ハザール事典 男性版―夢の狩人たちの物語

  • 東京創元社
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  • Amazon.co.jp ・本 (380ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784488013592

作品紹介・あらすじ

かつて実在し、その後歴史上から姿を消したバザール族。この謎の民族に関する事典の新版という形をとった前代未聞の事典小説。キリスト教、イスラーム教、ユダヤ教の交錯する45項目は、どれもが類まれな奇想と抒情と幻想に彩られ、五十音順に読むもよし、関連項目をとびとびに拾うもよし、寝る前にたまたま開いた項目一つを楽しむもよし、完読は決して求められていないのです。失われたバザール語で歌う鸚鵡、悪魔に性を奪われた王女、時間の卵を生むニワトリ、他人の夢に出入りする夢の狩人…。オーソドックスな物語文学の楽しみを見事なまでに備えながら、その読み方は読者の数だけあるという、バルカンから現われた魅惑に満ちた(21世紀の小説)。本書には男性版・女性版の2版があります。旧ユーゴスラビアNIN賞受賞。

感想・レビュー・書評

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  • ハザールは、もと遊牧民の国家。カガンと呼ばれる君主をいただき、7世紀から10世紀、カスピ海と黒海にはさまれる地方一帯に定住したといわれている。 10世紀後半にルーシ(ロシアの古名)によって滅ぼされた一国家が歴史に名を残しているには理由がある。実はこのハザール、滅亡する直前に固有の古代信仰 を捨て、ユダヤ教に改宗している。ユダヤ民族でない国家がユダヤ教を奉ずるのは他に例がない。ユダヤ教改宗以前にイスラム教に改宗したという説もあり、改 宗に至る経緯が謎を呼び、現代に至るも論議がつきない。

    そのハザール改宗という史実を素材にして『ハザール事典』という架空の書物を捏造 したのは、セルビア生まれの作家ミロラド・パヴィチ。実は『ハザール事典』という書物は17世紀に一度出版されている、とまえがきにある。初版一部は毒物 をしみ込ませたインクで印刷されていたので、読んだ者は次々と死に見舞われるという『薔薇の名前』を地でいく惨劇。世に出た版も教義問答を含むことから禁 書とした宗派もあり、原書は散逸してしまう。わずかに残されたテクストの断片を収集し、新たに項目を立て、事典の体裁で出版されたのがこの第二版『ハザー ル事典』というわけである。

    それでは『ハザール事典』には何が書かれていたのかといえば、それが世に言う「ハザール論争」である。すべて は、君主カガンが見た一夜の夢にはじまる。不思議な夢の解釈に悩んだ君主は、夢を見事に解いてみせた学者の信じる宗教に国を挙げて改宗するという約定を発 し、夢占いに長けた学者三人を各地から呼び集めた。招聘に応じた学者はイスラムの行者、ユダヤ教のラビ、キリスト教の修道僧の三人である。

    こ れには原典がある。林達夫によれば、ボッカチオの『デカメロン』、レッシングの『賢者ナータン』他幾つもの話のもとになった「三つの指環の物語」がそれ だ。カリフがユダヤ教のラビを困らせようと、三兄弟のうち誰の相続した指環が本物かを答えさせようとする。三人のうち誰と答えても、カリフの奸計に落ちる ところをラビは上手く言い抜けて助かるという話だ。無論三兄弟とは、同じ神を父と仰ぐ、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教を指している。

    原 典は寓話らしくもっともな解釈が用意されているが、読者に「開かれた本」をモットーとするパヴィチにはそんなものはない。『ハザール事典』は、三つの宗教 の立場から書かれた三冊の書物を合本し、一冊にまとめたもの。当然のことながらキリスト教修道僧の話を書きとめた「赤色の書」は、キリスト教に有利な解釈 しか書かれていない。それはイスラム教の「緑色の書」、ユダヤ教の「黄色の書」とて同じ。いずれの宗教者がカガンを満足させたのか真相は『薮の中』という わけだ。芥川の原作を映画化した『羅生門』でもそうだったが、異なる世界を一つの平面で並べて吟味するためには、三つの世界を往還することのできる狂言回 し役が必要になる。言語も宗教も異なる三つの世界をつなぐのが<夢の狩人>である。

    その昔ハザールには<夢の狩人>と呼ばれる異能の者が いて、他人の夢に入り込んではその夢を見ることができたという。星の観察から天文学が生まれたように、そうして見た夢の観察記録を網羅した大辞典を創造し ようというのがハザールの古代宗教であった。夢の収集を通じてアダム以前のアダムに至るというハザールの思考には人間の無意識の世界を発掘したフロイト博 士の影が落ちている。

    旧ユーゴスラビアからセルビアへと国家体制が変わるたびに、そこに住む人々は人種や宗教、イデオロギーの対立に翻弄 され続けて来た。夢を見ることは誰にもできるが、夢から覚めたら現実が待っている。現実が夢より良いものとは限らない。だったら、その現実からはどうした ら覚めることができるのだろう。それには意識のある状態のままの覚醒しかない。一見読み物としての面白さに徹したように見えるこの作品に隠された、意外に それが作者のメッセージなのかもしれない。

