宗教を「信じる」とはどういうことか (ちくまプリマー新書 415)
- 筑摩書房 (2022年11月10日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480684394
作品紹介・あらすじ
科学の時代に神を信じることは出来るのだろうか? この世に悪があることを宗教はどう説明するのか? 素朴な疑問を通して、宗教と人間のリアルに迫る。
感想・レビュー・書評
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石川明人(1974年~)氏は、立教大学文学部キリスト教学科中退、北大文学部哲学科卒、北大大学院文学研究科博士学位取得、北大大学院文学研究科助教、桃山学院大学社会学部准教授等を経て、同教授。専門は宗教学・宗教社会学。
私は、基本的に無神論の立場で、更に言えば、世界中の対立・戦争の元凶のひとつともいえる一神教については、否定的にさえ捉えている。そして、なぜそうした宗教が存在するのかについては、常々疑問に思っており、本書のタイトルに大いに興味を持ち、手に取った。
著者は、「宗教を「信じる」とはどういうことか」という深遠な問いを、第一章:そもそも「信じる」とはどういう行為なのか、第二章:神を「信じ」ているとき、人はそれをどう語るのか、第三章:この世には悪があるのに、なぜ神を「信じ」られるのか、第四章:同じ宗教を「信じ」ていれば、人々は仲良くできるのか、第五章:神を「信じ」たら、善良な人間になれるのか、という問いに分けて語っていくのだが、結論を先に言ってしまうと、いずれの問いに対する答えも書かれてはいない。
著者が冒頭で、本書の狙いについて、「宗教という営みの「わからなさ」、あるいは「捉えがたさ」にあらためて気付いていただくことを目指しています」と書いている通り、問いを更にブレイクダウンしつつ、様々な立場からの、様々な(ときに矛盾するような)解釈の仕方を並べていくだけである。
私は、正直少々フラストレーションを感じながらも、何らかの答えのようなものが示されるのだろうと思って読み進めたのだが、最後に書かれていたのは、「大事なのは、「宗教」という究極の「人間的な営み」をとおして、人々が問うたり悩んだりしてきたもの、あるいは「宗教」それ自体から滲み出ている人間のいかんともしがたい矛盾や限界を、ただ素直に見つめることだと思います」というものであった。
読了直後の今、本書の結論(?)に対する性急な評価は避けたいが、ここに至って湧くのは、「(ある特定の)宗教はなぜ創られたのか?」という問いである。(敢えて一神教のみを挙げるが)モーセ、イエス、ムハンマドが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教を創った目的は、本当に「人間の矛盾や限界を素直に見つめること」だったのか。。。そして、世界中のユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒が、各々の宗教を信仰する理由も、本当にそうなのか。。。
特定宗教の信者の少ない日本において、宗教の意味を説明するにはよいのかも知れないが、世界に目を向けたときに、一神教の信者の同意を得て、その結果として、世界中で起きている(宗教を原因とする)対立や戦争の解決が見通せるような結論とは到底思えず、モヤモヤ感の残る内容と言わざるを得ない。
(2024年2月了) -
う〜〜〜ん
なかなか難しいというか
書いてあることは理解できているつもりだけれど...
この本のタイトルを見て、この本の中に答えがあるような気がして読んで見たが...
謎が深まるというか...
ただ思ったのは
「信じる」事は能動的な事で、受け身なことではないと思っている。
宗教...を信じる...となるとまた一つハードルが上がる気がしてくるけど...
何かを「信じる」ことはなんというか明日に繋がる気がする...
いつだった読んだ本に「自分の本当の気持ちは神様にしかわからない...」みたいなことが書かれたあるのを読んだ記憶があるけど...
自分の気持ちすらわからない時がある...
口ではこう言っているけど心の中では違う思いがある...とか...
宗教はなんか生き方の指針みたいなところがあるようにも思うし、道徳観を養う...みたいな感じもしている...
なんだかややこしい本を手にした感あり...
