東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ (ちくま文庫)

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  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (336ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480420213

感想・レビュー・書評

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  • タレントをしながら東大でゼミに参加して、文献を年間100冊も読んだり発表をしたりする作者に脱帽です。
    中でも印象的な言葉を引用します。「区別」は「差別」と別なものではなく、最も悪質な差別。「魔女の審判」
    18歳で自分の位置を確定してしまう偏差値教育。それは能力の位置決定として内面化される。教授は決して「18歳の時はバカだった」とは言わなかった。
    あえて東大を批判すれば、知を使おうとしていない。知の分配を獲得出来ぬまま、考える時間すら持てずに労働を余儀なくされるある層の人間を固定することで、得をしているのは誰か、と考えると、やっぱり、ここでも出てくるのが、支配●被支配の相関図だ。
    ちなみに東大での博士課程在籍者の女子比率を見ると、1996年度で21.9パーセントもあるのに、女性教官比率になる、途端に6.6パーセントに落ちる。

  • 「フェミニズム」っていうと、失礼だけどどこか狂信的というか、価値観を過激に押し付けるようなイメージがどうしても先行しがちだと個人的には思っているのだけれど、少なくともこの本を通してはより社会学的というか、女性の権利という言葉だけでは語り尽くせない、もっと社会そのものにコミットした学問なんだなーという印象を受けました。また、学問をやる上で必ずぶつかるであろう(特に文系だと)「これが社会でどのように役に立つのか」ということに対する作者なりの考えが自分の中で非常にしっくりときました。そして何より、文章が読みやすい。ふつうに書いたら非常にわかりにくくなること受けあいなこの題材について、コミカルさも交えつつ書かれているのが、この本がわかりやすい何よりの理由ではないかと思います。たびたび引用されている文献についても、探して読んでみようかなと思いました。

  • 題名はインパクト強いですが、ケンカが語られているわけではありません。タレントである作者はジェンダー論、フェミニズムを学ぶため、東大に通いだしました。その中で繰り広げられる感じた事、学んだ事を素人の視点にたって、戸惑いながら書き綴られています。著者の感じているこの「戸惑いながら」が全体的に好感度を上げていて、ある種の感動さえ禁じえません。この本を読めば、ジェンダー論、フェミニズムをまったく知らない人も興味を感じるようになるのではないでしょうか。

  • 高等教育の先生の研究室から拝借した本のうちの1冊。

    一言でいうなら、「すごかった。」

    なにもかもが凄過ぎて、大学にはこんな学び場があるんだと感動しました。

    自分が受けているゼミとは緊張感も知識量も、何もかもが違いました。

    自分のゼミのゆるさに居心地の良さは感じるものの、上野ゼミの地獄絵のような修行場にも憧れを感じます。

    こんなゼミばかりなら、FDなんて必要ないんじゃないかとも思うほどです←



    タレントでありながら勉学に真摯に励む、遙さんの姿勢にも感動をしました。

    私の学生生活では、所属学部の勉強をそこまで真剣にしてきませんでした。

    興味が他の分野に移ったということもありますが、その分野の勉強もしていないのが現状なのです。

    この本を読んで、残り短い学生生活は勉学に真摯に励もうと決意しました。



    また、フェミニズムに対してあんまりいいイメージは持っていませんでしたが、本文中ところどころに見える思想から、しっかり勉強した方がいい気がしてきました。

    色々なフェミニズムがあるそうですが、とりあえず上野先生の著作から読んでみようと思います。

  • 東京大学の上野千鶴子の学部ゼミ、院ゼミ、或は学部の講義やコロキアム(プロのためのゼミ)を三年間にわたってガムシャラに受講してきた遥洋子の知への挑戦記録であり、ゼミレポート的エッセイというべきもの。-内容はそれなりに高度のものを含むが、とにかく読みやすい。
    なぜかといえば、センテンスの息が短いからである。短いということは論理が単純明快に運ばれるということだ。上野千鶴子や他の者の著書からのこれまた短いエッセンス的な引用が随処に散りばめられ、著者自身の思考回路をフォローしていく。引用された語群はややもすると地面をたんに平行移動していきがちな著者の思考の流れに対し、垂直な張力となってあるべき視座を与え、思考の水位を引きあげてくれることでアクセントとなる。
    与えられたものを片っ端から読みも読んだり、無我夢中で格闘した三年間だったろう。その意味では嘗ての彼女を知る者としては些か驚き入ったことではある。

