自発的隷従論 (ちくま学芸文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480094254

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  • 16世紀半ば、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ若干16歳もしくは18歳の時に著された小論文。啓蒙時代以前の著作であり、近代・現代思想の洗礼を受けてきた現代人にとってみれば、その「自由」概念は驚くほど牧歌的で微笑ましいものではあるが、そうだからこそ逆にあらゆる支配形態下の人々に訴えかける普遍性を持ち、本書における思想が時々の支配者に危険視されてきたにもかかわらず底流にて読み継がれ、あるいは時宜を得るや様々な思想家の手で引用され浮沈を繰り返してきたともいえる。
    ラ・ボエシは問いかける。圧政者は1人であるにもかかわらず、なぜ大多数者である人々はそれに抵抗せずにみずから彼に屈し、その圧政を支えるのか?「あなたがたを支配しているその敵には、目が二つ、腕が二本、からだはひとつしかない」というのに!
    ラ・ボエシによれば、まず、自然状態ではあらゆる人間は自由であるとする。個々人の知性や体力はもちろん平等ではない。だが、そうであるからこそ、お互いを「友愛」の精神にて連帯・扶助し合わなければならないはずで、本来、他者を隷従させる欲望は持っていないはずである。にもかかわらず、人は「ことばが名づけるのを拒むような悪徳」=自発的隷従を選択してしまうのだという。
    「信じられないことに、民衆は、隷従するやいなや、自由をあまりにも突然に、あまりにもはなはだしく忘却してしまうので、もはやふたたび目ざめてそれを取りもどすことなどできなくなってしまう。なにしろ、あたかも自由であるかのように、あまりにも自発的に隷従するので、見たところ彼らは、自由を失ったのではなく、隷従状態を勝ち得たのだ、とさえ言いたくなるほどである。」
    そして、ラ・ボエシが考えた自発的隷従の第一の原因は「習慣」なのだという。長い間そう信じ込まされることにより、隷従は自然なものだと考えてしまうということだ。
    次に圧政者側の詐術も指摘する。その支配を持続させるために圧政者が提供するものとして、「遊戯」「饗応」「称号」「自己演出」「宗教心の利用」を挙げる。「圧政者どもは、おのれの地位を確固たるものとするために、民衆を服従の、ついで隷従の状態に慣れさせ、ついには自分を崇拝するにいたらせるべく、たゆまぬ努力を重ねてきた。」
    最後に、圧政者のおこぼれにあずかる数人の家臣の存在を指摘する。数人の家臣はさらに十人ほどの手下を優遇し、さらにその手下は・・・というように利益のうま味に群がる末広がりな「小圧政者」の群れがこうした支配構造を支えるのだとしている。
    しかし、こうした圧政者どもは絶えず身の危険に怯え、他者との友愛関係も持てない孤独な存在であり、小圧政者にしても絶えず上の顔色を窺い気持ちを忖度していかねばならない境遇であり続けるため、全く幸福ではないと切り捨てている。
    ラ・ボエシはこのように「自発的隷従」が発生する理由を鋭く洞察するのであるが、解説のスタンスとは逆に、自発的隷従への軽蔑と圧政者(支配者)への強烈な嫌悪感を露わにした煽動的な小論になっているように思われ、実際、支配者側からは過激思想として扱われ続けてきたような気がする。「もう隷従しないと決意せよ。するとあなたがたは自由の身だ。敵を突き飛ばせとか、振り落とせと言いたいのではない。ただこれ以上支えずにおけばよい。そうすればそいつがいまに、土台を奪われた巨像のごとく、みずからの重みによって崩落し、破滅するのが見られるだろう。」
    ただ、牧歌的にせよ、大いに傾聴するべき提言ではあるのだが、事例が古代ローマやギリシアなどの事例に(たぶん)意図的に限定していることといい、特に自らが属し、後に役人ともなったフランス王国と国王へのおもねりの文章については、これは同一著作内の文章か!?と見まごうほどの掌返しぶりであり(笑)、いかにラ・ボエシの論旨が楽観し過ぎであり、現実に適用しづらいものであるかを身を持って示しているのではないだろうか。(笑)
    だが、こうした時代的制約を踏まえてもなお、本書が展開する素朴ではあるが人間の「自由」を追求する考察は、今後もなお引き継がれていくべきであろう。
    本著作にはその真意を巡る評論や本歌取りの論文が多く存在するとのことで、本書でも懇切な解説やあとがきとともに、シモーヌ・ヴェイユとピエール・クラストルの小論も併録されている。
    シモーヌ・ヴェイユの『服従と自由についての省察』は、服従するものがそれを覆そうと一致団結する姿を見ながらも、その瞬間は長続きするものではなく、また、人間の精神は信じられないくらい曲がりやすく他人の影響を受けやすいとした上で、人間の生における高貴な部分(思考、愛)は社会秩序にとっては有害なものであるから、社会秩序はそれを絶えず排除しようとするが故に本質的に悪であるが、全体善を否定することもできないので、あえて言うなら自由を愛する人々は闘争の火だけは消さないようにとの希望を込める静かだが熱のこもった評論になっている。
    ピエール・クラストルの『自由、災難、名づけえぬ存在』は、「災難」とは「国家の誕生」のことであり、そのような「歴史」を誕生させてしまったがために「区別」=「隷従」関係が発生し、人間を脱自然化してしまったとした上で、人類学の視点から、南米の先住部族では支配・被支配関係を成立させない原理を働かせている事例を挙げて、「区別」のない人間関係の可能性に言及する力のこもった評論である。
    巻末の解説もそうであるが、どうもラ・ボエシのこの小論は、各人が直面している「自由」への想いを触発する書であるようだ。

