- Amazon.co.jp ・本 (480ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480425218
感想・レビュー・書評
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ちくま日本文学シリーズと文春文庫現代日本文学館シリーズは本当にお得
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人の内面をシンプルな表現で描いた筆力は凄い。大事件起こるわけでは無いのだけれど、自分や普段の普通の人々に ふっと湧き出るような感情や行動の切り取り方が、芝居にするには合うなぁと思った。舞台でこの作者の作品を見てみたい。
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『灰色の月』だけ
織田作の『可能性の文学』を読んだので読んでみようと思った
織田作の「皆がこれを目指すなら日本の文学の可能性はない」という言葉が分かったようなわからん様な
裸じゃなくて服を着た人をデッサンしてるって言ってたことは分かったような気がするけど、後からちょっと穿った読み方しすぎたような気もしてきた
以前に『暗夜行路』や『城の崎にて』も読んだけどなんで志賀直哉が「小説の神様」と言われるまでのものなのかわからん -
志賀直哉を一言で言うと、健康的な文章を書く健康的な作家だ。
例えば、芥川龍之介を読む読者と志賀直哉を読む読者を想像してみるといい。
後年の近代人の心理的葛藤をテーマとした夏目漱石から続く近代日本文学の流れよりも、西鶴などの物語る文章からの流れを感じる。
網野善彦氏は、80年代を境として、応仁の乱から続くような日本の風景は、失われて行っていると語っていた。
僕が子供の頃、手付かずの自然が存在した。
ここには、長屋の人情も含め、そんな素朴な日本の風景が見える。 -
文学
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いや、すごいものですね。
志賀直哉、こんなに実力者だとは知らなかった。
いまはどうだか知らないけれども、この人の作品は教科書によく出てくるし、試験にもよく出てきて、そこで読まされる文章は立派なものなんだろうけど、ちっとも面白くなくて、しかも日本文学のメインストリームである私小説の権威的象徴でもあるので、昔からあまり好きにはなれなかったのだが、それは私だけではないと思う。
しかも当時実際に読んでみて、あまり面白くはなかったんですね。
高校時代だったかな、ここに出てくるいくつかの作品を読んだ記憶があるけれども、退屈で、なんでそんなに高く評価されているのか良く分からん、といった印象しか残っていない。
しかし、今回数十年ぶり(!)に読み直してみて、この作者を見直しました。見直したというか、こっちがきちんと読めていなかっただけなんだけども。とはいっても、あの年頃では分かりそうもない作品を載せている教科書の方が悪いと思うのだが。
この本では、いくつかの傾向ごとに作品が並べられているので、それに沿って感想を述べてみたいと思います。
左側から制作年、作者の年齢、作品名。
1908.01 25 或る朝
1920.09 37 真鶴
1910.10 27 速夫の妹
若い頃の新鮮な作品群。
とくに処女作「或る朝」は、心理描写が抜群。新進作家のあり余る才能を感じさせる。
「真鶴」も「速夫の妹」も愛すべき小品。
3作とも主人公は子供か青年で、作者の若々しい経験や感受性がうまく作品の世界に閉じ込められている。けれども、これを書いた人はひどく傲慢な人間に違いないと感じてしまうのはなぜだろうか。こっちがヘンなのかな。
1913.01 30 清兵衛と瓢箪
1920.01 37 小僧の神様
1917.09 34 赤西蠣太
1924.03 41 転生
創造性(虚構性)が高い作品群。最初の3作はいずれも有名な傑作で、たしかに面白い。「転生」は肩の力を抜いたふうに見せた落とし話でこれも面白い。
教科書の志賀直哉の作品がこういったものばかりだったら、喰わず嫌いの人がもう少し減ったのではないかと思うけれども、「清兵衛と瓢箪」は無能教師が子供の才能を殺すという話だから、教える側としてはなかなか取り上げづらいだろうし、「小僧の神様」は、小僧が主人公というよりも、神様の側に回った貴族院議員Aの感覚、社会人としての大人の感覚が分からないとイマイチ面白味が伝わらない話だから、中高校生あたりではどうかな。