     ―'05.06.27 記

  • 先生のぶった切り、気持ち良くてハマる。ケンカの真価は、強い問題意識や言葉にする意志があるかどうか。でも日常では、人間関係に無駄に距離を生みそうなので、追及はほどほどに。

  • ▼オリジナリティを生み出したければ

    『オリジナリティは情報の真空地帯には発生しない!』

    とくにオリジナリティーを生み出したいわけではないのだけれど、とにかく私の頭の中は超真空状態なので、少しでも埋めようとちょっぴり意識している今日この頃。

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    ▼学問はだれのもの

    『(江戸時代→明治維新の身分制度の廃止と義務教育開始などは)身分の低い人たちにも、平等にチャンスを与えるという“理想”があったからなのだろうか。』(小熊英二:著 / 日本という国 /P24)

    『明治政府が身分制度を解消し、代わりに国民共通の義務教育を導入したのは、要するに国家の強化のためである。政府は、サムライだけに教育を与え、サムライだけを兵士にするという方針ではなく、国民教育を行って徴兵制を導入し、読み書きのできる兵員と労働力を大量に獲得することなしには、西洋による植民地化から逃れられないことをよく知っていた。』(小熊英二:著 / インド日記〜牛とコンピューターの国から〜 / P189)

    『まるで、自動車教習所で教わる“ボールの後には子供が飛び出す”といったマニュアルをそのまんま一般道路で実体験するように、社会学で習った通りの言葉のトリックのマニュアルに、人がいかに簡単にひっかかるかを実社会で体験し、冷や汗とともに感心したこともやびたびです。それはおもしろいくらいに、人は社会学どおりに言動する生き物でした』(遥洋子:著 / 東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ / P320)

    『一番上野さんのフェミニズムを貪るようにして学んだ人たりが、有閑専業主婦だったという悲しい現実です』『介護をやったり、パートをしたりして、ほとんど自分の時間がないような主婦にこそ、フェミニズムは手が届かなければならない。なのに、そういう人は(公民館でやる講演会などに)来ない。』『それはほんとに日本の女性政策のひずみそのまんまの表れです。』(上野千鶴子×小倉千加子:著 / ザ・フェミニズム / P82、154)

    『東大は学問の宝庫だ。そこで、いったい、どれほどの学問が“使われて”いるのだろうか?使われることなく、ただ生産されている学問があるのではないか?それとも誰かそれを使う権利を独占しているのだろうか?』『すくなくとも、それらの“知”が、一般に放出していないのはわかる。“知”の供給なしに“知”の需要もない。どちらが先かは分からないが、“知”がある特権的エリアに集中していることは確かなようだ。なぜ、こうなったのだろう?誰が何のためにしているのだろう?使用価値のある“知”の分配。その必要と責任をいったいどれほどの人がこの大学でわかっているのだろう』『知の分配を獲得できないまま、考える時間すら持てずに労働を余儀なくされるある層の人間を固定することで、得をしているのは誰か、と考えるとやっぱり、ここでも出てくるのが、支配・被支配の相関図だ』(遥洋子:著 / 東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ / P269、278)

    『個人が救済されれば一応満足してしまう現代の知識人(などと一般化されたら不満な人も多かろうが)と、社会運動を広げねばならないインドの知識人の違いが出るように感じた』(小熊英二:著 / インド日記〜牛とコンピューターの国から〜 / P150)

    『学者とか作家は会社に行ってないから、考える時間がりますよね。そういう人間がやるべきことって、やっぱりあると思うんです。忙しいから簡単な物語を求める人びとがいるのはしかたないとして、時間は与えられて考えることが仕事になっている人間は、人より丁寧に考えることで役割を果たしてゆくしかない』(小熊英二×村上龍:対談 / 対話の回路 / P60)

