的統一の後に形成され、強固にするもの。
    世界は道徳的頽廃にあり、そのことは大衆の反逆によって示されている。その原因は、かつてあったヨーロッパの支配が各地に分散し、ヨーロッパ人が支配しているかに自信がなくなり、各地も被支配に確信がもてないという道徳的頽廃にある。19世紀の未来への自負は、誰が(民族イデオロギー傾向規範生命衝動の体系)支配しているかが不明瞭になり、未知になった。世界は暫定的な生にある。スポーツ熱狂、政治的暴力、新芸術、日光浴など気まぐれな生の虚偽の発明にすぎない。生の行為は、不可避的で自然的な行為と感じるときに初めて真である。逆に極端な身振りは虚偽。ヨーロッパ人は、統一的事業に邁進していなければ生きる術を知らない。国民国家は今や最大限度に達し、生の自由を持て余し、超国民国家における複数性が求められている。新しい生の原理は、ナショナリズムのような排他的な過去にはなく、国民国家の包含的な創意・大事業の義務にある。ヨーロッパ大陸の国民国家を建設することのみがヨーロッパの自信と義務と自律を取り戻す。ヨーロッパが支配しないままであれば、自己を支配することもなくなり、美徳と能力を失う。ヨーロッパ統合に保守主義は反対するが、これは自身の破局を招く。ロシア的共産主義は、自由と幸福もないが、巨大事業としての輝かしさ、道徳的身振りをヨーロッパに見せる可能性がある。共産主義の失敗を待つだけでは卑劣であるから、西欧的な新しいモラル、すなわちヨーロッパ統合を、新しい生の計画を対置する方が豊かな実りをもたらす。
    訳者解説にもあるが、オルテガはドイツ留学をしており、その際に新カント主義、フッサールの教育を強く受けたとあって、主張、特に個人の生に関する思想が、同時代のハイデガーにかなり近く感じる。偶発的に投げ込まれた環境(環世界)に対する自己を見出す必要性(被投性)、そこから抜け出すために歴史において個人が決断し(先駆的決意性)、未来に向かって何かをなさねばならない(企投性)、と『存在と時間』に重なる部分が多い。また、ファシズム、大衆運動に対しての危機と立場は、『技術への問い』などの自然に対する科学の限界や、科学信仰の大衆性、意志への意志批判、有用性批判など共鳴するところが多い。なお、カントについても消化し新しい精神に生まれ変わるとしながら、世界連合的な平和論、目的論、道徳(モラル)、義務、自由と自律など方針は相当に近い。さらに言えば、個人の実存、自己完成・創造は、ニーチェ的であり、ローティの私的完成論に接続するところもあるだろう。また、可能性の総体としての世界観は、ウィトゲンシュタインの論理空間にも通ずるし、生の現実性は、後の使用説にも問題系が連ねられるだろう。むろん以上は全てカントが共通項とも言えるが。
    ちなみに、反(アンチ)〜についての論が面白い。19世紀の自由主義は乗り越えねばならないが、ボルシェヴィズム、ファシズムなどのように大衆的に否定するだけではダメで、過去を認め視野に入れた上で、正当でない部分は拒否する、そのことが時代の高さに生きること。反アンチは過去物を前提とし、現在を否定することでその反対物以前の過去に戻るにすぎない。批判批評気取りで単なる否定と混同している詭弁家大衆を断罪する。
    ・第一部 大衆の反逆
    ・一 充満の事実
    今日のヨーロッパ社会で最も重要な事実の一つ、大衆は社会的権力の座に登った。大衆は自身を指導できず、すべきでもなく、社会支配など及びもつかない。つまり、最大の危機に瀕していることを示している。歴史上何度かあるこの危機は、大衆の反逆と呼ばれる。反逆、大衆、社会的権力という語は単に政治的であるのではなく、社会的生が知的、道徳的、経済的、宗教的であることから、慣習、服装、娯楽までを含む。様相を指摘するのは簡単だが、この事実は充満の事実と呼べる。都市は人で満ち、家は借家人で満ちている。ホテル、汽車、喫茶店、道路、名医、映画、演劇、海浜も人で満ちている。空いた場所を見つけることが、日常の問題となり始めている。これだけのこと。以前は施設や乗り物が満員になることはなかったのに、利用できない人が取り残されている。これは一つの変化、革新。
    物事に驚き、不審を抱くことが理解への第一歩。それは知性的な人間に特有なスポーツであり贅沢。知性人に共通な態度は、驚きに瞠(みは)った目で世界を観るところにある。世界の不思議、驚異は、知性人にとって無上の悦びであり、それに駆り立てられて世界を彷徨し、観想者ビシオナリオとしての絶え間ない陶酔に浸る。だからこそ古代人は、目を光らせている梟をミネルヴァの付き物とした。
    人口は以前と変わっていないから、これまでの個々人が群衆を形成するようになったということ。各々の場所で小さな集団で過ごしていた個人が突如群衆として現れ、社会の最良の場所を占めた。背景にいた群衆が前面に躍り出て、主役はいなくなり、主要人物としての合唱隊コーロのみとなった。
    社会は常に二つのファクターである。特別な資質を持った個人あるいは集団の少数者と、特別な資質を持たない人々の総体である大衆。つまり、労働大衆ではなく、平均人。数量的ではなく、質的なもの。大衆は、万人に共通な性質。★自己のうちに一つの普遍的な類型を繰り返すという限りにおいて人間。このことは、質を通して、量の起源を知ることができる。群衆の形成には、願望、思想、存在形式の一致が前提条件となる。
    →たんに集まった人間が群衆と呼ばれるのではなく、願望思想存在形式を共有して平均的なものとして群衆が現れる。
    したがって、群衆大衆でないものは、多数を排除する願望、思想があるということ。一致せざることによる一致。非国教徒と称するイギリス人など。大多数から分離することで少数者が集まるのは、少数者集団に常に見られる傾向。マラルメ、優れた演奏家を聴きに行く数少ない聴衆は、少数であることによって多数の不在を強調している。
    大衆は、心理的事実であり、集団である必要はない。★
    "大衆とは、善い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は「すべての人」と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出しているすべての人のことである。"★
    例えば、謙虚な人が自分に資質がないと気づいた場合は、凡庸、平凡、天賦の才がないと感じるとしても、大衆であるとは感じないだろう。選ばれた者について語る場合、悪意からこの意味を歪曲するのが普通であるが、選ばれた者とは、僭越な人間ではなく、自身に多く高度な要求を貸す人。★
    人間は二つのタイプに分けられる。第一に自らに多くを求め、進んで困難と義務を負わんとする人。第二に、自身に要求を持たず、生きることが自身の既存の姿の瞬間的連続にすぎず、自己完成の努力をしない、風のまにまに漂う浮標のような人。★
    →ローティ私的完成と自己創造、ハイデガー-ニーチェ実存
    仏教の大乗と小乗のように、自分の人生をどちらの車乗せるか、すなわち要求が最大か最小か。大衆と、優れた少数者に分けるのは、階級ではなく、人間の種類による分類。それぞれの階層に大衆と真の少数者の別がある。★選別的な態度の集団でさえ、大衆と凡俗人が優位。知的分野でも資格のないエセ知識人が優位になりつつある。逆に労働者のなかに高貴な精神を持つ者を見出すことも稀ではない。