「赤西蠣太」は主人公と小江との悲恋の物語だが、学校教師にそんなことを解説してもらわなくても結構だし、またやろうとしてもできないだろうし、それでも学習指導要領や授業マニュアルに基づいてあえてやったとしても志賀直哉嫌いをますます増やすだけだろうからこれも無理。
「転生」は、ほら、夫婦間の楽屋落ちみたいなものだから、授業には向きません。
こういった作品群は、やっぱり家で寝ころがって読むとか、スタバなんかでくつろぎながら読むというのが、一番正しい姿だと思うなあ。
1917.11 34 荒絹
1911.09 28 クローディアスの日記
1913.10 30 范の犯罪
1910.06 27 剃刀
これも創造性の高い作品群だけれども、結末がいずれも暗め。暗めというか、あざといというか。
教科書的には、緊張感が徐々に高まり、最後にグサッっとくる「剃刀」が心理サスペンス風で面白いかもしれないけれども、内容が内容だけに無理だろうな。描写が見事すぎて先端恐怖症の生徒が増えてしまうかもしれない。あるいは事故が起きて学校が訴えられるとか。
では「荒絹」あたりがいいかな。救いのない話ではあるけど。でも、これぐらいの毒がないと小説としてはつまらない。
1917.08 34 好人物の夫婦
1924.01 41 海蛙
1915.01 32 冬の往来
1914.11 31 老人
「好人物の夫婦」はいい話だな~。
この4作は、どういう括りでここに並べてあるのか分からないけども、いずれも作者の余裕と自信が感じられる作品。
1916.01 33 矢島柳堂
1917.05 34 城の崎にて
1920.04 37 焚火
1910.04 27 網走まで
誰もが知っている傑作中の傑作「城の崎にて」と「網走まで」。
ほんとに傑作かどうかは別として(なにをもって傑作というかということもあるし)、見事な作品であることは間違いない。
「網走まで」は、作者27歳のとき発表された作。書かれたのは、デビュー作の「或る朝」とか「速夫の妹」とかと同時期らしい。志賀直哉恐るべし。列車に同席した男児の描き方は素晴らしく、素晴らしすぎて、こんな嫌なガキはぶん殴りたいと思わせる。
作者(主人公)がまだ二十代であることを知っているのと知らないとでは、読後感がちょっと違う。読んだときはそのことを知らなかったが、知ってみると最後の顔を赧らめるシーンがよく分かる。
ただ、最後の一行の意味が不明。主人公はなぜ2通の手紙の宛先が男と女であることが気になったのだろう。まあいけど。
「城の崎まで」は作者34歳のときの作品。もっと歳を取ったときの作品かと思った。
これは高校や中学校の教科書にいまでもたくさん載っているだろう作品で、私もこの中の蜂が死ぬシーンを志賀直哉の教科書作品のくだらないシーン・ナンバーワンとして覚えているぐらいだけれども、今読んでみると、この作品を教科書に取りあげること自体にそもそも無理があるのではないかと思う。
この作品には、落ち着いて一人になった時誰もが感じるような不安と、ちょっとした厭世観があるけれども、しかしその裏側には過剰な生命感が感じられるので、エネルギーが枯渇した年寄りの回顧話とはたしかに違う。けれども30代の男の虚無感が顔を覗かせている。これを作品として味わうには、もう少し年齢が必要ではないかと思う。
もちろん中高生でもそれを味読できる者もいるだろうが、それは例外的存在だ。そんな奴が教室にいっぱい居られても困る。たいていの中高生にはこういう作品は鑑賞不可能なはずである。「寂しかった」「静かだった」「蜂が死んでいた」といわれても、ああそうですかと答えるしかない。腹ペコの若い連中の前に、高級で複雑な味わい(いわゆる大人の味)の料理をちょっぴり出して、その玄妙さをわかれといっても無理なのである。それよりはコッテリしたビフテキを与えるべきだろう。
こういうシブイ作品を学習教材として、ブンガクというものを教えるための材料として使うのはどうなのかなと思う。現に私は教科書で読んでも図書館で読んでもチンプンカンプンで、期末試験の点数もひどかったので、なんて馬鹿げた作家だろうと思ってひどく嫌いになった。