    『だいたい、歴史を“物語”としてとらえることは、自分の都合のよい事実しか認めず、もっとも怠慢な道だと思います。…学問は決して歴史家だけの専売特許ではないのですから。まだまだ無限といってよいほど未知の問題がたくさんあること、歴史の専門家には全然見えていない(一般人の視点や歴史や環境観でしか見えてこないこと)があることをはっきりさせれば、たくさんの人たちがそうした問題に関わりを持つきっかけになると思いますね。そういう探究の意欲が、社会全体にひろがって、多くの人々が参加するようになれば、あるいは夢のような話かもしれませんが、学問の質も根本的に変わると思います。そうした道以外に人類社会の壮年期を生き抜く知恵を生かす道はないと思うのです。』『なるほど。それは人類史的転換期において期待されることになりますか』『そうですね。それがほんとうに学問が“民衆のもの”になることでしょう。そしてそれは“学問”であって、“物語”などではありません。これは十分可能なことであり、学問の明るい未来がそこにあるだろうと考えています。実際、そうした動きは最近、現実に起こっていると思いますよ』(小熊英二×網野善彦:著 / 対話の回路 / P199)

    ああっ。せめて高校の時で出会っていたかった言葉の数々。…まあ、私の頭では大学無理だったと思うけど…。私たちが日々の生活でわからない!と悶々としてたり、色んな社会の矛盾にイライラしていることも、ちゃんと理由とか他の人の思惑があったりする。それを知るだけでも、世の中が全然違ってみえてくる。私の頭では、『すでに分かっている人』のおこぼれをもらうくらいしか出来ないけど、色んな言葉をもらってドキドキする興奮は確かなものだから、無理のない程度でこれからも“おすそわけ”してもらおうと思う。そして実社会でチャンスがあれば、『使って』みようと思う。デザイン、日常、会話、趣味、対人、全てにつながってくることだから。

  • いい本だった。理由は2つ。
    等身大の自分の言葉で、自分の感じたことを語る強い姿勢。すべての女性と学問を志すひとを啓発していると思う。少なくとも私はモチベーションが上がった。
    もうひとつは、このあくまで個人的な言葉から、生活に密着した観点からフェミニズムの問題提起も垣間見えてくること。
    まあもっと早く読んでおけば良かった本だなあ。

  • これは、知との格闘の記録である。
    インパクトのあるタイトルだけで腰が引けてしまう人もいるだろうが、これはフェミニズムについての本であって、そうでない。
    フェミニズムでも、原始力でも、構造主義でもなんでも同じことなのだ思う。
    一人の大阪の女性タレントが、知と言う世界で格闘し、もがきながら、その過程で志を同じくする学生達と出会いながら、自由を手にしていく過程の記録だ。

    最初遥洋子は論文の中に、ひらがなが全く使われていないことにたまげる。
    論文のタイトルのまえがきだけで「東京大学大学院人文社会系研究科社会文化研究専攻社会文化専門分野博士課程入学審査論文」笑
     これでものまだタイトルに行きつかない。
    論文にはひらがなが「と」や「や」しか使われていない。
    例えば「中央協力会議女性代表に見る翼賛」「国防婦人会の解散と大日本婦人会の成立」
    漢字に慣れてる私でも思わず笑ってしまう。

    しかしここからの彼女の頑張りは目を見張るものがある。
    本業のタレントの仕事を続けながら、新幹線で東京と大阪を往復する新幹線の中で、スキーに行ったらベッドで、友達と遊んだらその合間に、食べながら、風呂に入りながら、マニユキュアを塗りながら、一年もたたないうちに過去三年分の論文を読み切るのだ。
    そして学生をつかまえては、「小学生にでもわかるように教えて!」と頼み、その代わりに彼女は職業柄色々知っている化粧や美容術のことについて学生達に教えてあげる。
    何気なく手をあげてしまったら、一番難しい論文をひいてしまい (記号学だ。「デノテーションとコノテーション」「ヤコブソンにおけるメタフォールとメトニミ―」 笑)、学生達に助けてもらいながら勉強し、必死で発表するもあっさり撃沈。
    ここら辺の四苦八苦ぶり、仲間との(湿度の少ない)協力っぷりが、とても活き活きと書かれてて、自分の学生時代を思い出して懐かしさすら感じる。