    芸術の楽しみや政治的判断は、特殊な才能がなければならない。
    →カント判断力
    しかし、いま大衆は少数者のものだったこれらの施設、文明の利器、楽しみを享受することを決断した。かつての利用者であった少数者を押し除け、大衆のままその地位についている。欲望を達成する手段があるなら、多数が楽しめることを非難する人はいないだろう。しかし、享楽だけではなく、その傾向が一般的風潮になっている。つまり、近年の政治的改革は、大衆の政治権力化以外の何ものでもない。かつてデモクラシーは、自由主義と法への情熱により、少数者の自らへの規律によって、実現された。いまやデモクラシーが勝利し、大衆は自らに法を課さず、物理的な圧力で希望と好みを社会に強制している。大衆が政治を専門家に任せていたのはデモクラシー時代で、今は大衆が喫茶店での結論を実社会に強制する、そのための法の力を与える権利があると信じている。超デモクラシーの勝利。
    知的分野でも、一度も関心を持ったことのない凡庸な読者が論文を読むとき、自身の平俗な知識と一致しなければ断罪せんがために読む。大衆が特殊な才能を自負したとしても、錯覚にすぎない。問題は、
    "凡俗な人間が、おのれが凡俗であることを知りながら、凡俗であることの権利を敢然と主張し、いたるところでそれを貫徹しようとするところにある"。★
    北米合衆国では、他人と違うと即ふしだらとされる。大衆は、非凡、傑出、個性的、特殊な才能を席巻しつつある。「すべての人」が少数者を含まない大衆を指す語になっている。現代の恐るべき事実、残酷な実相。
    ・二 歴史的水準の向上
    大衆の席巻は、文明史上例をみない現象。強いて言えば、古代ローマもまた指導的少数者を大衆の反逆によって吸収・失効した。蝟集(いしゅう)・充満がこの時もあった。シュペングラー、この時代も現代と同じように大建築が必要だった。大衆の時代とは、巨大なるものの時代。★残酷な大衆支配。
    オルテガは、歴史に対する根本的な貴族主義的な解釈の支持者。人間社会は、本質上、つねに貴族的である。★貴族的である程度に応じて社会たりえ、貴族性を失えば社会でなくなる。
    運命とは、ドラマティックかつ悲劇的。時代の危機を感じなければ、運命の核心に到達しない。恐るべき運命は、大衆の激しい精神的反乱。このことは二つの側面から考察できる。①かつて少数者のための生活分野だった大部分と、今日の大衆の活動範囲が一致する。②大衆は、少数者に不従順で追従も尊敬もせず、押し除けて取って代わりつつある。
    ①は、かつての少数者の利器が使用されている。すなわち、上級の欲望と必要性を感じている。自宅の浴室、熟達した技術の利用。さらに法律的社会的技術により、基本的人権と市民権が万人に共通した唯一の権利とされ、特殊な才能の権利は特権として非難された。18世紀に発見され、19世紀に理想とされたこの思想が、今や現実となった。それは法制度ではなく、個人の心のうちで。普通のそのままの人間の至上権は、法律上の理念理想ではなく、いまや平均人の心理の構成要素。理想が現実になれば、理想としての権威と魔力がなくなる。万人平等化の権利は、たんなる欲求と無意識的な前提となった。この権利の意図は、魂を内的奴隷状態から救い出し、自活と尊厳の自覚を取り戻すこと。自身と人生の支配者・主人である自覚。★平均人が信念、享楽、意志に従い行動し、隷従を拒否して、余暇と風采を重んじることは驚くにあたらない。これらは、かつての最上層の少数者の生活分野から構成されている。
    平均人は、各時代の歴史の地表面を示す。その役割は海水面。上級階級の平均水準に来たことを物語っている。このことはヨーロッパでのみ新事実である。自身の主人でありみな平等であるという自覚は、ヨーロッパでは傑出したグループのみにあったが、アメリカでは建国以来すでにあった。「ヨーロッパはアメリカ化しつつある」とさえ言われた。しかし、そうではなく、ヨーロッパでは2世紀の民衆教育と、経済的繁栄の後、内部要因から大衆の勝利と生活水準の向上が起こった。ただし、その結果がアメリカの生活様式と一致した。影響というよりは、逆流、いや平均化である。ヨーロッパはアメリカの方が生活水準が高いと考え、未来はアメリカにありという見解を生んだ。アメリカの最上級少数者の水準はヨーロッパよりも低かったが、平均水準は高かったため、歴史はそこから養分をとる。今日では、財産、文化、男女の性、諸大陸は、平均化の時代にある。平均より低かったヨーロッパは、損はしていないから、大衆の反逆は、生命力と可能性の増加を意味する。★通俗的な「西洋の没落」とは真逆。国家と文化には当てはまるが、生命力にはあたらない。イタリア、スペイン、ドイツ、北米人ヤンキー、アルゼンチンの生命力の差は30年前よりはるかに少なく、これはアメリカ人は忘れてはならないデータ。
    ・三 時代の高さ
    それぞれの世代が、われわれの世代と呼ぶとき、特定の生の時代にはつねにある種の高さがあり、生きている時代と自分の生との関係を感じ取っている。ホルヘ・マンリーケ、過ぎ去りし時は常によかりき。この感慨は、過去により完全な生存形式を想像するのが普遍的態度だった。全ての人が過去に対して優劣を感じるわけではない、という重要で明白な事実を思想家歴史家はなぜか気づかなかった。ギリシア、ローマという「黄金時代」、オーストラリアにおける「アルケリンガ」、そう言う時代の人々は、生命が微弱だという自覚があった。彼らは「古典」時代という過去を尊敬し、豊かで完全で手の届かないものと思っていた。
    →アーレント『人間の条件』、古典ギリシア
    ローマ帝国においては、紀元150年から生命の萎縮感、衰弱、脈搏低下の意識が増大した。ホラティウス、祖父母に劣れる父母、さらに劣れる我らを生めり、我ら遠からずしてより劣悪なる子孫を儲けん。それから2世紀後、隊長として役立つイタリア人を見つけ出せなくなった。傭兵、蛮族を雇い、イタリア人口は希薄化した。
    →少子化
    トラヤヌスのプリウニウス宛書簡、キリスト教徒迫害は、「我々の時代に相応しいことではない」。これは、完全で決定的な高さに達したと感じた時代。19世紀の絶頂期は、中世をそのように見下していた。そして我々の時代は、頂点を極めた後に続く時代。前時代的な人は、現代を没落と感じるだろう。そういった自己満足の時代は、内面的に死んだ時代である。生の充足は、満足、達成、到着にはない。セルバンテス、宿屋よりも道中のほうがよい。頂点は、終末にほかならない。頂点の時代が哀愁を漂わすのは、これに由来する。
    19世紀の願望とは、「近代文化」。近代moderno以前を準備期間と見なすのは、的外れ。視野の狭さ、迷妄さ。
    →モデルネ、モダン、mod-尺度、型。モデルmodel、el小さい。mode方法、方式。
    そう感ずる時、現代とは、最善も最悪もない、予測しがたいと同時に全てが可能な世界に入ったという安堵感を覚える。明日も今日と本質は同じで、進歩の一本道を歩み続けるという近代文化は、悲しく淋しい信仰。永遠に歩く出口のない地獄。ローマにおける不滅の権力の象徴としての建築に、永遠と憂愁を感じるのに比して、現代は学校から抜け出した子どもの大騒ぎに似ている。現代における、何が起きるかわからない喜びは、可能性が開かれていることによる、真の生の在り方、充実、頂点。★