それでもどうしても取りあげるなら、この作品の中核イメージとなっている3つの場面のうち、一番インパクトが強く、進展上のクライマックスともなっているネズミのシーンを取りあげるべきだろう。この残酷なイメージはきわだっている。そういう肝腎なところは抜かしてしまって、あたりさわりない蜂の死骸のシーンなんかをもってくるものだから、全体がへんにぼやけたものになってくる。あれがあるのとないのでは全体の印象が全然違う。作品に敬意を払うなら、そこまできちんとすべきであろう。
1946.01 63 灰色の月
1949.09 66 奇人脱哉
1951.11 68 自転車
1956.03 73 白い線
1963.08 80 盲亀浮木
戦後の作品群。このころはもう60歳を過ぎ、隠居の状態かな。
内容も、小説というよりも、一流作家による高級エッセイという感じ。
読んでいて、少なくとも退屈はしません。
1927.09 44 沓掛にて
1933. 50 リズム
評論的文章。前者は芥川龍之介に関する思い出。夏目漱石に関するコメントなどが出てきて面白い。
後者は芸術はリズムであるとの主張。
なかなか興味深かった。
志賀直哉の作品はいずれも完成度が高く、たしかに日本の代表的な小説家の一人だと思いました。とはいっても、これで志賀直哉を好きになったかというと、全然そんなことはありません。この作家の作品を読むのは、もうこれぐらいでいいかなと。
あと、代表作の暗夜行路ぐらいは読むかもしれんけれど。
この人の作品というのは、あらかじめ出来上がった姿を見極めて作られているようなところがあって、その点では職人技的で見事ではありますが、出来たときには閉じてしまって、外に向かって開いているところがなさすぎるように思う。それよりかは、作者自身がどこに向かっているのか見当がつかないでいる破天荒な作品の方が、あるいは目指している方向は分かっているけれども、目標が巨大すぎて破綻しかけているような作品の方が、やっぱり素晴らしいと思う。
「それでは、巨鯨について書く私はどうか? 思わず知らず、私の書く文字はプラカードの大文字のごとくになる。禿鷹の羽ペンがほしく、ヴェスヴィアスの噴火口をインク壺としたいのだ! 友よ、私の腕を押えてくれ! この巨鯨についての私の思想を書きつづるだけで、腕は私を引きづりまわし、私は息もたえだえになり、腕が伸び進んで、広くあらゆるものを、ーあらゆる科学の分野を渉猟し、過去、現在、そして未来の、あらゆる鯨と人間と巨象との年代記を包含し、地上のあらゆる帝国の盛衰のみかは、全宇宙とその周辺をも描きつくそうとするのに、追いつきかねるのである。広汎で自由な主題の徳とは、かくも絶大である。われわれもその大いさとともに大きくなる。雄大な書を生むには、雄大な主題を選ばなければならない。ノミについては、試みたものは少なくなかったかも知れないが、いまだかって、雄大不朽の書が作られたことを聞かない。」
(メルヴィル 白鯨 第104章「化石鯨」 岩波文庫:阿部知二訳)
メルヴィルは狂人ぽいしホモだし世間に認められずに悲惨な末路をたどった作家であるのに対し、志賀直哉は日本きっての文豪であり「小説の神様」であり文化勲章受章者だから、彼が書いた立派な作品をノミについての書というのはあまりにひどい言い方かもしれないが、正直いうとそんなところが確かにあるのではないかと思います。 -
「志賀直哉は自転車が好きだった」と聞いて親近感を感じて読んでみた1冊。「自転車」という作品も含まれる全集で、とても読みやすく志賀直哉という人のことを見直した1冊になりました。なにしろ文章がとんでもなくうまい。すらすら読める。国語の時間に作品と名前だけを暗記してわかった気になっていた自分は何をしていたんだ。その暗記した人物の作品を読んでこそ、自分の身になるものがあったはずなのに。でも結果として読めてよかった。同じ時期に芥川龍之介や武者小路実篤がいたことも、文章を読めば出てくるのだから自然と頭に入るもんだな、とも思いました。
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『城の崎にて』を読み、志賀直哉さんが面白そうと思い、本書を手に取りました。
短めの小説やエッセイがたくさん集まった1冊で、通勤やお昼休みなどちょっとした空き時間に楽しく読めます。
1つ1つのお話にとても引き込まれ、お話の終わりには「もう終わりかぁ」と寂しくなったり、「このあとどうなったんだろう」とその先が気になったりして。よき1冊でした。 -
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