    彼女にとって最高の贅沢は、仲間と過ごすこの時間だ、とこの後に出た単行本「働く女は敵ばかり」で書いていたが、とてもよくわかる。
    「同じゼミの子だから」ではない。真理を追究するという道を探している仲間だから。(ただし、もちろん、真理はひとつではない)

    そうして上野千鶴子がまたすごい。
    「私は馬鹿だから、みんなと能力自体に絶対的格差があるから」と絶望する遥に対して、上野千鶴子は「その根拠は」と容赦ない質問で責めていく。
    その姿勢は論理に大して一歩も引くことのない彼女の学者としての姿勢と完全に一致している。
    これまでの「当たり前」に疑問を投げかけ、根拠を探し、反論し、根拠のないものは叩き壊して行く。
    そうして、上野はその学問に向かうのとまったく同じ姿勢で持って、遥の中の固定観念、思い込み、ネガティブな思考パターン等を次々に指摘して、片っ端から潰して行く。
    かなり荒っぽいが、心理学の認知行動療法を実践でやっているようなものだ。お見事、というしかない。


    知という壇上では、肉体的美に価値はない。
    それを発言する人の人格や信念すら価値がない。
    ましてや性別、年齢、国籍、セクシャリティetcと発言の価値とは全くの別物だ。
    学問が全てだ。
    誰がものを言ったかではなく、何を言っているかが問題なのだ。
    これほどの自由があるだろうか。

    人は共同体に属していて、そこに対する帰属意識を持っている。
    家族、地域、ママ友でもいいし、企業や学校等の組織、国家・・
    何かの同類項を持っている人間への帰属意識を持つ。
    しかし、それは良くも悪くもそこでの価値観、「常識」に縛られるということでもある。
    その「常識」に違和感を覚えて、そことの繋がりを立とうとすればするほど、人は自由になると同時に絶望的な孤独に陥る。

    フロムによれば、「・・・・から逃走する」と言う段階では消極的な自由である。
    それは抑圧に対する反作用にすぎない。
    抑圧がなくなった後に、「・・・へ向かう」という意志を持つことで、初めて人は積極的に自由を獲得することができる。
    人は何かから逃げた後に、また自分で自由を選択しなければならない。

    私はその「・・・から自由になる」や「・・・へ向かって自由になる」過程を探すのが知で、その過程こそが自由であり希望であると思っている。
    個人化して共同体への帰属意識を失った人が、その先に見つける新しい帰属意識の一つが、自由を獲得しようと模索している人達との連帯だと思う。
    簡単に言えば「同じ学校だから」とか「日本人だから」という親近感ではなく、「いい世界をつくっていきたい」「物事のからくりを知りたい」という目的を共有する仲間と出会うこと、そういう人達がこの世にいるんだということを知ることが希望で、その先に自由があるのだと。

    今いろんなものが崩れて行く時、私が一人でないと感じられるのは、この知の土壌で格闘している人たちを知っているからだ。
    そして、これからの時代を良いものにしていきたい、子供達やこの先の世代にいい物を渡したいと心から願っている人達の地に足のついた思いを信じているからだ。
    その人達の歩みは確かに、すごい勢いで今、動いているのを肌で感じる。

    だから私は私のジャンルで全力を尽くす。
    よいものを作っていこうとする願いを共通項に、志を同じにする人達と進む。

  • 本団を整理してして発見し、つい読みだしたら終わらなくなって一気読みしてしました。

    上野千鶴子さんは僕らの学生時代の「HERO」
    『スカートの下の劇場 ― ひとはどうしてパンティにこだわるのか』
    『<私> 探しゲーム ― 欲望私民社会論』
    『女遊び』
    あたりは全部読んでます。
    (その後読まなくなりましたが(苦笑))

    ただこの本は、そんなことに興味がなくても
    十分楽しめます、というか学べます。

    上野千鶴子や著者の遥洋子が好きか嫌いか、とか
    ジェンダーがどうした構造主義がどうした、などということは
    ともかくとして、

    社会人が働きながら学ぶ、ということの
    難しさと楽しさが伝わってくる本です。

    本気で勉強したいことがあるなら
    それをやろう、と覚悟が決まる本だと
    僕は思います。

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