    現代の没落を嘆く者は、時代遅れのイデオロギーに忠誠的で政治・文化しか見ない。歴史的現実は、それよりもさらに深い生への純粋な熱望。★宇宙にも似た自然的ではないが兄弟関係にある力。没落概念は、外面的な比較の概念であるが、重要なのは生そのものの価値。生を内側から眺め、衰えていないかを見定めること。それは、「いかなる過去にも憧れない、自分自身であることを選んだ生」。★
    →ニーチェ永劫回帰、瞬間
    時代の高さに関する考察によって行き着いたのはここである。我々は有史以来唯一無二の生命感をもつ。近代は、ギリシアやローマを参照しながら、その延長として自らを頂点としていた。すなわち、過去に憧れていたにすぎない。今日の人間は、行き詰まる狭い過去のどの生よりも生を感じている。そのため、過去への敬意と配慮を失った。古典主義的な模範や可能性を認めない、到達点であるがゆえに出発点、夜明け、発端、揺籃期。今から見れば、ルネサンスも狭小で地方的な無意味なジェスチャーの気障な時代。過去と現在の分離こそ、我々の時代の基本的な事実。死者は助けてくれない。伝統的精神、過去の規範模範は役に立たない。芸術、科学、政治の問題を過去の助力なしで解決しなければならない。しかし、我々の時代は、自身が今までの歴史の上に立っている、これまでの頂点を越えるものと感じている。それと同時に、末期の苦悶とならないとは言い切れない。他のあらゆる時代に優り、自身に劣る時代。
    ・四 生の増大
    大衆支配による時代の高さは、世界の成長と生の増大という事実の兆候だ。平均的な生の内容が、世界全体を包括している。スペインで北極の出来事が大衆紙に掲載されていたように、地理的制約なく、他の場所に生的作用を及ぼす。かつてない偏在性、遠いものが近在、不在が実在する事実。
    →ネット社会、ハイデガー遠隔
    先史学考古学の文明帝国の発見による時間的増大。空間的時間的増大は宇宙においては無意味な部分。現代のスピードへの信仰は、空間と時間を無効にするのに役立つ。場所、往復の簡便化によってより長くの宇宙的時間を消費できる。世界の増大は、広がりを増すことではなく、多くの物象を内包すること。
    買うという行為形式は、一つの選択行為であるが、それは市場の物の可能性に気づくことから始まる。我々の生とは、あらゆる瞬間において我々にとっての可能性を意識すること。★
    →柄谷行人、交換、形式
    生は、常に自己の前に複数の出口を見出すことを条件とし、いずれかを決断し選択せねばならないという可能性を帯びる。★生きているとは、特定の可能性のある領域内にいるということ。生とは、この環境つまり世界のうちに自己を見出すこと。
    →ハイデガー環境、世界、自己、時間、空間
    環境、世界とは周囲にあるものの概念。世界とは、我々の生の可能性の集積。
    →ウィトゲンシュタイン世界、可能性、総体
    したがって世界は、隔絶された疎遠なものではなく、我々の外周そのものである。★世界は、我々の生の潜在的能力を示している。逆説的に、我々は、なりうるものの最小部分にしかなれない。
    →ライプニッツ可能世界、東浩紀可能性
    だからこそ、世界は巨大に見え、我々は微小なものに思える。★世界すなわち可能なる生は、運命すなわち現実の生より常に大きい。★
    重要なのは、今日の人間の生の潜在的能力がいかに増大したか。知的分野は、より多くの問題、データ、科学、観点と、観念形成の途がある。他の局面ほど豊富ではないが、快楽も今日の人間の存在形式を代表する都会において、驚くほど増加している。また、肉体的領域の新記録の頻度が与える印象に注目すべき。身体能力はかつてないほど優れており、同様のことが科学分野にも起こっている。アインシュタインはニュートンの物理学を広大に展開し、宇宙領域は拡張した。これは、科学の精確度の増大という内への成長によって、外への成長が可能になった。アインシュタインは、かつて重要視されなかった極微差を用いて、原子が世界の極限から太陽系ほど膨張した。これらの前提には、主観的な能力の増大がある。つまり、アインシュタインがニュートンよりも精神の精確さと自由を持っているということ。映画、写真、新聞、会話が、巨大な力の印象を与える。ただし、生の成長、量的能力的増大にすぎない。今日の人間の意識と特徴は、かつてないほど潜在能力を持っていると信じるところと、過去が矮小に見えるということ。したがって、西洋の没落議論は根無草である。何が没落したかを明示しなければ議論にならない。文化と諸国家は二次的なものに過ぎない。没落があるとすれば、それは生命力。自らを頂点と感じていた世紀がかつてあり、我々の時代には過去より優れているという自惚れがある。そして、単なる無関心ではなく、過去に優り還元しえない新しい生があるとみなしている。この事実こそ我々の時代の問題。衰退を実感していれば、他の時代を尊重、尊敬、崇拝するはず。
    →現代が没落していない証拠は、大衆が過去の時代に憧れていないということ。
    自身に実現能力があると感じながら、何を実現すべきか知らない。豊かさの中に自分を見失ってしまった。優越感と不安感の二元性。★進歩主義の時代と異なり、全てが可能な今日は、退歩、野蛮、没落も可能と思われる。しかしこの不安感は、一瞬一瞬を生きる生に内在する本質的な不安感であり、安心感を得るために習慣慣例一般論によって運命のドラマを感じまいと努力するこれまでの3世紀とは異なる。
    "真摯な態度で自己の存在に立ちむかい、自己の存在に全責任をもつ者はすべて、自分をつねに警戒態勢をとるように仕向けるようなある種の不安感を感ずるはずである。"★
    19世紀の頂上時代の安心感は、視覚的幻想。未来への無関心。進歩主義、マルクス主義も願望の実現の必然性に守られており、敏捷さと行動力を失った。進歩主義は、未来に無関心で、ただ一直線に進む確信によって、不安感を取り除き、永遠不変の現在に定住している。大衆の反逆の裏面につきものの、支配的少数者の離反は、かかる実相にある。
    ・五 一つの統計的事実
    我々の生のレパートリーは史上最多であるために、伝統的な河床(流れの地盤)、規範、理想をはみ出した。過去に自分の方向を見出せないから、自己固有の使命を自分で発明せねばならない。★そして、その可能性の中から選択決断する必要がある。環境(可能性、世界)と決断、この二つが生を構成している基本的要素である。★生は自己の世界を選べないから、生きるということは、特定の交換不可能な現在の世界に自己を見出すことである。その世界は生を構成する宿命の広がりである。
    →ハイデガー被投性
    宿命は一つ課されるものではなく、幾つもの軌道から選択を余儀なくされること。
    "生きるとは、この世界においてわれわれがかくあらんとする姿を自由に決定するよう、うむをいわさず強制されている自分を自覚すること。"★
