- Amazon.co.jp ・本 (336ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480420213
感想・レビュー・書評
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「フェミニズム」っていうと、失礼だけどどこか狂信的というか、価値観を過激に押し付けるようなイメージがどうしても先行しがちだと個人的には思っているのだけれど、少なくともこの本を通してはより社会学的というか、女性の権利という言葉だけでは語り尽くせない、もっと社会そのものにコミットした学問なんだなーという印象を受けました。また、学問をやる上で必ずぶつかるであろう(特に文系だと)「これが社会でどのように役に立つのか」ということに対する作者なりの考えが自分の中で非常にしっくりときました。そして何より、文章が読みやすい。ふつうに書いたら非常にわかりにくくなること受けあいなこの題材について、コミカルさも交えつつ書かれているのが、この本がわかりやすい何よりの理由ではないかと思います。たびたび引用されている文献についても、探して読んでみようかなと思いました。
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題名はインパクト強いですが、ケンカが語られているわけではありません。タレントである作者はジェンダー論、フェミニズムを学ぶため、東大に通いだしました。その中で繰り広げられる感じた事、学んだ事を素人の視点にたって、戸惑いながら書き綴られています。著者の感じているこの「戸惑いながら」が全体的に好感度を上げていて、ある種の感動さえ禁じえません。この本を読めば、ジェンダー論、フェミニズムをまったく知らない人も興味を感じるようになるのではないでしょうか。
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高等教育の先生の研究室から拝借した本のうちの1冊。
一言でいうなら、「すごかった。」
なにもかもが凄過ぎて、大学にはこんな学び場があるんだと感動しました。
自分が受けているゼミとは緊張感も知識量も、何もかもが違いました。
自分のゼミのゆるさに居心地の良さは感じるものの、上野ゼミの地獄絵のような修行場にも憧れを感じます。
こんなゼミばかりなら、FDなんて必要ないんじゃないかとも思うほどです←
タレントでありながら勉学に真摯に励む、遙さんの姿勢にも感動をしました。
私の学生生活では、所属学部の勉強をそこまで真剣にしてきませんでした。
興味が他の分野に移ったということもありますが、その分野の勉強もしていないのが現状なのです。
この本を読んで、残り短い学生生活は勉学に真摯に励もうと決意しました。
また、フェミニズムに対してあんまりいいイメージは持っていませんでしたが、本文中ところどころに見える思想から、しっかり勉強した方がいい気がしてきました。
色々なフェミニズムがあるそうですが、とりあえず上野先生の著作から読んでみようと思います。 -
先生のぶった切り、気持ち良くてハマる。ケンカの真価は、強い問題意識や言葉にする意志があるかどうか。でも日常では、人間関係に無駄に距離を生みそうなので、追及はほどほどに。
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いい本だった。理由は2つ。
等身大の自分の言葉で、自分の感じたことを語る強い姿勢。すべての女性と学問を志すひとを啓発していると思う。少なくとも私はモチベーションが上がった。
もうひとつは、このあくまで個人的な言葉から、生活に密着した観点からフェミニズムの問題提起も垣間見えてくること。
まあもっと早く読んでおけば良かった本だなあ。 -
これは、知との格闘の記録である。
インパクトのあるタイトルだけで腰が引けてしまう人もいるだろうが、これはフェミニズムについての本であって、そうでない。
フェミニズムでも、原始力でも、構造主義でもなんでも同じことなのだ思う。
一人の大阪の女性タレントが、知と言う世界で格闘し、もがきながら、その過程で志を同じくする学生達と出会いながら、自由を手にしていく過程の記録だ。
最初遥洋子は論文の中に、ひらがなが全く使われていないことにたまげる。
論文のタイトルのまえがきだけで「東京大学大学院人文社会系研究科社会文化研究専攻社会文化専門分野博士課程入学審査論文」笑
これでものまだタイトルに行きつかない。
論文にはひらがなが「と」や「や」しか使われていない。
例えば「中央協力会議女性代表に見る翼賛」「国防婦人会の解散と大日本婦人会の成立」
漢字に慣れてる私でも思わず笑ってしまう。
しかしここからの彼女の頑張りは目を見張るものがある。