    事典形式を採用することで、読者は初めから終わりに向かって一直線に進むリニアな読書法を強制 されることがない。関連する項目をたどりながら、時間も空間も異にする世界を往ったり来たりさせられる裡に、どうやらシェヘラザードの罠に落ちたハルン・ アル・ラシッドよろしく物語の世界から出られなくなってしまうという次第。エキゾチズムに溢れた千夜一夜物語を想わせる入れ子状の構造を駆使し、カガンや 王女アテー、そして<夢の狩人>の系譜を引くハザール学の権威たちが、悪魔と狡知を競いながら、論争当時、初版『ハザール事典』が出版された17世紀、そ して現代という三つの時代を「生まれかわり」や「夢のお告げ」によって自在に往き来する多重構造の物語世界。先行作品を換骨奪胎し、自家薬療中のものとす る作者の構想力には舌を巻く。

    歴史上に実在する人物や事跡と虚構のそれとを綯い交ぜにすることで、『ハザール事典』という「偽書」をまる で現実に存在する書物のように仕立て上げた手腕は並々ならぬものがある。世界を「一冊の本」として創造することは、マラルメをはじめ多くの先達が夢みてき た。この第二版『ハザール事典』一巻は、その夢の神殿に捧げる新たな貢ぎ物としての資格を十二分に持っている。ボルヘスやウンベルト・エーコが創造した知 的迷宮の伽藍を彷徨い歩くことが好きな読者には何をおいてもお勧めする究極の一冊。ただし、『ハザール事典』には「男性版」と「女性版」があり、その内容 は一部異なる。作者はそれぞれの版を読んだ男女が語り合う姿を夢想している。読書という孤独な作業がそれによって報いられるように、と。

  •  しかし、連れに「そんなの読めない~!」と最初からあえなく言われてしまって撃沈した評者は、物語を誰かと分け合う体験ができませんでした。こうなったら一人二役です★ 女性版を読み終えると、男性版にも目を通したのでした。

     そこで知った衝撃の事実。二つの差異は、わずか17行……!! 決して安くないお値段の本なのに。
     違う箇所はゴシック体で記されているので、すぐ分かります。お仲間のいる人は互いに一冊ずつ消化して、あとから強調されている部分を見せ合えばいい。『ハザール事典』のような奇書で趣味が一致する友達なんて、いたらそれだけで宝ですね。

     王女アテーの口から物語がほとばしったように、ふとした時に夢の断片が飛び出しそうになる。他人の夢のなかに入りこみ、奥へと進むうち、神の居場所にまで到達してしまった夢の狩人。そして、カスピ海の底で世界の正しい時間を刻んでいる、目のない魚……。奇想の数々にただ酔いしれるのみです☆

     ところで、パヴィチの本は必ず仕掛けがあって、「モノ」としての書籍の楽しみに彩られています。『風の裏側』も、一冊のうち半分が女性版、もう半分が男性版でした。そして、彼らが出会う場面は、本の外にある……。
     また、この作者は舞台芝居も手がけているそうですが、それが小説に負けず劣らず凝った趣向★ 観客がいくつかの選択肢から話の展開を選べるというもので、芝居の中身は日によって変わるのだとか。

     完成をみる肝心の場面、決定的な瞬間を、作者自身が書かない。読む側にゆだねられている。読み手の空想と著者の夢想とが融合する地点、その心地よさが私をのめりこませていきます。
     究極のところにあるのは、両思いの感覚かな? 結構ロマンティストなのかもしれませんね、パヴィチという人は。知性にがっしり支えられた重厚な書物だけど、時に、少年が見るようなふわふわの夢に覆われているような気もします。

  • 感想は男性版にて

  • パヴィッチの作品が日本語で読めるそれだけで意味がある。

  • 相性が悪かったらしく、読み通すのに苦労した(寝てしまう)。『帝都最後の恋』はけっこう楽しく読んだので、もう一段凝った構成をとった本書でパヴィチ的奇想を楽しめなかったのはわたしの読書体力の問題かもしれない。同人物が三つの書のそれぞれで参照されるたびに情報がつながっていく感覚はあるのだが、それに盛り上がれず、「それで?」となってしまう。

    のれない読書をしていると行間に著者のドヤ顔を幻視してしまうのだが、本書でもちらちらとパヴィチのにやにやが見えてしまった。残念。

  • 部品!

  • 入り込めずに終了。
    辞書好きにはたまらないかも。

  • 人物や出来事が繋がる快感、物語を楽しみつつも、頭を働かせる面白さがあります。色々な視点で同じものを見れるのも面白かった。
    独特な構成が成功している素晴らしい作品だと思いました。

  • 本に読まれて/須賀敦子より

  • 1691年にわずかに出版されたハザール族に関する事典の第二版、という変わった設定を持つ小説。形式からして事典そのものだが、あくまでも小説である。
    各項目間のつながりは、最初はさっぱり分からないが、読み進めるうちにこの本の重層的な構造が見えてくる。また、個々の項目で語られる話も十分に面白い。読書の楽しみが存分に味わえる傑作中の傑作といえよう。

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