    人生を環境が決定することはなく、環境とは常に更新するジレンマであり、決断しなければならない。決断は我々の性格。集団的生においても、決断は社会の支配的な人間の性格から流れ出る。我々の時代で支配的で決断を下すのは大衆人である。★デモクラシーの普通選挙時代の大衆は少数者の決定に賛同するにすぎなかった。少数者が打ち出した、集団の生に関する綱領に大衆が呼びかけられた。しかし、今日では、大衆勝利が最も顕著な地中海諸国では、政治的にはその日暮らし、すなわち未来像や発展の予告なく、生の設計も計画もなしに生きている。現在の緊急事態によって余儀なくされた政治形態と弁明する。大衆が権力を行使すれば必ず、軋轢は解決せず、一時的に避け、混乱を将来に蓄積する。★全能でありながらその日暮らし。大衆とは生の計画を持たない、波のまにまに漂う人間。だからこそ、大衆人の性格を分析し熟知せねばならない。経済学者ヴェルナーゾンバルト、ヨーロッパでは、6〜18世紀は1億8千万人以内だが、1800〜1914年までに4億6千万人となった。大衆の勝利というデータ。アメリカも1世紀間に1億人に増加した。ここで重要なのは、一人一人を伝統的文化で満たせないほど大量の人間が歴史上に吐き出されたということ。★強靭であるが単純な精神であり、近代生活の技術しか知らない原始人であり、道具はあっても歴史的使命への感受性はない。大衆は精神をいっさい關係を持とうとしない。
    →ハイデガー決断、精神
    大衆を解き放ったのは、前世紀に栄誉と責任がある。自由主義的デモクラシーと技術という二つの原理で、人間は1世紀で3倍に増殖する。ここからの帰結は、①技術的創造に基づいた自由主義的デモクラシーは社会的生の今までで最高の形式であり、②これ以上最良の形式があるとしても技術とデモクラシーを含まねばならない。③19世紀よりも過去の形式に戻ることは自殺を意味する。★
    しかし、19世紀は反逆的大衆人を産んだ。支配的決定権を持つ限り、30年内に野蛮状態に戻るだろう。法的、物質的技術は失われ、豊かな可能性は衰退と欠乏し、無力、真の没落となる。大衆人を知ることが極めて重要。
    ・六 大衆人解剖の第一段階
    大衆人とはいかなるもので、どのように生まれたのか。19世紀に大衆の危機は予見されていた。ヘーゲル、大衆は前進する。コント、新しい精神的な力を持たねばは属する。ニーチェ、ニヒリズムの潮が水嵩(みずかさ)を増してくる。歴史が予見されがたいというのは嘘で、しばしば予言されてきた。歴史家は裏返しの予言者である。予見しうるのは未来の一般的構造のみであるが、過去現在を理解しうるのもまたその構造のみ。自分の時代を眺めるには距離が必要。
    →柄谷行人批評者の外的位置
    大衆人の生は、まず経済的には、物質的容易さがある。地位が安定し、他人に煩わされなくなり、感謝すべき幸運だったものが、要求すべき権利となった。社会と国家がお膳立てした平均人と異なり、労働者は安定を闘いとらねばならなかった。さらに、肉体的には、快適さと社会秩序が付加された。生が自由無碍に見えた。それ以前の生では、経済的、肉体的に重苦しい運命、すなわち耐え忍ぶ以外ない障害の堆積だった。現代では、障壁がなくなり、法の前に平等。
    この新しい世界は、自由主義的デモクラシー、科学的実験、産業主義の3つである。あと二つは技術とまとめることができる。三つは17〜18世紀の発明で、19世紀の名誉は現実に扶植したところ。この世紀の本質である革命的特性は、社会的大衆をこれまでと別の条件に置いたこと。革命は、既存秩序への反逆ではなく、伝統を駆逐する新しい秩序を樹立すること。19世紀の人間は、社会的生の実行に関して、それまでとは全く別の人間である。過去の民衆において、生とは、制約、隷属、義務だった。圧力、圧迫。金持ちや権力者にとっても世界は貧困、困難、危険。19〜20世紀は、終わりのない成長を約束するかのように安心感を与えた。5年後に車が快適で安くなるだろうと、太陽が明日も昇るように考えている。技術的社会的完全な世界を目の当たりにして、自然が生み出したもので、天才の努力とは思い至らない。
    大衆心理の二つの特徴。①自分の生の欲望の無制限な膨張、②安楽な生存を可能にしたものへの忘恩。★まるで甘やかされた子供の心理。大衆を子供と思えば見誤ることはない。甘やかすとは、欲望に制限を加えず、制約も義務もないと印象を与えること。自身の限界を経験しないから、自分だけが存在すると思い込むようになり、他者を考慮せず、自分に優る者はないとする習慣がつく。優れた人間を実感するのは、欲望放棄の強制と、控えさせる義務ができたときのみ。新しい大衆は、可能性、安全な風土、物質的社会的組織、用意された全てを空気と同じように考えるほど知性が低い。大衆の最大の関心事は、自分の安楽な生活だが、その根拠に連帯責任を感じていない。★大衆は、奇跡的な発明と構築の努力と注意を見てとらないから、それらに対する権利要求しかしない。大衆は、飢饉ではパンを求める代わりに、パン屋を破壊する。
    ・七 高貴な生と凡俗な生 あるいは努力と怠惰
    我々は、かくあれと世界が招くところのもの。その魂は、環境の輪郭に沿って内側に刻み込まれる。生きるとは、世界と接触すること。現代の生の基本的な印象は、内部の声として生の定義を仄めかす。「生きるとはいかなる制約をも見出さないことであり、安心して生そのものに任せればよい。不可能、危険、他人に優るものは一人もいない。」★大衆は、自分以外のいかなる審判にも自分を委ねない。自分の意見、欲求、好みを自然で良いものと考える。なぜなら、満足感の根拠も創造・維持する能力がないことを自覚させる強制がないからだ。★環境に無理強いされない限り、自分以外に目は向けないだろう。他方で、優れた人間は、自分を超えた規範に注目し奉仕する必然性をもっている。★通俗とは逆に、奉仕に生きる人は、選ばれたる被造物。彼らは自分を超えるものに奉仕するのでない限り、生としての意味をもたない。奉仕の対象がなくなると、不安になり、より困難で苛酷な規範を発明する、これが規律ある高貴なる生★
    →カント道徳的自由、ハイデガー良心の声
    高貴さは、自らに課す要求と義務の多寡によって計られる。貴族には責任があるnoblesse oblige。ゲーテ、恣意に生きるは平俗、高貴は秩序と法を求む。貴族の特権は、闘い取ったものであるから、誰かに奪われない力を前提とする。しかし、人間、市民としての一般的権利は、受動的財産であり、全員に当然の収益である運命の寛大な贈り物である。この無人称的権利は自然に持っている権利であり、反対に特権など個人的権利は努力して維持する権利。「貴族」という語が日常言語で堕落したのは腹立たしい。
    →ルボン貴族性
    高貴な人nobleは、元々は、世間に知られた人という意味。したがって、名声をもたらす努力があった。つまり、努力の人、優れた人。ヨーロッパでは子に貴族の身分を世襲するが、中国では逆に親、先祖に伝達し、何代目まで遡るかによって等級が分かれている。現在貴族である人によって先祖が生きている。ローマで堕落したものとして貴族という語が使われ出した。しかし、貴族は、自己を超克する義務を課す態度の勇敢な生。反対に、静止し自閉する無気力で凡俗な生を大衆と呼ぶ。
    →大衆と貴族(エリート)の二項対立。
    強制によらない、自発的な努力をなしうる極めて数少ない人々は、孤立化し記念碑的存在になる。行動的な唯一の人、反応だけでない生。選ばれたる高貴な人にとって、生きるとは、不断の緊張、絶え間ない修練。★苦行者。優れた人間に取って代わった大衆を明確にするには、高貴な人と対置せねばならない。★