  • モンテーニュがその才能を賞賛していたラ・ボエシの本を読む。なんか時代的に意外なタイトル。
    色んな時代の色んな党派がこの小論を基にアジテートしてきたというのも頷ける、汎用性が高い内容。自分だったら、今の職場に当てはめて読んだ。
    議論の出発点の、自由は人間の本性が求めるものということの根拠として、人間が同じ形をしていて、能力に差があるのは、互いに助け合うためであり、隷従状態はその対極にあるということを挙げている。これをさらっと前提にしているの、良いな。

  • 当時は教会が政治との結びつきが強く、政治扇動の書として誤解されることを防ぐため、友人のモンテーニュがラ・ボエシの死後も発表を躊躇したという書籍。

    人は力や謀略により強制的に服従することはあっても、強制されずとも自ら進んで権威に服従するのは何故か。この自発的隷従のメカニズムついて様々な考察を示し、最も唾棄すべき悪徳として痛烈な批判を浴びせている。翻訳の絶妙さなのか、ラ・ボエシの批判的な文章が妙に強烈なのが印象的だった。


    【一部引用】

    彼らは強制されもせず、いかなる必要もないのに、圧政者に身を委ねた。私はこの民の歴史を読むと、きわめて大きな恨みの念を覚えずにはいられない。われながらまるで人間らしさを失って、それ以後彼らに訪れたかくも様々な災厄を喜びたい気持ちになるほどだ。

    私は勇壮な人でも、高貴な生まれの人に語っているのでもない。ただ普通の常識ある人、さもなくばただ人間の顔を持つ人に対して語っている。こんなふうに生きるより悲惨なことがあるだろうか。自分では何も持たず、自分の幸福も自由も、身体も命も他人にゆだねるとは。

    もう隷従はしないと決意せよ。逃れたいならば逃れたいと望むだけでよい。敵を突き飛ばせとか、振り落とせと言いたいわけではない。ただこれ以上支えずにおけばよい。

    臆病と呼ばれるにも値せず、それにふさわしい卑しい名が見あたらない悪徳、自然がそんなものを作った覚えはないと言い、ことばが名づけるのを拒むような悪徳とは。

  • 訳注と解題、付論、解説を合わせれば、本文のほぼ倍の分量に相当する構成になっており、翻訳というより論文集といった趣きである。誤読も含めた多層的な「読み」を許容するラ・ボエシの魅力を余すところなく伝え、文庫本としては異例とも言うべき密度の高い一冊である。

