- Amazon.co.jp ・本 (622ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480430137
作品紹介・あらすじ
古今の怪奇幻想文学の中から厳選に厳選を重ねて編まれた3巻本アンソロジーの本書は「幻想」篇。現世と異界の往還、神秘の探究、夢の不思議-ノヴァーリス、ホフマンからマッケン、ボルヘスまで眼前の現実を超えた世界を熾烈に追い求めてやまない幻視者たちの文学を集大成。齋藤磯雄、中山省三郎、堀口大學ほか一時代を筑いた翻訳家たちの名訳で読む、文豪たちの名作幻想小説アンソロジー。
感想・レビュー・書評
-
ホフマンといえば、アンソロジー収録頻度が高いのは圧倒的に『砂男』なんだけど、それを外して石川訳の『黄金宝壺』が収録されているのが素晴らしい。『黄金の壺』ではなく『黄金宝壺』なのがニクイ。反面、齋藤磯雄訳『ヴェラ』を新仮名にしたのはかなりビミョー……。ところで、齋藤訳のリラダンが新仮名で公刊されたのってこれが初めてだったりする? 見たことない……。
-
一瞬ファンタジーっぽい中に混ざるホラー。
めっさこわい!とかではないけれど、ゾクッと来るものがあったりします。
街の異様さとか、その異様さを全く意識してない登場人物とかも怖い。 -
幻想小説アンソロジー。奇妙で美しく、少しばかり恐ろしさも感じられるラインナップ。ホラー度はやや薄めかな。
お気に入りはW・デ・ラ・メア「なぞ」。優しいタッチでしっとりじんわりと、何か恐ろしいものが潜んでいる一作。はっきりとしたことがわからない点にも惹きつけられます。
フョードル・ソログープ「光と影」も優しいタッチの怖い話。あからさまに怖がらされるより、こういうのの方がじわじわ来るなあ。 -
世界幻想文学大全の最終巻。レビューの諸氏の中には異論を挟む方も多いのではないか。まぁ長編作品は国書刊行会の古書を選んで頂けたらと思う。コントファンタスティックの短編アンソロジーだと考えて差し支えない。個人的には読みたい作品が揃って収録されていて嬉しい。
-
幻想小説の名著がまとめられた作品集。ノヴァーリスの「ザイスの学徒」、ジャンパウロの「天堂より神の不在を告げる死せるキリストの言葉」など、神秘主義的、ロマン主義的傾向の作品も収録され、より、広範多様な面から幻想小説の歴史を辿ることができる著作。ただ、カフカの「家父の気がかり」を収録するよりは「変身」を収録した方が、幻想小説集としてはより味が出たと思う。
-
カフカがいたから真っ先に神髄を購入。かなり広範囲から集めて来た「幻想」だなって印象です。
ホフマンはかなり王道ファンタジーって感じがして、個人的にこのアンソロジーの顔かなと思いました。
かと思いきや、シュルレアリスムや不条理とセットにされることが多いカフカがいて、ビアスがいて、魯迅がいて。適度なスパイスがとても良いですね。そして最後にボルヘスがいる。ボルヘスの安心感はなんでしょうね、笑。
様々な種類の幻想文学が楽しめると思います。
ホラーとファンタジーで分けるなら、ファンタジーを集めたらしい本作。ファンタジーというと「剣と魔法のファンタジー」を連想しがちなんだけど(そんなことない?)、そうではない。
現実があってこその幻想だなと読んでいて思いました。
序盤が哲学やキリスト教的な要素が強いので、すっと入りにくい感覚はあります。そこがちょっと苦手だった。
とりあえず反省すべきは、入門編をすっとばしたことだろうか…。予備知識がなくても、ある程度楽しめる事だけは保障できます。 -
・東雅夫編「世界幻想文学大全 幻想小説神髄」(ちくま文庫)は先の怪奇編に続く。その書名にふさはしいアンソロジーであると言へるかどうか。これは私個人の感想であつて、編者のではない。編者東氏はこれが幻想小説の神髄であると言ふのである。しかし、私にはさうは思へない。簡単に言へば、本巻所収の作品の多くが私の幻想小説のイメージに合はないのである。巻末の編者解説にかうある。「『幻想』と『怪奇』の両極を有するこの楕円体は、実のところメビウスの帯のごとく、ひとひねりして両極が繫がった奇怪な構造を有しているようで、彼岸への切々たる憧れは、しばしば異界への底深い怖れに転じ」(605頁)るから、「指輪物語」等の「永遠 なるものを探索する驚異の旅の途上で旅人たちは、畏怖や恐怖に総身を震わせる事態に否応なく直面させられること再々」(605~606 頁)である。