    19世紀は新しい人間に欲求と手段を与えた。経済的、肉体的、市民的、技術的手段。その後、野放しにされ、本質的傾向により満足して自閉した。大衆の魂の基本構造は、自己閉塞性と不従順からなる。大衆は、彼方にあるものに注目する機能が欠けている。文明を維持するだけでも鋭敏さを必要とするのに、まして文明の 
    起源を知らない平均人に推移を指導することは不可能。これまでの議論は、内的活動の結果である政治的な意味ではなく、社会的な生そのものについてだ。政治的頑迷さは、知的精神的に由来するから、その面を分析しよう。
    ・八 大衆はなぜ全てのことに干渉するのか、しかも暴力的に
    凡人に世界と生が開放されると、かえって自閉する。この平均人の魂の閉塞に、大衆の反逆が根差しており、大衆の反逆に今日の人類の巨大な問題の根本がある。たとえ私の主張が誤りでも、意見を異にする読者はこの問題を考えたことはない。つまり、意見作り上げずに意見をもつ権利があると信じ込む反逆する大衆の典型例。閉塞的、封鎖的な魂。知的閉塞性。自分の思想に満足し、知的に完全なものとみなし、外的なものを必要としないから、限られたレパートリーに住み着く自己閉塞のメカニズム。優れた人のうち、自己を完全と思う虚栄心の強い人でも、他人の意見を必要とし、ついには自身で完全者と思うことはない。しかし、凡庸な人間は、アダムのように楽園的で、自分の完全性に疑いがなく、自信がある。凡庸な人間は、他人のところへ自身を移す比較、すなわち崇高なスポーツをなしえない。★
    →アーレントカント的共通感覚、柄谷行人批判的精神の立ち位置。ただし現代人はむしろ他者と比較しすぎる。
    賢者は、常に愚者になる可能性を危惧して、愚劣さから逃れようと努力を続ける。この努力こそ英知。しかし、愚者は自己に分別があると疑わず、愚かさの中に安住、安閑する。
    "ばかは死ななければなおらないのであって、ばかには抜け道はないのだ。"
    →カント『純粋理性批判』注釈
    大衆は、利口で知的能力があるので、ばかではないが、能力を使用しない。凡庸人は、自らを優秀だというのではなく、むしろ凡庸であることの権利を宣言し、強行している。★かつての庶民は、信条しきたり経験格言習慣はあっても、政治や文学などの思想を持っていると信じたことはなかった。かつての庶民は、論理的思考を自負していなかったので、政治家の思想に自分や別の思想を対立させることはなかった。
    本来、思想というものは、真理を欲し、そのルールを認めねばならない。思想や意見を調整する審判、議論が依拠する規則がなければ、思想や意見は無意味。規則こそ文化の原理。★
    →カント道徳法則
    文化のない状態は、野蛮barbarie。野蛮こそ、大衆による危機。野蛮とは、規則の不在であり、控訴可能性の欠如。★文化の程度の高低は、規則の精度に比例する。大まかな生の規制から、人間活動の細部まで。知識の多寡ではなく、慎重さと用心が、真理を探し当てる条件。サンディカリズムやファシズムなどの奇妙なことが起き始めている。奇妙さは、新しさによるのではない。それは、理由を示して説得や正当化をせずに、ただ意見を押し通す人間が現れたこと。正当な理由をもたぬ権利、道理なき道理。能力をもたずに社会を指導しようと決心した大衆の新しいあり方。★知的自己閉塞。平均人は、自分の中に思想を見出すが、考える力をもたない。★大衆は、意見の主張のための条件と前提を認めないから、その思想はたんなる欲望にすぎない。
    思想をもつことは、その根拠を所有していると信ずることであるから、道理と、真理の世界の存在を信ずること。★したがって、思想と意見をもつことは、その審判、忠誠、法典と判決を受け入れること。最良の共存形式は、対話であり、それを通して思想の正当性を吟味することだと信ずることに他ならない。★
    →アーレントハーバマス熟議、柄谷行人交通、交換
    しかし、大衆人が討論を認めるならば、必然的に自己喪失に陥るから、本能的に外的審判への義務と絶縁する。★
    →カント道徳法則、義務
    ファシズムなどは討論の息を止めよ、という新事態。客観的規範への尊敬が前提される共存形式が嫌悪される。文化すなわち規範のもとの共存への拒否。野蛮的共棲への逆行。一切の正常な手続きを飛ばして、望むところを強行しようとする。
    →IT系マインドの大衆性との親和性?
    1900頃フランスのサンディカリスト・レアリストの「直接行動」の方法と言葉の発明。人間は古代から暴力に訴えてきた。暴力は犯罪にすぎないが、道理や正義を守るための最後の手段。このことは大いに嘆くべきだが、激昂した理性でもある。しかし、「直接行動」とは、暴力を最初にして唯一の手段とすることだ。暴力とは規則廃棄という規範、野蛮の大憲章。大衆が社会的介入をするときは、つねに直接行動。偶発散逸だったものが、いまや恒常的になっている。礼儀作法は消え、文学は直接行動という罵詈讒謗となる。手続き、規則、礼儀、調停、正義、道理の煩雑さは全て、文明civilzationの市民civisに起源をもつ。煩雑さで市ciudad、共同体、共存を可能にする。これらは、他人を頼りにしたいという欲求による。
    →ルソー社会契約論、一般意志
    文明とは、共存への意志。★他人に意を用いない度合いが未開、野蛮さ。野蛮とは分離への傾向。★野蛮とは、分散し敵対する小集団の時代。最高度の共存への意志は、自由主義的デモクラシー。★隣人を尊重する決意、「間接行動」。自由主義は、原則に従い自分を制限し、大多数と同じ考えでなくても生きていける場所を残すよう努めるもの。★自由主義とは、至上の寛容さ。
    →ルソー寛容、カント道徳法則
    自由主義とは、少数者に与える権利であり、敵、弱い敵と共存する決意の表明。★
    →ニーチェ強者を守る
    自由主義は複雑で難しく、大衆が廃棄するに至った。敵と共存、反対者と政治を行うという愛は理解しえなくなっている。大衆が反対者を圧迫し、抹殺する。
    →トランプアメリカ、保守派の人種差別
    大衆でないものへの憎しみ。
    ・九 原始性と技術
    大衆の反逆は、二つの側面をもっている。好意的、否定的を認めるだけでなく、要求する。善悪、勝利と死。ここに、歴史哲学とはいわないが、哲学的確信がある。歴史の絶対的予定説は信じない。歴史的生は、純粋な刹那、現実の一瞬において逡巡し迷うものである。★哲学的逡巡。
    →ニーチェ瞬間、ポストモダン
    大衆の反逆は、新しい人類組織への移行にも破局にもなりうる。進歩発展には、つねに退化後退の危険性がつきまとう。生は危険を本質とする唯一の実体。古い文化が生の残滓を引きずっているのはもちろんであり、間接行動すなわち文明は凶暴な簡素化の時代を求める。
    →ITの歓迎
    わずかなもので多くのものを得る簡素化は、いつの時代でもより良い解決策である。社会的生、政治的生は、真正な姿に戻ることを要求する。ヨーロッパ人は一度全て捨て去ってからでなければ跳躍できない。裸体化、真正化。過去にとらわれない発想の自由、すなわち未来によって過去への態度を定め指令、支配をすべき。19世紀は自分の責任と警戒を怠った。このことによる最も怖ろしい問題は、文明の諸原理に無関心な人間が社会的指導権を掌握したこと。これは、自然科学が生まれたルネサンス以来、科学への情熱がますます強くなってきた事実にある。