    中でも訳者の山上氏による解題は手堅く、抑制がきいた中にも自説をしっかり盛り込んだ秀逸な論稿である。特に、ラ・ボエシにおける「公正」を社会的役割に応じた他者への奉仕であるとし、その基礎に彼の「友愛」概念をもってくる慧眼には脱帽する。この本に当時の農民一揆への共感を読み取ろうとする解釈に慎重な姿勢を示したのも穏当な判断であろう。

    山上氏の解題が厳密な文献研究の成果であるとすれば、ヴェイユ、クラストルによる付論と西谷氏の解説は、ラ・ボエシの所説に触発されながらも、そこから比較的自由に関連する論点を独自の視点で展開したものである。三者に共通するモチーフは「自発的隷従」の呪縛から脱することの宿命的とも言うべき困難性である。ヴェイユは多数者が一者の支配を転覆できないのは多数者が多数であるがゆえにバラバラで団結できないからという、極めて興味深い社会学的分析を行っている。また、クラストルは人類学の知見によりながら、未開社会から文明社会・国家の成立への歴史の流れは不可逆であって、自由・平等という人間本性に合致した「自然」への回帰、即ち「自発的隷従」の廃棄はほとんど絶望的であることを示唆する。そして西谷氏はアウグスチヌスやカズオ・イシグロに寄り添いつつ、隷従こそ自由であるという、これまた人間本性に裏打ちされた逆説的な命題を提示する。(ただし日米関係に自発的隷従を読み取るのは牽強付会と言われても致し方ない)

    順序が逆になったが最後に本文について一言しておく。圧制は隷従と表裏一体であり、かつ隷従は自発的であるという指摘自体は、16世紀ならともかく21世紀の今日、それほど新鮮にひびくわけでもないが、小圧制者を掌握することが圧制の要諦であるという論理は、圧制のみならずあらゆる権力に通じる理論的射程を有すると思われる。また、一方で圧制を強烈に批判しながら、他方でフランス王権に恭順の意を示すラ・ボエシの態度は一見矛盾のように見えるが、そもそも彼の念頭にある圧制はペルシャやトルコ、ローマなどの所謂専制君主であり、封建契約を前提としたフランス王権とは似て非なるもの。その封建君主と諸侯、家臣団の紐帯こそ彼の重視した「友愛」に他ならないわけで、そこに何の矛盾もない。

    補遺
    西谷氏が自発的隷従を圧政者に対する小圧政者の態度に当てはめているのは誤読だとする安冨氏の指摘はもっともだが、一方で安冨氏はラ・ボエシがガンディーの非暴力不服従の理論的な先駆であるなどと荒唐無稽なコメントをしており、失笑を禁じ得ない。ガンディーは物理的暴力に非暴力を対置したのであって、圧政を維持するのは暴力にあらず民衆の自発的隷従であるとするラ・ボエシの発想からは限りなく遠い。たかがアマゾンとたかをくくってるのかも知れないが、原典を読みもせずにいい加減な言説を撒き散らすのは東大教授としての職業倫理を問われかねまい。モンテーニュが当時の政治的文脈の中で誤解を恐れて本書の出版も「エセー」への掲載も断念したそうだが、まさにその懸念が、マラー(革命のアジテーションとしてラ・ボエシの文書を悪用)を経てさらに300年以上のち、再び現実のものとなってしまわないことを祈るのみである。「最も参考になったレビュー」とされてるので非礼を顧みず敢えて言及した。

    訂正とお詫び
    ガンディーの『受動的抵抗の理論と実行』という文章の中に「統治は人民が統治されることを意識的若くは無意識的に承認して居る間にのみ可能である」という一行を発見しました。これはラ・ボエシの「自発的隷従論」がガンディーの理論的先駆であるという安冨氏の見解の正しさを裏付けるものです。もっともガンディーの非暴力主義の根底には宗教的とも言うべき愛があり、それが圧制者を感化せしめ和解をもたらすのであって、単に人民が「王様は裸だ」と言えば圧制を倒せるというものでは決してありません。したがって両者の類似点をことさらに強調するのはミスリーディングであると言わねばなりませんし、私の意図もそこにありました。ただ両者に一定の連続性があることまでは否定できず、「原典を読みもせずにいい加減な言説を撒き散ら」していたのはむしろ当方と言わざるを得ません。ここに訂正するとともに、安冨氏に深くお詫び申し上げます。レビューを削除することも考えましたが、安冨氏への謝罪を形として残す意味からそのままにしたいと思います。(2015.12.7)

