20世紀思想を読み解く: 人間はなぜ非人間的になれるのか (ちくま学芸文庫 ツ 6-2)
- 筑摩書房 (2011年11月9日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (306ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480094148
作品紹介・あらすじ
「人間」とは、自由で平等な近代社会を作るための発明品だった。そして、それは理性的で主体性をもつ個人のはずだった。ところが、巨大化し機械化する都市の孤独のなかで、この人間たちは気づかされる。「理性と主体性のある「私」なんて嘘だったんだ!」このときから「人間」は「非人間的」な存在へと急速に劇的に変貌していった。「自由な個人」から「全体主義的な群衆」へ、「理性的な主体」から「無意識に操られる客体」へ。何がどのようにして起こったのか。その思想的背景を、キィワードごとに、壮大なスケールで描きだす「非人間」化の歴史。
感想・レビュー・書評
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20世紀の思想や芸術の中に、「人間性」と「非人間性」との境界線のぶれが生じていることを見つめる試みと言えるように思います。
20世紀中に起こった2つの大戦、そしてホロコーストや原爆の悲劇は、啓蒙によって自然からの離脱をめざした近代的な人間理性の中に、非人間的なものが入り込んでいることを示しました。一方芸術の分野では、理性の支配に対する反旗が翻され、さまざまな前衛芸術運動が起こりました。さらに20世紀後半から21世紀にかけて、メディアの発展や大衆社会現象の広がりは、啓蒙的な理性の支配を追及する人間の営みが、メディア的環境のような新しい自然の中へと人間が溶解していく状況を招来しつつあることを示しているように思えます。
本書で著者は、岡本太郎の「太陽の塔」の解釈に力を注いでいます。自分なりに著者の解釈をまとめてみると、太陽の当の切断された首に「無頭人」の契機を、首から流れる赤い血と塔の中央下部にある胎児の顔に「繁殖性」の契機を読み取るというものに思われます。そしてここにも著者は、「人間性」と「非人間性」の緊張を孕んだ混淆を認めています。
扱われている主題が大きいためか、やや議論が拡散してしまっているように見受けられます。ただし、著者の提起している問題の重要性は納得のできるものでした。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
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人間から非人間へ。文化史はよく知らないので、へぇへぇという感じだった。芸術と思想の結びつきがおもしろい。
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「個人主義の社会は必然的に大衆社会となる」――
アンシャンレジームからの脱却は、結局、「都市市民」という新たなトライブを生むことでしか無い。「元々特別なオンリーワン」と唱える「集団」が生まれるだけ。
そもそも個人主義・ヒューマニズムとはなにか。その言葉自体が幻想ではないのか。単に西洋社会が生んだ幻想ではないのか。
柳田國男「美濃のある炭焼きの話」という陰惨な逸話に魅了された岡本太郎のコメント――
「ヒューマニズムとか道徳なんていう、絹靴下のようなきめですくえる次元ではない。この残酷である美しさ、強さ、そして無邪気さ」「その基底にある生命の躍動」