    →科学信仰
    文明廃棄と科学信仰の矛盾は、文明に現れた原始人、自然人であることを意味している。文明の人工的性格を知らない、野蛮人の垂直的侵略。技術と科学は同質同体であり、文化の一般的原理に興味がなければ、科学への情熱もなくなり、技術革新も起こりえない。人は技術によって生きているのではなく用いているだけで、技術は自らを養うことはできない。実験科学を行う者は、条件が限られており、数が少ない。
    →文化→科学→技術の順で前提している。
    実験科学、技術の歴史的前提を明らかにすることは重要だが、大衆人は理論ではなく肉体でしか学びえないので、説得しても無意味。つまり、科学への熱意はない。文化の全ての要素、政治、芸術、社会的規範、道徳が疑問視される中、実験科学だけが、大衆に影響を与えている。平均人が使用し、恩恵を与えている。
    →科学礼賛(らいさん)すぎる。
    しかし、第一世界大戦後、物理学者、化学者、生物学者を新しい賎民に変えてしまった。ちなみに、哲学は自己を完全に無益なものに見せかけ、そうすることによって平均人に対するいっさいの屈従から自己を解放している。★哲学は他人の役に立つことを目指していない。
    科学的無関心は、技術家大衆、すなわち医師、技師などに多い。最も恐るべき事実は、平均人が科学から受ける恩恵と、それに対する感謝の念の不調和。文明に現れた野蛮人、垂直的侵略者。★
    ・十 原始性と歴史
    文明とは技巧的で、芸術家あるいは職人を必要とする。大衆人にとって、文明は自然発生的な原生林としか見えない。文明を維持するための諸原則は、平均人には存在せず、文化の基本的価値に興味はないから、共同責任など負わない。その理由は、複雑に錯綜した文明の問題を理解しうる人間は少なくなっている。凡庸人に欠けているのは頭なのだ。★発達した文明の原理が通常人の理解を超える。
    過去に滅びた文明は、原理の不十分さで滅んだ。ギリシャ、ローマ人口増加に対する技術不足。しかし、今日の危機は人間が文明に追いつけていないこと。教養人であっても二百年前の概念で、今日の問題を話している。進歩した文明の度合いが大きければ、諸々の問題、危険も増大する。新しい世代は、より精巧な解決手段をマスターせねばならない。歴史的知識は、成熟した文明を維持し継続してゆくための第一級の技術である。★以前の素朴な誤りを防ぎうる。しかし、今日の教養人は、歴史的無知である。17〜18世紀の人間よりも歴史を知らない。18世紀は過去の過ちを避けるよう少数支配者の歴史的知識によって考慮され、19世紀の政治を作り上げた。しかし、19世紀の歴史的文化の放棄により、無邪気さと原始性への後退が始まった。ボルシェヴィズムとファシズムは、この本質的後退の明瞭な例。★凡庸で、時代錯誤で、古い記憶も歴史意識もない、典型的な大衆人の運動は、さも昔の人類に属するような振る舞い方をする。問題は、過去の革命と全く同じで、その欠陥と誤りが修正されていないこと。「革命はそれを生んだ子どもまで飲み込み」、「革命は極端分子の手に移り、すぐに復古へ後退する」。また、革命は一つの世代、15年以上は続かない。
    縮図的過去を蔵することこそ、過去を超克する条件。★未来が勝つのは、過去を飲み込むから。過去の何かを残すなら未来の敗北。したがって、19世紀の自由主義は超克されねばならないが、反自由主義のファシズムは自由主義以前の態度であるから、不可能である。また、自由主義が一度勝ったのであるから、反自由主義となってもそれが繰り返されるか、破壊に終わるかしかない。★つまり、自由主義の方が新しく、優れた生である。反アンチ-という態度は、その反対物を前提としているため、否定的態度の後に残るのは古物である。反対物がない世界とは、反対物以前、すなわち過去である。★反アンチは、単なる空虚なノーにすぎない。ノーというだけで過去は消せない。なぜなら過去は黄泉の国から戻る亡霊revenantであり、必ず戻ってくる。過去に打ち克つには、常に目前に入れて避けること。★それが時代の高さに生きること。★
    →デリダ、マルクス亡霊
    過去は、そのことを認めるよう要求するだけでなく、正当性も要求するが、本来正当なこと以外は拒否せねばならない。これが19世紀の自由主義を超克する条件。
    →批判と否定を混同するエセインテリを断罪する。
    逆説的にいえば、大衆の勝利の特徴が、この時代錯誤である。保守派も急進派も大衆である。反逆的庶民。我々が過去の過ちから逃れるためには、歴史を必要とする。★
    ・十一 「慢心しきったお坊ちゃん」の時代
    ヨーロッパの歴史が初めて、凡庸人の決定に委ねられるに至った、あるいは凡庸人が世界を支配する決心をした。この大衆人は、①生は容易で豊かで無限だと感じ支配と勝利の実感を得ている。そのことが、②あるがままの自分を肯定させ、道徳的、知的に完璧だと自負させる。この自己満足が、外部示唆や自己懐疑、他人の存在を受け入れない自閉性となる。そして、同類しかいないと思い込む。したがって、③あらゆることに介入し、凡俗な意見を、配慮内省手続遠慮なしに直接行動で強行する。★甘やかされた子供、反逆的未開人、野蛮人。
    "拙論は、勝利を謳歌するこの新しい人間に対する攻撃的論文第一号に他ならない"。
    快適さや安全性などの文明の便益という、遺産相続以外何もしない相続人。過剰で怠惰な生においてのみ大衆人が現れうる。贅沢が生む奇形。貴族の世襲と同じ。自分自身の個人的運命を生きる余地なく、他人を演じなければならない。
    "生とは、自己自身たるための戦いであり、努力である。"★
    →ローティ自己創造、私的完成
    有り余る可能性は、人間の存在形式に重大な欠陥を生んだ。貴族に特徴的な傾向が大衆人にも芽生えつつある。★勝負事、スポーツを仕事にしたがる、衛生や衣服への関心、女性関係のロマンティシズムの欠如、知識人への蔑み、自由議論よりも絶対的権威下の生活を好む、など。近代文明が産んだ産物。平均人は、効果的な道具薬品国家権利の発明と維持の難しさを知らない。自己に責任を感じない。生の真正さを奪い、腐敗させる。この最も矛盾した生の形態は、「慢心しきったお坊ちゃん」。家庭内では何の罰も受けないが、家の外でも同じように振る舞う。人間はしなければならないこと以外なしえない。唯一の可能性は、それを拒否すること、否定する意志、否志noluntad。しかし、それは真正な運命から離脱して、低次の段階に囚われの身になること。今日のヨーロッパ人は、自由主義的でなければならない。コミュニストとファシストにも同じように作用する。運命の真理であり、理論の真理のように議論することにはなく、受け入れるか否かにある。慢心しきったお坊ちゃんは、不可能と知りながら反対の確信を持って言動する。政治的自由が必要となれば帰ることができるという、不真面目と冗談という大衆人の生の主調音。★取り消しできない行為の真剣さに欠ける。
    →Twitter
    真の悲劇はありえないと弄んでいる。