所謂ファンタジー、あるいは幻想小説といつたところで、物語の最初から最後まで怪奇や恐怖の類と無縁なことはほとんどない。 むしろ、さういふものがなければ話は進まないといふ物語がほとんどであらう。これからすれば東氏の言は正しい。私はこのあたりを截然と分けて考へる傾向があるやうで、怪奇は暗く幻想は明るいといふ、極めて大雑把でしかも偏見に満ちた考へを持つてゐる。「指輪」のやうなヒロ イック・ファンタジーはまた別枠であつて、所謂幻想小説とは一線を画すと思つてゐる。これは個人的な嗜好に従つた考へ方、感じ方である。 だから東氏とは合はないのである。怪奇は一致しても、幻想にはズレがある。これが本書が私のイメージに合はないといふことであり、本書の 言ふ「神髄」に対する私の違和感である。これは読む前には考へもしなかつたことであるから、読み終へてみると実に意外であつた。さうして、改めて目次を眺めてみれば、本書は正に異色の幻想小説アンソロジーであつた。読みながらも薄々と感じてはゐた。読み終へて、改めてそ れを確認するのである。
・本書はジャン・パウルに始まる。以下、ノヴァリス、ティーク、ホフマンと、巻頭4作がドイツロマン派である。ティークは「金髪のエック ベルト」、ホフマンは「黄金宝壺」である。これは正統派幻想譚と言へる。しかし、ノヴァリス「ザイスの学徒」は幻想小説なのだらうかと思ふ。ジャン・パウルも同様である。ドイツロマン派=幻想といふ図式ができてゐるのかと思ふと、以下、リラダン、ビアス、マッケン、デ・ ラ・メア、ダンセイニ等々と続き、更に魯迅やボルヘスも出てくるから、一応は洋の東西を問はずに選ぶといふ構成になつてはゐる。しかし何か違ふといふ感じがつきまとふ。トーマス・マンやカフカ、ブルーノ・シュルツが出てくると、これはどうだと思ふばかりである。いづれもそ れなりに幻想譚であると言へるかもしれない。それでも「クレプシドラ・サナトリウム」をこの中に収めて良いものかどうか。結局はこれが東氏の幻想観だと思ふばかりである。つまり、幻想の怪奇に傾いた部分、解説中の言で言へば「ダークサイド」(607頁)に重きを置いて考へるといふことである。ファンタジーの暗い側に焦点を当てたアンソロジーが本書なのである。デ・ラ・メア「なぞ」も長持ちから異世界に行け るわけではない。タンスからナルニアに行くのとは違ふ。マッケン「白魔」も所謂ケルト妖精譚とは本質的に違ふ。ああいふ雰囲気が幻想小説だと思ふ人間は、だからこのアンソロジーの雰囲気には違和感を持たざるをえない。要は、どこまでを幻想と見るかである。それが私と東氏では違ふ。幻想は暗いか否か、そこが好悪の分かれ目である。それでもおもしろい……。 -
ジャン・パウル「天堂より神の不在を告げる死せるキリストの言葉」
ノヴァーリス「ザイスの学徒」
ルートヴィヒ・ティーク「金髪のエックベルト」
E・T・A・ホフマン「黄金宝壺」
ヴィリエ・ド・リラダン「ヴェラ」
アンブローズ・ビアス「アウル・クリーク橋の一事件」
フィオナ・マクラウド「精」
アーサー・マッケン「白魔」
フョードル・ソログープ「光と影」
マルセル・シュウォップ「大地炎上」
W・デ・ラ・メア「なぞ」
トーマス・マン「衣装戸棚」
ロード・ダンセイニ「バブルクンドの崩壊」
ギヨーム・アポリネール「月の王」
魯迅「剣を鍛える話」
フランツ・カフカ「父の気がかり」
J・シュペルヴィエル「沖の小娘」
エヴゲーニー・ザミャーチン「洞窟」
ブルーノ・シュルツ「クレプシドラ・サナトリウム」
ホルへ・ルイス・ボルヘス「アレフ」
全編、これ傑作と言いたくなるような充実っぷり。
あえて好きなのを挙げると、
ヴィリエ・ド・リラダン「ヴェラ」:ポオのアッシャー家やリジイアを連想させるテーマだけど、これはひとつの完成形。
アーサー・マッケン「白魔」:圧倒的な想像力が駆使された手記と、幼い少女の姿が心に残る。
魯迅「剣を鍛える話」:強烈なヴィジョンと、教訓と、粋な物語。
ブルーノ・シュルツ「クレプシドラ・サナトリウム」:一番雰囲気が好きな作品。
最初から順番に読んでいくにつれ、幻想小説には文体が不可分な要素として存在するのかと思っていたところ、最後の「アレフ」でいろんな技巧を施すものの「詩を賞賛するための屁理屈」にこそ真骨頂があると主人公に称される詩人が登場して、自分は不安になってしまった。
幻想小説と文体の関連性が気になった。
そう言えば東京創元社の「未来のイヴ」は、正漢字・歴史的仮名遣いでしたね。。。
そう言えば東京創元社の「未来のイヴ」は、正漢字・歴史的仮名遣いでしたね。。。