本業のタレントの仕事を続けながら、新幹線で東京と大阪を往復する新幹線の中で、スキーに行ったらベッドで、友達と遊んだらその合間に、食べながら、風呂に入りながら、マニユキュアを塗りながら、一年もたたないうちに過去三年分の論文を読み切るのだ。
そして学生をつかまえては、「小学生にでもわかるように教えて!」と頼み、その代わりに彼女は職業柄色々知っている化粧や美容術のことについて学生達に教えてあげる。
何気なく手をあげてしまったら、一番難しい論文をひいてしまい (記号学だ。「デノテーションとコノテーション」「ヤコブソンにおけるメタフォールとメトニミ―」 笑)、学生達に助けてもらいながら勉強し、必死で発表するもあっさり撃沈。
ここら辺の四苦八苦ぶり、仲間との(湿度の少ない)協力っぷりが、とても活き活きと書かれてて、自分の学生時代を思い出して懐かしさすら感じる。
彼女にとって最高の贅沢は、仲間と過ごすこの時間だ、とこの後に出た単行本「働く女は敵ばかり」で書いていたが、とてもよくわかる。
「同じゼミの子だから」ではない。真理を追究するという道を探している仲間だから。(ただし、もちろん、真理はひとつではない)
そうして上野千鶴子がまたすごい。
「私は馬鹿だから、みんなと能力自体に絶対的格差があるから」と絶望する遥に対して、上野千鶴子は「その根拠は」と容赦ない質問で責めていく。
その姿勢は論理に大して一歩も引くことのない彼女の学者としての姿勢と完全に一致している。
これまでの「当たり前」に疑問を投げかけ、根拠を探し、反論し、根拠のないものは叩き壊して行く。
そうして、上野はその学問に向かうのとまったく同じ姿勢で持って、遥の中の固定観念、思い込み、ネガティブな思考パターン等を次々に指摘して、片っ端から潰して行く。
かなり荒っぽいが、心理学の認知行動療法を実践でやっているようなものだ。お見事、というしかない。
知という壇上では、肉体的美に価値はない。
それを発言する人の人格や信念すら価値がない。
ましてや性別、年齢、国籍、セクシャリティetcと発言の価値とは全くの別物だ。
学問が全てだ。
誰がものを言ったかではなく、何を言っているかが問題なのだ。
これほどの自由があるだろうか。
人は共同体に属していて、そこに対する帰属意識を持っている。
家族、地域、ママ友でもいいし、企業や学校等の組織、国家・・
何かの同類項を持っている人間への帰属意識を持つ。
しかし、それは良くも悪くもそこでの価値観、「常識」に縛られるということでもある。
その「常識」に違和感を覚えて、そことの繋がりを立とうとすればするほど、人は自由になると同時に絶望的な孤独に陥る。
フロムによれば、「・・・・から逃走する」と言う段階では消極的な自由である。
それは抑圧に対する反作用にすぎない。
抑圧がなくなった後に、「・・・へ向かう」という意志を持つことで、初めて人は積極的に自由を獲得することができる。
人は何かから逃げた後に、また自分で自由を選択しなければならない。
私はその「・・・から自由になる」や「・・・へ向かって自由になる」過程を探すのが知で、その過程こそが自由であり希望であると思っている。
個人化して共同体への帰属意識を失った人が、その先に見つける新しい帰属意識の一つが、自由を獲得しようと模索している人達との連帯だと思う。
簡単に言えば「同じ学校だから」とか「日本人だから」という親近感ではなく、「いい世界をつくっていきたい」「物事のからくりを知りたい」という目的を共有する仲間と出会うこと、そういう人達がこの世にいるんだということを知ることが希望で、その先に自由があるのだと。
今いろんなものが崩れて行く時、私が一人でないと感じられるのは、この知の土壌で格闘している人たちを知っているからだ。
そして、これからの時代を良いものにしていきたい、子供達やこの先の世代にいい物を渡したいと心から願っている人達の地に足のついた思いを信じているからだ。
その人達の歩みは確かに、すごい勢いで今、動いているのを肌で感じる。
だから私は私のジャンルで全力を尽くす。
よいものを作っていこうとする願いを共通項に、志を同じにする人達と進む。 -
本団を整理してして発見し、つい読みだしたら終わらなくなって一気読みしてしました。
上野千鶴子さんは僕らの学生時代の「HERO」
『スカートの下の劇場 ― ひとはどうしてパンティにこだわるのか』
『<私> 探しゲーム ― 欲望私民社会論』
『女遊び』
あたりは全部読んでます。
(その後読まなくなりましたが(苦笑))
ただこの本は、そんなことに興味がなくても
十分楽しめます、というか学べます。
上野千鶴子や著者の遥洋子が好きか嫌いか、とか
ジェンダーがどうした構造主義がどうした、などということは
ともかくとして、
社会人が働きながら学ぶ、ということの
難しさと楽しさが伝わってくる本です。
本気で勉強したいことがあるなら
それをやろう、と覚悟が決まる本だと
僕は思います。