    二に二を加えたら五になると主張したとしても、そのために死を厭わないとしても、彼自身そんなことを信じていないのだと考えざるをえない。
    →オーウェル『1984』
    人々は、自己の運命を回避しようと努力している。笑劇。修辞学が栄える。過去においても、地中海文明の絶頂期に、犬儒主義者ディオゲネスが現れた。破壊の試み、ヘレニズムの虚無主義者。文明がなくならないと信じているから否定できた。★環境は、文明、つまり一つの家庭であるから、「良家の御曹司」は外部の審判や義務を何も感じない。
    ・十二 専門主義の野蛮性
    →専門家を配置するルボンと異なる。
    19世紀文明の自由主義的デモクラシーと技術のうち、ここでは後者を取り上げる。技術は、資本主義と実験科学の結合で生まれた。ヨーロッパのみが科学基盤の技術で無限の可能性を持ちうる。それ以外はある程度から退化し始める。近代技術は、量的に大衆人を生み出した。今日、社会的権力を行使しているのはブルジョワジー。その中で貴族とみなされるのは専門家、すなわち技師、医者、財政家、教師など。最も純粋な専門家は、科学者。今日の科学者こそ、大衆人の典型。★それは、科学という文明の根源が科学者を大衆人に変えるから。これはすでに周知であり幾度なく指摘されてきた。実験科学は、16世紀末ガリレオに創始され、17世紀末ニュートンに体系化され、18世紀中葉に発展を開始した。実験科学の集合名詞である物理学は、ニュートンらに総合の試みがなされたが、発展のためには逆に科学「者」の専門化が必要だった。科学は他の学問と切り離しえないが、科学の労働は専門化せざるをえない。そのことによって他の科学分野との接触を失い、ヨーロッパ的科学文化文明に値する唯一のもの、すなわち宇宙の総体的解明から遠ざかる。百科全書派を文明人と呼んだ時から専門化傾向が始まった。その3世代目には、自分の研究する特定分野しか知らない科学者が現れた。しかもそのことを美徳とし、総合的知識をディレッタンティズムと呼んだ。しかし、そのことが科学の総体を発展させた。凡庸以下の人間を働かせることを可能にした機械化、機械的頭脳労働により、無数の研究分野が生まれ、豊富な結果を得られた。こうして生まれたのが、特定分野しか知らないのに、ものを知っている自信をもつ専門家。
    →総合的把握や説明のできる人間の必要性。タコツボの無能と幅利かせ。
    専門家は、人間の新種を示す好例。かつての識者と無知の二分に属さない。
    (誤字:無知者としてふまるう→ふるまう)
    このことが重要な問題なのは、専門家が自分の知らないこと以外も、知者のように傲慢に振る舞うこと。★自己に閉塞することに満足する。大衆人と同じように振る舞う。今日、かつてないほど学者が多いのに、教養人が少ない。科学の発展のためには、再編成、すなわち総合の努力を必要とする。複雑化する今日ではますます困難になる。ニュートンは哲学的知識なしで物理学体系を創造できたが、アインシュタインはカントとマッハに没頭せねばならなかった。社会と人間の心が有機的に結び合わされていなければならない。科学者を目指す者が減っていることは文明にとって憂慮すべき兆候。科学者も同じで、文明を単にそこにあると考えている。
    ・十三 最大の危険物=国家
    社会が秩序づけられているときは、自分からは何もしないのが、大衆の使命。大衆は、指導、影響、代表、組織され、大衆であることを止めるため、もしくは止めることに憧れるべく、この世に生まれ出た。自分ではなにもせず、優れた少数者を必要とする。これはいわば社会的物理学の法則。優れた人を必要とすることを自力で見つけた人は、優れた人、選ばれたる人であり、そうでなければ大衆人である。したがって、大衆が自ら行動するのは、運命に反すること。だからこそ、大衆の反逆が問題なのである。★反逆は、自己の運命に反すること。
    大衆の自ら行動する方法は、私刑リンチ一つしかない。大衆の勝利は、暴力の勝利。
    "人間的現実がその歴史を完了し、難破し、死にたえた時、それは打ち寄せる波によってレトリックの岸辺に打ち上げられ、そこで死骸として長く生き続けるのである。"
    →フーコー『言葉と物』人間が波打ち際の砂のように消える。
    国家は、科学と同じように進歩によって、文明を脅かす危険物と化した。国家は、18世紀に中産階級ブルジョワジーによって組織、規律、継続性を発展させたが、もとは中世貴族の感傷本能直観の非合理で建造された。社会的権力と社会的な力の不均衡により革命が起き、安定化した。今日の国家は、文明が生み出した巨大な機械である。大衆は、国家を人間が発明し維持しているものだとは認識せず、匿名の権力としてその自らへの保証と所有を要求する。今日の危険は、国家の介入による生の国有化、すなわち社会的歴史的自発性の吸収。★2世紀アントニヌスの時代に、生の官僚化がなされ、国家のために軍国化した結果、出生率が下がり、外国の傭兵に頼り、外国に乗っ取られた。ムッソリーニが「全ては国家のためにある」というのは、ファシズムが歴史的無知の大衆の直接行動だという証明。自由主義的デモクラシーによって構築された国家に反して、国家を無節操に使う矛盾。国家主義は、規範化した暴力と直接行動がとりうる最高の形式で、大衆は国家という匿名の機械を手段として自ら行動する。★大衆支配は自由を踏み躙り、未来の息の根を止める。秩序を愛する大衆が希望する、警察力の増大はその具体例であるが、権力自身に都合の良いものとなるのは至極当然。1800年ごろ、産業労働者による犯罪が増え、フランスでは巨大な警察を作ったが、逆にイギリスではそれが高い代償だと知り、自由を尊重し、犯罪を忍んだ。無秩序は自由の身代金。★
    ・第二部 世界を支配しているのは誰か
    ・十四 世界を支配しているのは誰か
    大衆の反逆は、人間の生の驚異的な成長である一方、道徳的退廃である。歴史時代の変化は、人間精神の内面的変化と、権力の位置転換による形式的機械的な外面的変化。しかし、権力の位置転換は、必然的に精神の位置転換をもたらすから、時代を理解するためには、世界を支配しているのは誰かを把握する必要がある。16世紀に人類は統一化を始め、今日終着点に達した。この近代という生の様式は、ヨーロッパの覇権による様式の統一が背後にある。支配は、力ではなく、権力という社会的装置、機械による。★
    →フーコー権力装置、ドゥルーズ機械
    "支配とは権威の正常な行使である。それはつねに世論に支えられている"。★世論以外の支配はない。世論は支配という現象を生み出す基本的な力。このことは人間と同じく古く、恒久不滅の事柄。ヒュームの洞察、歴史学の課題は、世論の至上権が人間社会の現実であることを示すこと。支配とは、力を奪うのではなく、静かに行使すること、すなわち座ること。国家とは、世論の状態、均衡状態、静態。★意見が分裂していれば世論はないが、暴力がその空白を埋めることになる。世論に反して支配はできない。支配権力とは精神力。原始時代の支配権は神聖なものとして宗教を基礎にもつが、宗教的なものこそ、精神、理念、思想の形而上的なものを背後にもつ最初の形式。中世にはさらに大規模に繰り返された。ヨーロッパの最初の国家権力は、精神的支配権の主体たる教会。政治的権力は、本来精神的権力、つまり理念の有効化であることを