  • 自発的に隷従とは?という疑念にかられその内容について知りたく購入。
    人類には本性が2パターンあり、本来の自由であること、そして習慣的に自由から自発的隷従であること、と述べられており納得がいった。人類史を振り返ると教皇や王、独裁者等多くの圧政者が必ず存在する。圧政者はその下につく民衆が自発的に隷従することで成立し、単独では成立しない。つまり民衆が圧政者を生み出しているのに他ならないというのは、現代社会でも言えると感じた。

  • 【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/5232

  • 「日本の状況が他人事と思えなくなる」の帯がついていましたが、一人の圧政者に云々という下りは、北朝鮮を思い起こさせました(著者はモンテーニュと刎頸の交わりがあったとのことで、引用はギリシア・ローマが多いのですが)。

    圧政者一人が4〜5人を追従者として周りにつけ、徐々にそれを広げて権力基盤を固めていくというのは、企業でも似たところありかとも思いました。

    本文は80ページほどの短いものですが、最後の西谷修氏の解説が圧巻です。対米追随の日本の現状を分析し、これを権力基盤としている政党や追随者の話は、別に一冊書いて欲しいと思うほどの内容です。これを読むと、「日本の状況が他人事と思えなくなる」というのも頷けました。

  • 「隷属への道」に続く隷従シリーズ。この本が描かれたのは16世紀のフランス。まだ民主主義など遠い理想でしかなかった時代のものだが、今の時代にも当てはまることが多くて何やら冷んやりする。「自発的に隷従する」というのは単語としても矛盾しているが、状態をよく表しているとも言える。つまり、指導者たるものの何らかの魔力に惹かれ、あるいは無気力となり、悪に耐え、善を希求する力を失う。第一世代はまだ闘争の記憶を持つが、世代を経るごとに疑問もなく隷従するし先人が強制されていたことを疑いなく進んで行うようになる。言われてみると、国、企業などに隷従していないか。日米関係は?など、しっかり考えるべきことが多いことに気づかされる。著者は、人間は、自由でありたいという本性と、従いたいという第二の本性を持つからだと指摘する。こうなることを防ぐ手立てとして「友愛」を掲げている。あと、知識というか学びも必要なんだろうなあ。

  • モンテーニュの時代(1500年代)に圧政者とこれへの隷従が生じるのはなぜか、その構造は何かを論じたもの。うーん、自発的隷従か、確かにその構造
    があるからこそ、圧政は可能となるように思われる。今の時代のsenseを読み解く鍵になるかもしれない。

  • 自発的隷従論 ポエシ ちくま

    公務員でありながら
    客観性に飛んだ人間論を持った人によって
    1500年代に書かれた稀有な本だ

    人の本質には個としての自律心と
    全体の一部としての依存心が共存しているのだろう
    そのどちらが表面化するかによって
    生き様が変わるのだけれど
    自主的参加による集いから
    余剰生産物の到来による社会の肥大化で
    個人が組織に飲み込まれて以来
    主従関係が蔓延することになる
    そこで生み出されたのが
    奴隷と戦争に支えられたギリシャにおける
    民主主義モドキの貴族社会であり
    このボエジの本である

    つまり赤ん坊が親と環境に依存すると同時に
    自由奔放に自己を表現するように
    人間は本来冒険を愉しむ為に生まれてきた筈なのだ
    主従という依存心に溺れるのは
    生産物の奪い合いがもたらした物質文明の成せる業

    お互いに競争原理の矛盾に気付き
    信頼と切磋琢磨による調和を求めて精神性を取り戻そう

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