そもそも宗教ってなんだ?って感じにもなってきた... -
タイトルがややミスリードで、「宗教」を信じる、ではなくて、内容としては「神」を信じる、とはどういうことか、を論じておられます。内容としては、学術的見地に基づいて、非常に地に足の付いた落ち着いた論を展開されていると感じました。
と同時に、はじめににも、すっきりしていただくことを目的としていない、とあるように、すっきりしたい人にはお勧めしません。
自分は宗教をやっていますが、他人には勧めません。それは、自分が他人の幸せにあまり興味がない冷たい人間の表れなんだとも思っていますし、そもそも宗教を勧めることで人間関係を悪くしたくないという、保身のためでもあります。
自分が宗教をやるのは、その教義を自分が身につけることで、人格者を目指しているからで、ある意味自己満足です。
自分の経験から言えば、本書の4章のタイトル、同じ宗教の人なら仲良くなれるかと言えば、そんなことはありませんし、逆に自分と同じ宗教でない人でも、素晴らしい人格者の知り合いはたくさんいます。宗教に限らず、人間が集団を営むのであれば、善人だけの集団はあり得ないでしょう。
本書内にもありましたが、武道・スポーツ・芸術もそれで人格者になれるわけではないので、宗教も芸術みたいなものかもしれませんね・・・。
わからないことをわからないままにしておけて、そういった人やものを排除しないでそのまま置いておけるという心のゆとりが、現代日本には必要なのかもしれないなと思いました。 -
「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与え給え。変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与え給え。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与え給え。アーメン」p.69
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宗教は真摯に「信じる」ことによって"生きる力"を得られ、また神様を畏れることによって善人でいられるのだと思う。
しかし人間は弱いものなので時には神様に反することもするし、人と憎みあうこともある。しかしそれでも神様を信じることにより、時間がかかることもあるが全ては神様のご計画のもとと思うことにより癒されたり、悩みの答えを見いだせたりもする。神様がいて神様だけが答えを知っているから、だから難問にも立ち向かえる人もいる。神様は自分の中で感じるものだと思う。
作者のよう、クリスチャンだとしても神様を全く信じなければ何も感じないし何も起きないのではないかな。
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典型的な日本人である私は神社にも行くし、寺にも行く。だがそれは儀礼的なものだ。私にとって神は存在しても、していなくともどちらでも良い。信仰心の厚い人との会話の中で違和感を感じる事は、この世の全てを『神の采配』『神の思し召し』『神が与えた試練』といった具合に現状の起源を神に収束させる発言である。これと「偶然とは無知の告白である」とは何が違うのか?物事には必ず因果律がある。私達に与えられた知性は因果を辿るだけの能力がある筈なのだか、あらゆる結果を神だとか偶然だとかに収束させて、そこで思考停止する、その姿勢こそ神が最も望まないものではないのかといつも考え込んでしまう。
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冒頭で述べられたように「わからなさ」に関して書かれたものであった。しかし、そのわからなさを表面的に明確にしただけのようにも感じた。わからなさに対する著者の意見が煮詰まってないようにも思え、最終的にはあとがきの「私たちが宗教を理解し尽くすことはおそらくないでしょう」に集約される。もちろんそれには同意だが、読み物としての深みはなくわからなさがわかっただけで、宗教をとらえ直したり深めたりするきっかけにはならなかった。
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私はこの著者(桃山学院大学教授)のファンだ。
これまでに読んだ著書のうち、『キリスト教と戦争』『キリスト教と日本人』『私たち、戦争人間について』は、それぞれ名著であった。
宗教学と戦争論が専門の著者が、宗教を「信ずる」という営みそのものの本質について、さまざまな角度から深く掘り下げていく内容である。
キリスト教史についての言及が比較的多いものの、内容に宗派性はない。他宗教の信徒や宗教を持たない人にとっても学びになるだろう。
「ちくまプリマー新書」は「ちくま新書」よりも対象年齢層が低いのだが、本書は、たとえば高校生が読むにはややハイブロウな議論が展開されている。「です・ます調」の文体は平易だが、内容は高度なのだ。
大人の読者にとっても学びになる、密度の濃い一冊。