- Amazon.co.jp ・本 (351ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480086280
作品紹介・あらすじ
「私が書いたもののなかで最も良い本であると同時に最も親しみやすい本」と自ら述べた奇才バタイユの最後の著書。人間にとってエロティシズムの誕生は死の意識と不可分に結びついている。この極めて人間的なエロティシズムの本質とは、禁止を侵犯することなのだ。人間存在の根底にあるエロティシズムは、また、われわれの文明社会の基礎をも支えている。透徹した目で選びぬかれた二百数十点の図版で構成された本書は、バタイユ「エロティシズム論」の集大成。本国フランスでは発禁処分にされたが、本文庫版では原著を復元した。新訳。
感想・レビュー・書評
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去年古本屋で購入。図版入りで読みやすいかと思いきや結構重かった。ようやく本日読了です。
ジョルジュ・バタイユの最後の著作だけあって、この本以前に出されたエロティシズムに関する論考の中ではかなりまとまっています。一つの完成形体だと思いました。死の認識からエロティシズムが生まれ、労働から人間らしさが、そして芸術が生まれる。戦争が生まれ、そこから娼婦と奴隷制が生まれる。こういう人類史観は説得力があって面白いですね。
中身をざっくり言えば、絵画論と人物評(主にサド)です。解説したいトピックに関係のある絵画は図版で一緒に収録されていますから、絵を見ながら読み解いていくと徐々に分かってくる仕組み。ただし、文章自体はかなり文学的というか詩的な書き口なので、『エロティシズム』等他の著作も合わせて読まないと内容に関してはやや難解だと思います。
むしろ、「バタイユの世界を味わう」くらいの気軽さで、最初は余り考えずにパラパラとめくるくらいがいいんじゃないでしょうか。好きな人は好きになるでしょう。ただ、中国の処刑の写真などひたすら痛いしグロい箇所もあるのでそういうのに弱い人は閲覧注意。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
写真ヤバい!!/ここで私が意図しているのは、ある根本的な関係、すなわち、宗教的恍惚とエロティシズムーとくに、サディズムーとの関係を明らかにすることである。/マニエリスムは熱狂の追求なのだ!/意識的でないものは、人間的でないのだ。/百刻みの刑(阿片)、受刑者の恍惚。/死に行くものを眺めつつ、それに同一化することで、自らの死を体験する。客体である犠牲の破壊と解体が主体の恍惚を引き起こす。聖なるもの。
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再読。とにかく図版が多いので、それだけでも十分楽しいし、従来のバタイユよりわかりやすい。
石器時代の洞窟画や石器から始まって、以降の絵画、芸術、現代美術まで網羅されていて、それらを順番に眺めてるだけでも何かしら把握できそう。
最後ほうの中国の処刑写真だけはさすがに悪趣味だと思った。最近「白檀の刑」を読んだけれど、実際の処刑はあそこまでお手並み鮮やかにいかないよね、当然。 -
初めてのバタイユ。
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エロティシズムは生きる手段に過ぎない労働に対置されるようなもので、燃えるような情熱を伴い生きる目的にもなる。労働は富を生み出し、富は過剰に蓄積されることで、富に対する欲望を減衰させる。
バタイユさんは、エロティシズムと死を結ぶつけているんだけれども、そこのところはこの本ではよくわからなかった。もう一つの著書「エロティシズム」の方に哲学的に書いてあるみたい。
ギリシャ時代の知への愛エロス。なんか…情熱的になれるのがエロティックな関係なんだろうな。たしかにそんな情熱がなくなっちゃたら、毎日が、分別臭い面白くもないただの生活になっちゃうもんな…
ちなみに、350ページの本だけど、ほとんどが絵画や写真なので一日で読めます。文章も意味ありげで刺激的です。 -
バタイユの根底には、エロティシズムがある。言うなれば、フロイトのリビドー論なのだけれども。そこへバタイユなりのロマンのようなものが詰め込まれているのだろうと思われる。どうしたって、エロティシズムに恍惚は避けられないし、そこにはロマンが入り混じる。それに恍惚をどういうときに強く感じるのかといえば、それは、「死」だ。恍惚を呼び寄せたければ倒錯すればいい。倒錯とは、「理性の拒否」であり「理性の放棄」である。また、「禁止事項への侵犯」でもある。かくして、「罪悪感のような言い知れぬ感情がこみ上げる」わけだが、その背徳感がなおさら恍惚を呼び寄せる、という仕組みである。フロイトも同様なのだが、彼らに哲学的な才能がないのは、彼らは緻密な議論を経ないからだ。まず最初に、「リビドーこそが人間の根源だ」とか、「エロティシズムこそが根源だ」といったことを直観的に信奉しそれを真理のようなものとしてすえてしまう。そこから、それを明証するための資料を集める、といった具合に。有る意味科学的手法がとられているわけだけども、哲学というのはそういうきれいなものではないのだ。一つ疑問がありそれを延々と考えていく。そういう、営みであろう。彼らにとっては疑問というよりも、予め答えが用意されている。そういう意味で彼らには才能がないと感じる。ただ、フロイトは精神科医だし、バタイユは評論家なのだから、そんなのはあんまり関係がないかもしれない。
だからか、バタイユの議論には深みがない。緻密さがない。あるのは、確信だけだ。もちろん、その確信にあれこれ肉付けがされていく。起源は遡ればよく、遡って自分に都合のよい説明を見つけてくればいい。ただ、バタイユが述べていることはそれが全面的に当たっているということはなくとも、非常に鋭いところをついている。ただ、致命的なのは、それが哲学ではないというその一点だけである。彼が哲学的にあれこれを論じたかったのなら、問題かもしれないが、さもなければ、十分に読み応えの有る文章である。彼の表現は詩的であるし、それが平易な内容を理解しがたくさせてもいるのだが。ちなみに人間が動物と異なるのは、人間が「死の意識」を持つからであり、「労働」するからである。なので、エロティシズムもそこから生じている。後に、戦争や奴隷制などが生まれ、エロティシズムは個人的な富や権力に支配されるようになり、やがて、戦争が理性によって規格されるようになると、よりエロティシズムは侵略されていくこととなる。戦争とは富の過剰生産であるので、それは物質的な享楽とは相反するし、何かしらの計算・分配による解決法が模索されるべきである、というのが現代への警句なのかな。ともかく最終的にエロティシズムは、「恍惚」と「恐怖」を相反して対置させながらも、そこへ共通項を持ちうる、同一性を持ちうるものだと定義している。恐怖とは死の意識であり、恍惚とはエロティシズムによって得られる喜びだろう。言うなれば、「刺激性」なのだろう。それが、人間の「起源」であり「原動力」だと、彼は述べたいのかもしれない。ただ、彼としては、エロティシズムに迫れば迫るほど遠ざかってしまうのだろう。実際のところ、第一章からまるで話が進んでいない。延々と、円周を巡っているような印象を本著からは受ける。近づこうとすれば遠ざかる。しかし、書きたいものを書けば、実は、それが書ききれないことが、何かを取りこぼしてしまったことに気づくというのは珍しいことではない。といったたりでフェードアウト。 -
「私が書いたもののなかで最も良い本であると同時に最もしたしみやすい本」と言われているジョルジュ・バタイユの【エロスの涙】。
折角のバタイユの文章が、中学高校生の英訳文みたいな文章を少し小難しくしてみましたみたいな。
わかり辛くて、読んでいてイライラ。
良さが損なわれてるような気がする。
他の訳で読みたい。 -
ちくま新書バタイユ入門から。