  • アバタロー氏
    1930年出版
    大衆社会の到来を告げ、その問題点について分析した大衆社会論
    同じころラッセルが「幸福論」を出版

    《著者》
    1883年生まれ
    7才ドン・キホーテを暗唱
    15才マドリード大
    21才哲学の博士号

    《内容》
    1930年代はファシズム台頭
    大衆という支持基盤が存在している否か、これが従来の独裁システムとファシズムの大きな違い

    自分に何らかの特別な要求をしない人を大衆とした
    特徴として、自分より優れている人は嫌い、欲望は抑えない、自分がよければいい、他人は考慮しない、義務もない、社会保障制度やインフラなど当たり前に受け取っている

  • 今の時代でも言えることが書いていて、人間は歴史を繰り返すのだなと思った

  • 1930年刊行。某経済誌で今読むべき古典と紹介されていた。
    たしかに、名言・格言だらけ。例えば、

    「人間を最も根本的に分類すれば、次の二つのタイプに分けることができる。第一は、自らに多くを求め、進んで困難と義務を負わんとする人々であり、第二は、自分に対してなんらの特別な要求を持たない人々、生きるということが自分の既存の姿の瞬間的連続以外のなにものでもなく、したがって自己完成への努力をしない人々、つまり風のままに漂う浮標のような人々である(p18)」

    「今日の特徴は、凡俗な人間が、おのれが凡俗であることを知りながら、凡俗であることの権利を敢然と主張し、いたるところでそれを貫徹しようとするところにある(p22)」

    「大衆の反逆とは、人類の根本的な道徳的退廃に他ならない(p179)」

    刊行から約100年。デジタル革命を経て「大衆の反逆」は、より深刻さを増してるようだ。平凡に居直る「浮標」にならぬよう生きていこうか。

  • この本は、1930年にスペインで生まれのオルテガによって書かれたものですが、現在の日本の「空気感」、「閉塞感」や、経済的にもピークを超えた日本の社会状況ととても似ていて、内容的にも新刊本を読んでいる感じになり、驚きました。
    過去にも同じような社会状況が繰り返されており、現在読んでも、とても参考になる名著でした。
    ぜひぜひ読んでみて下さい。

  • 4年ほど積読の後、読了w
    大昔読んだ侏儒の言葉と似た雰囲気。イギリス・ドイツ・フランスを挟んで、アメリカとロシアが対峙している。話題は流れ流れて、なんとなくダウナーな方向へ。

  • それ以前の人々にとって生とは重苦しい運命だった。しかし、現代の「大衆」=「平均人」は、彼を取り巻く世界に甘やかされている。経済的、肉体的、社会的安楽さをあたりまえのものと思っている。

    近年のヨーロッパに蔓延する無力感は、「潜在能力の大きさ」と「政治機構の大きさ」とのアンバランスから生まれる。

    「国家というものは、人間に対して贈り物のように与えられる一つの社会形態ではなく、人間が額に汗して作り上げてゆかねばらないもの」

    国家を成り立たせる要因は、血縁でも、言語でも、過去でもなく、「われわれが一緒になって明日やろうとすること」

    「国家は一つの事物ではなく、運動である」

    「ヨーロッパ大陸の諸民族の集団による一大国民国家を建設する決断のみが、ヨーロッパの脈動をふたたび強化しうるであろう」

  • 読んだのは角川文庫。
    国家の記述には不賛成。(均質な国家になる必要はないが)旧植民地がそれぞれ独立して自決することには意義があり、無計画で失敗があっても、宗主国の後継者など必要ないのではないか。

  • [2022年1月1冊目]思考停止に陥っていないか、常に自らに問いかけ続けること。

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